授業のための覚え書き -5- 新古典主義 (2)
1919年から1920年にかけて、スイスのレマン湖畔のモルジュでストラヴィンスキーによって書かれたバレエ音楽「プルチネルラ」は、ディアギレフのロシア・バレエ団のための作品で、1917年のスカルラッティの作品によるヴィンセント・トマッシーニ(TOMMASINI, Vincento 1878-1950 伊)が書いたバレエ「上機嫌な貴婦人たち」、1918年のロッシーニ作品によるレスビーギ編曲による「風変わりな店」に続く作品として依頼されたものであった。
もともとはペルゴレージの作品をもとにハープ入りの大管弦楽で編曲するよう依頼されていたのであるが、ストラヴィンスキーは、コンパクトな二管編成に弦パートのそれぞれに独奏が入る合奏協奏曲の形式で書き上げたのであった。
この時のペルゴレージなどの作品からの選曲はディアギレフとその振り付け師でもあったレオニード・マシーンによるものであった。
打楽器すら使われない小編成で書かれたことに(歌い手が三人この他に必要とされる)、ディアギレフは驚いたそうだが、結局彼はこれを受け入れ、ピカソの舞台装置によって、1920年5月にパリで初演。大変な好評をもって迎えられたという。
さて、この曲が重要なのは、ストラヴィンスキーがただの編曲ではなく、作品の和声やリズムをはじめとして多くの部分を現代風に改変して編曲をし、合奏協奏曲風の新たな作品となっている点であった。したがって、この作品に関して、ストラヴィンスキーは単に編曲としてのクレジットではなく、作曲者としてクレジットされることが今日では一般的となっている。
バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の定番のレパートリーとして、この作品は数多く再演され、ストラヴィンスキーの成功作の1つとなり、イタリア組曲と題したバイオリンとピアノのデュオ作品や、室内管弦楽のみの組曲版なども作られて、ストラヴィンスキーはなかなか商魂たくましいところを見せたりもしているが、いずれにせよこの曲が与えたインパクトは大きかった。ブゾーニなどが提唱した新古典主義の考え方そのものだったのである。

1900年代には、まだ新古典主義などというものは、水面下で準備されていた状態で、まだ一般的に誰も信じていなかった。しかし、大戦後の世界で、物資が欠乏し、恐慌へと向かう狂乱の20年代を席巻したのが、この新古典主義だったのである。
当時のフランスで名教師として出発したナディア・ブーランジェ(BOULANGER, Nadia 1887-1979 仏)は、このストラヴィンスキーの新古典主義を擁護した。彼女のもとにはアメリカから数多くの若い作曲家たちが留学して来ていた。アーロン・コープランド(COPLAND, Aaron 1900-1990 米)、エリオット・カーター(CARTER, Elliott 1908- 米 100歳を越えてなお作曲している怪物…)といった戦前、戦後のアメリカの音楽の象徴とも言うべき作曲家たちがこの新古典主義の洗礼を受けて巣立っていったのであった。
こういった、大らかな作風は、アメリカのアカデミックな音楽の基本的な流れとなっていったし、ここから、レナード・バーンスタインが生まれたのである。
更に言えば、あのモダン・タンゴのアストル・ピアソラ(PIAZZOLLA, Astor 1921-1992 アルゼンチン)ももその一人であったことも申し添えておこう。
また、この作品が、合奏協奏曲の形をとったことで、以降、管弦楽のための協奏曲などが生まれることとなったのであるし、ネオ・バロックの様式もエルネスト・ブロッホ(BLOCH, Ernest 1880-1959 瑞西→米)やフランク・マルタン(MARTIN, Frank 1890-1974 スイス)など、多くの作曲家たちに受け入れられて行ったことも忘れてはならない。
それは、パウル・ヒンデミット(HINDEMITH, Paul 1895-1963 独)において顕著であった。彼の7曲ある「室内音楽」のシリーズは、明らかにこのストラヴィンスキーの影響の上に出来ているからである。
ヒンデミットは表現主義から出発し、やがて新古典主義の洗礼を受けてこうした合奏協奏曲的な室内楽作品を数多く作曲しているが、古も的な枠組みに彼独特の音構造の感覚が大変特徴的となっている。

一方、1917年、まだ戦争中のこと、パリでエリック・サティ(SATIE, Erik 1866-1925 仏)の「バラード」がバレエ・リュスによって初演され、大変な物議を醸したことがあったが、その時、サティの側について論戦をはった若い作曲家たちがまとまった。もともとはソプラノ歌手のジャーヌ・バトリ(Jane Bathori)が企画したコンサートで偶然集まった六人であったが、詩人ジャン・コクトーが印象派に代わる新しい芸術の必要性を説き、作曲家アンリ・コレ(COLLET, Henri 1885-1951 スペイン)が1920年1月に「コメディア」誌に「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ」と書いて、6人組の名を広めることとなったのだった。
作曲家という個性をぶつける職業の者が集まって共同作業をするというのは無理があり、この時も数年で結局彼らはバラバラになり、6人組としての成果はごくわずかであった。
しかし、彼らの名前がこの6人組という名前とともに有名となったことは違いなく、印象派の消滅に力を貸したとも言えるが、そのためにとった明快な古典的な技法は、新古典主義と通じるものがあった。
特に、フランシス・プーランク(POULENC, Francis 1899-1963 仏)とミヨー(MILHAUD, Darius 1892-1974 仏)は、印象派以後のフランスを象徴する存在であった。彼らの音楽は軽快でメロディーに溢れ、古典的な均衡の上に成り立つものであったからである。
彼らの多くが、その新古典主義音楽の器に、その頃新大陸から伝わってきて一大ブームとなりつつあったタンゴやラグタイム、ブルースといった当時、ジャズと分類されていた音楽を積極的に取り入れて作品を作ったことである。
ジャズの影響についてはまた今度…。

写真は引き続きブルンネン。
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by Schweizer_Musik | 2012-01-30 11:16 | 授業のための覚え書き
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