ウェーベルンについて
新ウィーン楽派の中で、最も後世に影響を与えたのはウェーベルンだろう。初期の「夏の風の中で」なんていう作品は、1904年というシェーンベルクもまだ「ペレアスとメリザンド」などという作品を書いていた頃に書かれた習作のような作品である。演奏も1961年に遺稿の中から発見されてその翌年にシアトルで初演されたという作品である。ヴィッレの詩による標題音楽であるが、冒頭から分割された多声部の弦楽に長和音と短和音を行ったり来たりさせていたりと、面白い部分がいくつもある。ソロへの偏愛はマーラーのオーケストレーションの特徴でもあり、聞いているとウェーベルンが対照的なマーラーからも大きく影響を受けていたことを実感する。そうあの第十番の交響曲は未完に終わったとは言え、第1楽章のあの深淵をのぞき込むような一瞬は今日の音楽を予感した一瞬でもあったことを思い知るのだ。

シェーンベルクの高弟として世に出たウェーベルンはベルクと共に、二十世紀の最重要な作曲家となっていく。師であるシェーンベルクは1874年の生まれで、ウェーベルンは1883年、ベルクは1884年の生まれという間柄だったが、ベルクは腫瘍により1935年に50年の生涯を閉じた。そしてその十年後。戦争が終わったウィーンの町でアメリカ兵の誤射により突然命を奪われるという悲劇(今もどこかの国であの国はこれを繰り返している・・・悲しいことだ!)を見舞う。師のシェーンベルクはその後1951年まで亡命先のアメリカで(彼はユダヤ人であったため、1933年ナチスが政権をとった時にフランス経由でアメリカへ亡命していた)生き続けた。だから彼は「ワルシャワの生き残り」などという激しい怒りをそのままぶつけたような音楽を残した。師が最後まで生き続けたが、晩年の彼はカリフォルニア大学における教鞭をとることで(その講義の内容は「作曲の基礎技法」という名著となって残っている)、ヨーロッパ時代の先鋭さから離れていった。ナチスによる悲劇が無ければ、シェーンベルクはヨーロッパにとどまり、弟子達と共に更に大きな仕事を残したかどうかは、今となってはわからないが・・・。

ウェーベルンに戻ろう。私が彼の音楽で最初に感動したのは、「パッサカリア」であった。作品番号1とつけられたこの音楽はカルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウィーン交響楽団の演奏会ではじめて聞いたものだった。ほとんど沈黙に近いピアニッシモからフォルテシモに至る大きなダイナミック・レンジにも驚かされたが、精緻な響きは武満徹の音楽を初めて聞いた時の印象にとても近いものがあった。ニ短調を中心として、バロック以前の変奏曲の手法であるパッサカリアという形式を、自分を世に問う最初の作品の形式に選んだウェーベルンは、その基本において、実に古典的な作曲家だった。ベルクの方がずっとロマン派にどっぷり浸かっていた。(もちろんどちらがより優れているとかいうレベルの問題ではない。敢えて言うならどちらも天才だ!)
パッサカリアの主題そのものがすでに調性を微妙に外れるように書かれているが、基本的にニ短調で書かれている。ただ、オーケストレーションは完全に二十世紀のものだ。ハープも多用されているが、ドビュッシーやラヴェルとなんと違うのだろう。
ウェーベルンがいかに天才であったか。それは彼が編曲したバッハの音楽の捧げ物の6声のリチェルカーレを聞くだけでも良いだろう。昨日の授業でこの曲を聴かせ、一つの旋律をいくつかの楽器(音色)に振り分けるという手法を説明し、その点描的な書き方の特徴を感じさせることを目標としていたのだが、どうだったろう。バッハを乗り越えてしまった唯一の編曲であると私は考えている。その意味でこのアレンジは不朽の名作だと思う。現代音楽の音楽番組などでテーマ音楽に使われることも多いが、(原曲を知っている人を除いて)バッハだと思って聞いている人がどれほどいるだろう?
さて、作品1となった1908年に書かれ、初演されたパッサカリアの後、二つの合唱作品と二つの5曲からなる歌曲集でかろうじて調性の殻を残したウェーベルンであったが、作品5の弦楽四重奏のための5楽章を翌年に発表し、調性と決別する。シェーンベルクも調性との決別を同じ頃に行っているが、この頃の二人の音楽には大きな差を私は感じていない。ウェーベルンは基本的に厳しく表現主義的で、激烈な表現に傾斜していた。後の作風とこの辺りは大きく異なる。作品5は1930年に弦楽合奏用にもアレンジされて(これは簡単に思われているが、実はそれほど簡単なものではない!)いるが、それほどウェーベルンにとって記念碑的作品なのである。
作品6の管弦楽のための6つの小品はそうした激烈なウェーベルンを聞くことができるが、シェーンベルクの同時期の作品である5つの管弦楽のための小品Op.16と、ウェーベルンはかなりの差がある。シェーンベルクの方が明らかに激烈に不協和音を強調しているが、ウェーベルンは室内楽的な表現に向かっていて、とてもデリケートなのだ。
翌年に書かれたヴァイオリンとピアノのための4つの小品は、後の音の点描主義とも言われたウェーベルンの特徴をよく表している。弦楽のための5つのパガテルで使われた様々なヴァイオリンの奏法による音色の多彩さへの挑戦は、この頃から彼が表現主義から音色への指向を強めていたことを表していて興味深い。
オーケストラのための5つの小品 Op.10 (1911-13)はそうしたウェーベルンの個性が最初に、そして完全な形で示された傑作である。短いミニアチュールの中から表現される沈黙と手を結んだ劇性は、大変大きな振幅を持っている。ただこの作品は作曲されてすぐには演奏されなかった。世界大戦が邪魔したのだ。結局シェルヘンらの努力によって1926年にチューリッヒで初演されたのだが、その頃には十二音による点描主義、音色旋律など、彼のスタイルは完全に確立されていた。しかし、この曲を聴いて、そのギャップに気づいた人はいなかったのではないだろうか。
ポンティチェロ(駒のそばで弾く弦楽器の奏法)など、今日では別に珍しくもない技法がそこかしこに使われ(これは弦楽四重奏のためのパガテルでもそうだ)金管にはミュートが、ホルンにはゲシュトップが、そしてなんとMandolineが使われ(マーラーの第七番を思い出す!!)、調性の無い世界で色彩的な管弦楽法が試みられている。

そして、チェロとピアノのための二つの小品を経て、十年あまり、合唱曲や歌曲を中心に作品を残している。
実はウェーベルンはその残した作品の少なさにしては、歌曲の割合がかなり高い。宗教的なテキストを含めて、かなりの分量にのぼるのだが、あまり取り上げられないのは残念なことだ。
最初期の習作の時代から、数多くの歌曲を残したウェーベルンは、管弦楽作品や室内楽、ピアノ作品ばかりが取りざたされるのに、あの世で残念に思っているに違いない。作品番号のついていない初期の平易な語法で書かれたものから、1943年の最後の作品となったカンタータ第2番に至るまで、声楽はウェーベルンの大きなテーマだったことを我々は忘れてはならない。

そしてこうして歌曲の時代が十五年ほど続いた後、1927年に発表した弦楽三重奏曲で、十二音による点描的な作風を確立し、激烈な作風から脱却し、沈黙多き、独特の音楽を作るようになるのだった。
続く交響曲は全2楽章で、1929年にニューヨーク・フィルハーモニックで初演されてこの作品は、そうしたウェーベルンの頂点を築いている。この後書かれた「九つの楽器のための協奏曲」とともに彼の最高傑作であると私は確信している。これ以後に書かれた彼の作品はどれもが珠玉のような傑作ばかりだ。中でも1940年に完成した管弦楽のための協奏曲Op.30は、バルトークの名作と同じ時期の作品とはにわかに信じることが出来ないほど、現代的である。
ウェーベルンの音楽は20世紀の前衛音楽にとっての出発点であった。彼は師の考案した十二音音楽を精緻なミニアチュールにして「見せた」のだ。彼の音楽は肉体のない骸骨のようなものでもあった。十二音を切りつめ、響きに対するチャートに従って絶妙な音楽を作り上げたが、あまりに精緻に過ぎて普通の人間である私たちが聞いて楽しむというより、楽譜を見て、その精緻さに驚くというような音楽であった。
例えば、ピアノのための変奏曲という曲がある。第1曲は最初2音から3音の重なりによる十六分音符の静かな響きで始まり、これが4音の重なりになり、やがて32分音符というより細かなリズムに移り発展する。そして最初の世界がいきなり戻るが、ここでは4音の響きを残している。全曲をアナリーゼすると膨大な話になるのでこの程度にしておくが、ピアノで彼がいかに音色、響きというものに注目していたかがよくわかるだろう。
合唱作品として書かれた二つのカンタータが戦争中の彼の成果であったが、ウェーベルンの最期は悲劇であった。アメリカ兵が誤ってウェーベルンに向けて撃たれた弾丸が彼を貫いたのだ。この世紀の早とちりで音楽界が失ったものは計り知れない。そして同じ事を今もアメリカはどこかの国でやっているという。悲しいことだ、実に悲しいことだ。
ウェーベルンの音楽を出発点として、戦後のヨーロッパでメシアンやブーレーズが活躍をはじめる。しかし、最もいなくてはならなかったウェーベルンはそこにいなかった。
by Schweizer_Musik | 2005-04-21 23:13 | 授業のための覚え書き
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