ベルナー・オーバーラントのブラームス
作曲者 : BRAHMS, Johannes 1833-1897 独
曲名  : ヴァイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調 Op.108 (1887-88)
演奏者 : ヨゼフ・スーク(vn), ヤン・パネンカ(pf)
CD番号 : DENON/COCO-708855

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セガンティーニ作三部作その2「存在」
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スイス・音楽史探訪(未刊) より 第三章 (四)ベルナー・オーバーラントのブラームス

 一八八六年の五月、ブラームスは友人で詩人のヴィートマンの勧めでベルンにほど近い、湖畔の町トゥーンにやってきました。ブラームスの滞在をトゥーンの人々は町をあげて歓迎したといいます。ブラームスもまた、このアルプスを望む町が大いに気に入り、これから三年間、毎年夏になるとこのトゥーンにやって来たのでした。
 詩人のヴィートマンは「スイスのブラームス」という一文を残していますが、最近その日本語訳が出版されて、ブラームスのスイス滞在の様子が描かれていて実に興味深いものでした。(ブラームス回想録集3「ブラームスと私」天崎浩二編・訳、関根裕子共訳、音楽之友社刊)この本を参考に、他のいくつかの資料を合わせてブラームスのトゥーン滞在を見ていきたいと思います。
 一八八六年の五月にトゥーンに到着したブラームスは、トゥーンの旧市街、トゥーン湖から流れ出すアーレ川の河畔の一軒家の二階を借りて、荷をおろしたのでした。この家を大変気に入ったブラームスはこれから三年続くトゥーン訪問の度にこの家を借りています。
 ブラームスとここに住んで作曲の筆を進めながら、友人のヴィートマンのところに足繁く通っていますが、トゥーンからベルンまで、すでに列車が通じていましたし、その時間も三十分ほどであったはずで、近所とは言えないまでも、出かけるのは全く苦にならなかったと思われます。
 この下宿は広いベランダがあり、大きな部屋との間を行ったり来たりしながら、最初のトゥーン滞在でまずチェロ・ソナタ第二番ヘ長調が完成します。冒頭からスケールの大きい楽想がチェロから迸り出でて来るようなこの作品に続いて書かれたのはヴァイオリン・ソナタ第二番でした。のどかに始まり次第に大きなスケールの音楽に発展していく様は、巨匠の筆にだけ許された世界だと言えましょう。
 そしてこのソナタに引き続いて雄大で情熱的なピアノ三重奏曲第三番ハ短調が完成します。
 ブラームスは週末、ベルンのヴィートマンの家を訪れ、マルセイユの彼のファンから送られてくるコーヒー豆のモカをお裾分けして一緒に楽しんだりしながら、新しく書き上げた作品を演奏したのでした。友人ヴィートマン邸にやってきたブラームスはそのまま火曜や水曜まで滞在しつづけたりもしているとヴィートマンは書いています。
 こうした週末を楽しんだ他に、ブラームスとヴィートマンはアルプスに頻繁にハイキングに出かけています。
 ブラームス作品の出版で有名なジムロックがスイスのブラームスを訪ねてきたこの年の七月、ヴィートマン一家とともにカンデルシュテークに滞在しています。そしてここからほど近いエッシネン湖やニーセン山などにハイキングに出かけています。ブリュムリスアルプの麓、ドルデンホルンの切り立った岩山の麓のエッシネン湖は、幾筋もの氷河を源とする滝が流れ込んでいますが、流れ出す川がない不思議な湖です。地下水となって谷の中腹に流れが地表に現れています。
 エッシネン湖畔の小屋はブラームスが滞在した頃にもありました。もう百年以上も経つ山小屋に泊まると、ブリュムリスアルプに輝く夕焼けはまさに絶景。ブラームスもこの山小屋に泊まったのではないでしょうか?
 またトゥーンの町から美しい二等辺三角形の姿を見せているニーセン山に登山したりもしています。今日では、ニーセン山の山頂までケーブルカーで行くことが出来ますから、そう大変なことは有りませんが、徒歩で登るとなるとかなりの労力を要したことでしょう。エッシネン湖に行くのにも登りの大半をリフトで上がることが出来ますから、私たちはブラームスのように歩いて行かなくても良いので、楽が出来ます。
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 ブラームスとヴィートマンは、九月にベルナー・オーバーラントの絶壁の上に開けた小さな村、ミューレンに出かけています。ミューレンへの鉄道が開通したのは一八九一年のことですから、当然徒歩で行ったはずです。ブラームスとヴィートマンはギンメルワルドを経由してシュテッヒェルベルク経由で登り、下ったと思われます。
 登りはひょっとするとイーセンフルー経由でグリュッチュアルプからミューレンに入り、そこからギンメルワルド経由で戻ったのかも知れませんが、どうも私の考えすぎかも知れません。ケーブルカーの通っているところの近くを急坂で登る道が可能性としては高いかも。ヴィートマンは「肥満体のブラームスの登山は容易ではなかったが、下りともなると転がるように下って行く彼に誰も付いていけなかった」と書いています。なるほど!
 ところで、ユングフラウやアイガーの姿、あるいはラウターブルンネンの谷とそこに流れ落ちるシュタウプバッハの滝などは、ブラームスの目にどのように映ったのでしょうか。
 さて、トゥーンに滞在したブラームスは前記の大作の他にも歌曲をいくつか書いています。いずれも低声用で、一八八三年に知り合ったシュピースのコントラルトの声を想定して書かれたものと考えられています。作品一〇五の第一曲「メロディーのごとく」、第二曲「まどろみはいよいよ浅く」や第四曲「教会墓地にて」や作品一〇六の第一曲「セレナード、月は山の上に」は傑作して名高いものです。
 
 翌一八八七年の四月の終わり、ブラームスは前年の楽しい滞在を思い出しながら、ウィーンを後に、チューリッヒの作曲家キルヒナーや音楽出版のジムロックと途中で合流して、トゥーンに到着します。五月中旬のことでした。
 しかし、このトゥーンで親友のハイドンの研究家としても知られるウィーンの音楽学者カール・フェルディナント・ポールの訃報を受け取り、ブラームスは悲しみに沈む滞在となりました。加えて、音楽愛好家で親友であった外科医ビルロートの病気の知らせに、ブラームスはとうとう人生のたそがれの時を迎えていることを強く意識したに違いありません。
 しかし、この二回目のトゥーン滞在では、ヴィートマンやグロート、更にブラームスが密かに思いを寄せていたと言われる歌手のヘルミーネ・シュピースと過ごしています。
 しかし、前年は多くの日々が好天に恵まれたのでしたが、この年は雨が多く寒い夏であったようです。ですからあまりアルプスの散歩に向かわず、ブラームスはヴィートマン邸を度々訪れています。またトゥーンに滞在するブラームスの下宿には、ドイツやオーストリアから著名な文人たちが頻繁に訪れています。盟友ハンスリックの訪問もありました。
 七月になると、多少天候が持ち直し、青空が広がる日も増えてきます。ヴィートマンとブラームスは再びミューレンに出かけ、ギンメルワルドからラウターブルンネンの谷を散策していますが、こうしたアルプス散歩をヴィートマンは実に生き生きと描写していて、彼の「スイスのブラームス」の一文は興味が尽きないものがあります。
 前年のトゥーン滞在中に書き始めたヴァイオリン・ソナタ第三番の作曲が二年目の滞在で続けられていますが、この作品はこの年に完成はされませんでした。しかし更に重要な作品がこのトゥーンで生み出されました。それは、作品番号一〇二のヴァイオリンとチェロのための協奏曲イ短調です。
 一八八五年に、ブラームスは第四交響曲を完成させています。そして、このトゥーンにブラームスは第五交響曲の構想を持ってやって来たのでした。でも、年来の親友であった大ヴァイオリニストのヨアヒムとの不和を何とかしようと、第五交響曲の構想は次第に協奏曲へと変化していったのでした。
 ヨアヒムとの不和の原因は、ヨアヒム夫人がブラームスに対する好意的な意見をヨアヒムに語ったことで、ヨアヒムがブラームスとの仲を疑ったことから始まったと言われています。嫉妬深いヨアヒムの勘ぐりが原因だけに仲直りは難しくかったようです。
 七月にブラームスは交響曲の構想を協奏曲に改め、ヴァイオリンとチェロという二つの独奏楽器とオーケストラのための作品に変更し、曲の構想についてヨアヒムに手紙で伝えています。これに対しヨアヒムも好意的な返事を寄せ、関係の修復はこのドッペル・コンチェルトがとりもつ形で行われていったのでした。
 そして、ヨアヒムの意見を取り入れながら八月、作品はトゥーンで一応の完成をみます。
 一八八七年九月、二年目のトゥーン滞在から戻ったブラームスは、バーデン・バーテンのクララ・シューマンの家でヨアヒムとハウスマンの独奏とブラームスのピアノでドッペル・コンチェルトの試演を行っています。そして部分的に手直しを加えた上で十月にケルンで、フランツ・ヴュルナーの指揮、ヨアヒム、ハウスマンの独奏によって、このスイスでの成果が演奏されたのでした。クララ・シューマンはこの作品を「和解の協奏曲」と呼んでいますが、その理由はもうおわかりですね。

 三年目。イタリアのヴェローナでブラームスと合流したヴィートマンは、あちこちを見て回りながら、トゥーンに到着します。この年、二年越しとなったたヴァイオリン・ソナタ第三番ニ短調をブラームスは完成させますが、それ以外はあまり作曲していません。
 ヴィートマンともブラームスは政治論争を戦わせて、少し距離を置いていたこともあったようです。ヴィートマンのこの年の記述もまた少なく、手紙でのやりとりが中心になっているところからもそうしたことがわかります。
 こうしてブラームスのスイス滞在は終わりを告げるのでした。本当は次の年もブラームスはトゥーンに来るつもりだったようです。愛用のコーヒー器具をヴィートマンに預けてウィーンに戻っていったからです。でも、その日が来ることはありませんでした。
 もちろん、チューリッヒのトーンハレのこけら落としに、スイスを訪れたりしていますが、もう長期の滞在はウィーンから近いバート・イシュルなどになっていくのでした。ヴィートマンに宛てた手紙でブラームスは「土曜日は憂鬱だ。ベルンに行く列車がここバート・イシュルにはないから」と書き送っています。それほど彼はトゥーンの滞在を愛していたのでした。

 アーレ川沿いの小道はブラームスの散歩道として知られています。没後百年の年に訪れたら、トゥーンの町中にブラームスのポスターが貼ってありましたが、トゥーンに滞在したブラームスをスイスの人々は今も忘れていないようです。
 トゥーンにはスイスのレーベルとしても知られるクラヴェースがあります。トゥーン城に登っていく途中のヨハネ教会は、ペーター=ルーカス・グラーフなどの名演が録音された教会です。小さな教会で一息つくと、トゥーン城は目の前。ここまで来ると、ベルナー・オーバーラントの山々も遙かに白銀の姿を映しています。
 この風景の中を、かつてブラームスが歩いていたのです。
by Schweizer_Musik | 2009-02-25 15:12 | CD試聴記
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