ガーシュウィンを巡る音楽について - 覚え書き - その2
2) ブルーノートの発見

さて、彼らが当時、聞き、真似ることの出来た音楽は一体どういうものだったのだろう。というより、彼らの音楽の原型となったものは一体どういうものだったのだろうか?
当時、大量にアメリカで出版されていた楽譜の大半は、ヨーロッパで流行していた音楽であった。それはヨハン・シュトラウスⅡ世などのウィーンを中心とした音楽である。

少し19世紀のウィーンの音楽の話をしよう。
19世紀、ウィーンで新しい音楽の様式が生まれた。それはスケールの第6音と第7音をつねに和声音として付加するもので、これによって独特の音楽が生まれたのである。
1840年頃からこのスタイルは流行し始め、ヨーゼフ・ランナーやヨハン・シュトラウスⅠ世などの作品に聞かれる。有名な「ラデッキー行進曲」にもこの技法は使われているが、やがてヨハン・シュトラウスⅡ世とヨーゼフ・シュトラウスがこれを完成させた。
同時期、1878年にウィーンに現れてシュランメル兄弟のアンサンブルはこのスタイルを徹底させたもので、今日のウィーン・スタイルを確立したものと言えよう。
そしてこれが19世紀後半のサロンを席巻し、レストランなどで演奏されて人々に好まれたのである。
フランスでは、これをドビュッシーが独特の方法で初期の作品の中に取り入れて美しい作品などを作ったのであるが、カフェなどで仕事をしていたことも大きく影響しているのかもしれない。
同世代のエリック・サティもカフェでの音楽として「あなたがほしい」などでこれを更に拡大して使っている。
そしてこれらの音楽が「新大陸」へと向かったのである。
6番目と7番目の音が当たり前にトニックとドミナントの和音に付加され、メロディーでそれは非和声音としてではなく、和声音として扱われることで、独特の世界を醸し出したのである。

これが黒人の音楽と出会ったのである。
彼らの音感の中にあるスケールは第5音が少し低く、第7音も通常のダイアトニック・スケールからすると少し低かった。
第5音はともかく、彼らはまず第7音を下げることを思いつく。そしてこれに第3音、第5音を半音下げたものを敢えてぶつけることで、ブルーンノートが完成していった。
また、当時、音楽界では、ワーグナーのトリスタン以後の調性崩壊が続いて、とうとう完全に調性が無くなる一歩手前まで到達していた。
音楽は複雑を極め、次第に難解なものへと動いていた。そこに、古いグレゴリオ聖歌などの教会旋法が入ってきた。ドビュッシーやラヴェルなどの近代フランスの作曲家たちはこれを積極的に行っていた。
アメリカでは、ドヴォルザークなどがペンタトニックの音階などで作ることを実践してみせていた。そしてこのモード技法の特にミクソリディア旋法などが、ブルーノートと一致し、20世紀初頭の音楽界にインパクトを与えたのである。

ラヴェルだけではない、ストラヴィンスキー、ヒンデミット、マルティヌー、などもこのブルーノートなどのジャズの音楽の影響を深く受けた作曲家たちだったのだ。
20世紀のはじめ、1916年にロシアバレエ団がアメリカ公演を行い、エルネスト・アンセルメなどが同行し、帰りにアメリカの新しい音楽の楽譜を手に戻って来た。
そしてそれらはストラヴィンスキーとラヴェルの手にわたり、彼らを大いに興奮させ、インスピレーションを与え、「兵士の物語」、ウィンナ・ワルツと新しい音楽との不思議なアマルガムとも言える「ラ・ヴァルス」に結実したのではないだろうか。
ちなみに、このウィンナ・ワルツ礼さんの音楽が、どこかシニカルに響きを持っているのは、大維持大戦に従軍し、ドイツ・オーストリアへの思いが薄れ、新しい大陸の文化などに向かおうとしていた時代にかさななるからだと、私は考えている。
そして、これがあってこそ、「子供と呪文」、ヴァイオリンとチェロのためにデュオ、あの二つのピアノ協奏曲へと進んで行けたのだと思うからである。

写真はブリエンツロートホルン鉄道。
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by Schweizer_Musik | 2011-10-15 23:50 | 授業のための覚え書き
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