アントン・ウェーベルン (3)
一九〇八年、ウェーベルンは管弦楽のためのパッサカリアを発表し、楽壇にデビューを果たした。師であるシェーンベルクはこれを自らのところからのウェーベルンの卒業作品であると見なしていたようであるが、ウェーベルンはこの師に心から心酔しており、依然としてシェーンベルクの弟子で在り続けた。
ただ、自ら音楽で生計をたてる時期に来ていた。彼の父はオーストリアでは高い地位にあったが、そのまま養えるほどでもなかったのだろう。
彼は、オペレッタなどの指揮をし、二流のオケや市民の合唱団の指揮をしてまず収入を得るようになる。バート・イシュルというザルツカンマーグートの保養地の劇場のオーケストラを指揮することになったのだ。ちなみに当時のバート・イシュルと言えば、その名前の通り温泉保養地で、ヨーゼフ・フランツ皇帝もしばしば出かけたという高級保養地でもあった。
晩年のブラームスが夏の間、ここに滞在していたこともあるし、レハールもこの保養地の常連だった。
さて、この保養地の劇場のオーケストラの指揮者になったウェーベルンであるが、指揮者としては全くと言って良いほどのただの素人指揮者であった。それに、彼はオペレッタなどの実用音楽に全く興味がなかったのだから、悲劇的(あるいは喜劇的?)な結果になる。
彼は友人に「オペレッタや軽音楽を廃止したらどれだけ人々にとって良いことだろう」と書き送っている。劇場の様々な雑務(人間関係やら会計やら、様々な現実の社会で起こる話)が彼を悩ませていた。そしてその為作曲の時間がとれないという悩みにも・・・。
そしてこの年の秋にはバート・イシュルでの苦しみからウェーベルンは永遠に解放されてウィーンに戻ってくる。そしてウィーンで合唱の指揮をして生活費を稼ぐのだった。
この時期に一時的にせよ、歌劇の作曲も考えていたようで、そういう手紙も残っているが、残念なことに現実のものとならずに終わった。歌曲も数多く書き、合唱も多く残したウェーベルンは、文学的な素養にも優れていたと私は思うのだが、それが劇場向きだったのかどうかは判らない。しかし、彼のこの試みが頓挫したことだけは確かだ。
ウィーンで合唱の指揮をしながら彼は、初期の傑作を次々と書き上げていく。美しい響きに満ちたア・カペラの「軽やかな小舟にて逃れよ」Op.2やシュテファン・ゲオルゲの詩につけた二つの歌曲集Op.3とOp.4であり、弦楽四重奏のための五楽章Op.5。そして初期のウェーベルンの典型とも言える管弦楽のための6つの小品Op.6などである。
特に重要と思われるのは弦楽四重奏のための五楽章と管弦楽のための6つの小品であろう。これらの中で、ウェーベルンは彼の特徴となった小形式の中で音色旋律という概念を育てている。
こうした作品は親友のアルバン・ベルクの作品にも、あるいは師であるシェーンベルクにも認められる。しかしシェーンベルクとベルクの小形式の作品は、ブルックナーやマーラーへのアンチテーゼとしての側面が大きい。即ち肥大化した長形式を意識し、それを否定するところに主眼があるのだ。しかし、ウェーベルンの小形式はそれ自体として生み出された自然さがある。それは、小形式で書かねば書けない音楽として作られていると言い換えても良いのではないだろうか。そしてこの点においてアルバン・ベルクやシェーンベルクの音楽とウェーベルンは全く異なる地平に立っていたのだ。
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譜例は、弦楽四重奏のために5楽章から第一楽章の冒頭である。休符に区切られた動機が様々な音色によって置かれている。それはエコーによって拡大されたりもする。
col legno(コル・レーニョ)は弓の木の部分で弾けという指示であり、am stegは駒に近い部分で弾けという指示であり、これにピツィカート(弦を指で弾く)とarco(弦を弓で弾く)という指示があり、たった四小節の間にこれだけの奏法を使っている。
また、pppからfffまでのダイナミクスの大きな変化を要求しており、音的には長7度への過剰なまでの執着が聞かれる。
これにより、調性は失われ、音楽はリズムと音色と強弱と、極めて緊張感のある音程とに分解され、所謂美しいというメロディーの意味が失われるのだ。
彼は、古典的な主題構造をこれらの作品で放棄している。すなわちいくつかの動機を組み合わせて、主題となるメロディーを作り、それを基に展開していくというものが、ここには認められない。

オーケストラのための6つの小品においても、小さな動機が休符によって区切られ、木管を徹底してソロ的に扱うことで、音色を混ぜてしまうことを拒否し、以前の音楽とのつながりが断ち切れたところから出発していることは明らかだ。
次の譜例はその作品6の6つの小品の中の第1曲の管楽器のメロディーのパートを書き出したものだ。ここにあるように一つの旋律がフルートからミュートをつけたトランペットへ、そしてミュートをつけたホルン、そしてフルートからクラリネットへ。続いてトランペットとクラリネットによる二重奏へと・・・。ここにあるのは音色旋律そのものであり、彼の基本的な作曲法がこの時すでに完成していたと言っても良い。
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こうした音楽を志向した彼であったからこそ、戦後まもなく、ダルムシュタット現代音楽講習でウェーベルンに脚光が当たったのだ。そして多くの才能ある若い作曲家たちがウェーベルンを研究しその拠り所となっていったのであろう。
by Schweizer_Musik | 2005-06-25 15:23 | 授業のための覚え書き
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