授業のための覚え書き -6- 民族主義 (1) ロシア五人組からドヴォルザーク
新古典主義が多用し、20世紀の音楽に多大な影響を与えたジャズの音楽については、後の回に譲ることとし、今回は19世紀から始まった民族主義、国民主義の音楽を考えてみたい。
どこの国にもある、民謡のような音楽は、たまに変奏曲の主題として使うことはあっても、それを本気で作曲家が自らの音楽の中心に据えて作曲かるということは、古典派以前にはなかったことであった。
多くが王侯貴族のお抱え楽士であったのだから、そうした必要もなかったのであったが、産業革命以降、支配階級が変化して行く中で、音楽芸術を享受する層にも変化がみられるようになると、そうした自国の文化として民謡などを取り入れる運動が野火のようにヨーロッパの特にドイツ、イタリア、フランスをのぞくその周辺諸国に広がっていった。
特にロシアのグリンカ(GLINKA, Mikhail Ivanovich 1804-1857 露)はロシアの民族的な素材を積極的に取り入れた音楽を作り、その後の音楽界に大きな影響を与えたのである。
グリンカとともに歌曲で名高いダルゴムィシスキー(DARGOMYZHSKY, Alexander 1813-1869 露)などがそれに続き、美しいロシア・ロマンス(歌曲)を書いた。こうしたパイオニアが居たことと、地理的にヨーロッパの中心から離れていたことから、この民族主義は広がり、ロシア五人組というグループが生まれ出ることとなる。
世に名高いロシア五人組は、アカデミーで学んだ経験がない集まりであった。だから、伝統などから隔絶し、自分たちの民族の音というものに執着した。これが、当時の音楽界に大きなインパクトを与えることとなったのである。
五人組のリーダー格はバラキレフ(BALAKIREV, Mily Alexeyevich 1837-1910 露)だった。彼は少年時代に多少の専門教育を受けていたので、彼が自然とリーダー格になっていった。(専門は数学)
それでも大変な音楽的センスを持ったリムスキー=コルサコフ(RIMSKY-KORSAKOV, Nikolai 1844-1908 露)がいなければ、この五人組の集まりはただの素人集団で終わっていたであろう。彼は次第に独力で管弦楽法をマスターし、作曲技法を磨き上げていった。彼が補作することでようやく世に出た五人組の曲の多いのである。
ちなみに、彼の管弦楽法があったからこそ、ラヴェルやレスピーギの作品は生まれたと言っても過言ではない。リムスキー=コルサコフの管弦楽法はあらゆる点で、実に洗練されたものであった。
他にセザール・キュイやアレクサンドル・ボロディンはそこそこの作曲をしているが、そう重要ではない。しかし、この五人組には本物の天才が一人混ざっていた。それはムソルグスキー(MUSSORGSKY, Modeste Petrovitch 1839〜1881 露)である。
彼は正規の音楽教育は、幼少の頃に母の手ほどきを受けたピアノのみであった。彼はやがてキュイやバラキレフと出会い、個人的にバラキレフに師事して、古典の勉強を少しだけしたものの、やがてその影響から自由になり、自らの耳に忠実に、そしてダルゴムィシスキーが提唱していた「テキストの内的な真実が捻じ曲げられないように、あるがままに」という理念に共鳴し、アリアやレチタティーヴォを廃し、デクラマシオン(朗誦)を中心とした「ボリス・ゴドゥノフ」を書き上げたのであった。

「デクラマシオン」(英語ではdeclamation)とは、その意味を直訳すると朗読、あるいは朗読法ということになる。音楽では、言葉のアクセントに合わせて歌うようにしゃべることであり、古くは・ワーグナーのオペラ、あるいはドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」などで聞かれるものである。これを更に推し進めたものが、シェーンベルクの「ピエロ・リュネール」における「シュプレッヒシュティンメ」そのものである。
もともとはバロックの初期にモンテヴェルディのオペラでこのデクラマシオンが重要視されたものである。それ以前にもあったが、音程の変化のない音の上に歌詞が並び、それを通奏低音で伴奏していたに過ぎなかったそれを、モンテヴェルディがこれを一変させ、芸術的なものへと作り替えてしまった。
しかし、これはナポリ楽派によってアリアとレチタティーヴォ・セッコに分けられる中で次第に廃れていくこととなる。そしてワーグナーによって復活させられるまで、ほとんど顧みられることはなかったのであった。

これはドビュッシーが後に「ペレアスとメリザンド」で用いたもので、以降、この技法が様々な形へと進化していったが、調性の崩壊とそれはリンクすることで、「ヴォツェック」や「ルル」でのシュプレッヒシュティンメが生まれたのだとも言えよう。

更に、ムソルグスキーの和声は、印象派の音楽家たちを多いに刺激したとも言える。増4度の累積による響きは明らかにドビュッシーなどに繋がるものを持っていたが、それらは正当に伝えられることなく、20世紀半ばにショスタコーヴィチなどが新たに彼の作品を校訂し、彼の斬新なオーケストレーションや和声を甦らせたことで、彼の本当の姿がようやく理解されてきたのであった。

彼に続く国民楽派の作曲家としては、やはりスメタナとドヴォルザークをあげておかなくてはならないだろう。
1824年生まれのスメタナは、ボヘミアの民族的な舞曲をたくさん書き、そのリズムなどの特徴をとりいれた作品を数多く残した。病気の進行により、1874年に聴覚を失うが、以降も積極的に作曲を続け、交響詩集「わが祖国」を完成させている。彼はリストから資金を調達して音楽院を創設し、ボヘミアの音楽を育てることに力を尽くしたが、その仕事は17才年下のドヴォルザーク(1841-1904)に受け継がれることとなる。
ブラームスの8才年下、グリーグより二歳年上のドヴォルザークは、ロマン派に民族主義を根付かせる大きな役割を果たした。特に、アメリカにわたり、カーティス音楽院で教えた数年間、アメリカの若い音楽家たちに、自分たちの国の音楽を大切にすることを教えたことは大きかったと言える。
これがあってこその20世紀のアメリカ音楽が存在するとまでは言わないまでも、大きな影響を与えたことは間違いがない。

彼の音楽スタイルは、ボヘミアの民族音楽に基づいたものであるが、初期にはドヴォルザークもシューベルトやメンデルスゾーンなどの影響から出発したと考えられる。今日、彼の交響曲は全部で9曲数えられるが、その初期の4曲の交響曲は1865年から1874年にかけて書かれたもので、最初に第1番として発表した、今日では第5番とされている作品ですら1875年に書かれ、ブラームスの交響曲第1番よりも前に発表されているのである。
彼の交響曲は、その理解者でもあったブラームスに敬意を払っていたものの、それとは異なる大らかな節回し、伸びやかなメロディーに特徴があった。彼の音楽は、民謡的な素材を元に書かれ、「アメリカ」の素材を使っても、ボヘミアの民族の音楽に近い、素朴さがあった。それが彼一流の洗練された和声感覚とオーケストレーションによって提供されるのであるから、大いに人気を博したのだった。
彼の音楽の特徴は、ペンタトニックの多用にある。弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」の第1楽章の主題はその典型であろう。長調だけでなく短調でもそれは使われ、エオニア旋法(自然短音階)によるものが特徴的である。これは、有名な「新世界より」の第1楽章、あるいは終楽章の主題を思い起こしていただければ良いだろう。
この二つの作品は、どちらもアメリカ民謡、黒人霊歌などのメロディーを多く使って、アメリカの聴衆に、ヨーロッパのものを輸入するだけでなく、自国の文化的遺産を大切にした音楽を作ろうというメッセージが含まれていた。
が、ドヴォルザークの手にかかると、それらの素材ですら、ボヘミア的になってしまい、今日、これらの音楽がアメリカ的であると論じる人は滅多にいないのは、ちょっとしたパラドックスとなっている。

が、このペンタトニック、あるいは自然短音階の多用は、新しい時代の幕開けには相応しいものだったと言えよう。そしてその遺産は、レオシュ・ヤナーチェク(1854-1928)に受け継がれていくのである。

ヤナーチェク、そしてバルトーク・ベラなどについては次回。

写真はフリブール。
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by Schweizer_Musik | 2012-02-02 01:23 | 授業のための覚え書き
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