未完成交響曲「ジーズニ」について
未完成のままに残された音楽は数知れずある。シューベルトの「未完成」交響曲は最近でこそ未完成のまま2楽章で演奏されることが普通になったが、完成を目論む数知れない試みが存在した。確か3、4楽章を作るコンクールも存在した。
他には、モーツァルトのレクイエムも有名曲で未完成のまま残されたものだ。これはほぼ完成されていたのではという意見がでるほど、弟子のジェスマイヤーの補作がうまくいっている。作曲者の死後すぐに行われた補作である点でも特徴的だ。
バッハのフーガの技法も最後のフーガを作っている途中でバッハが亡くなったため、その曲は演奏せず、他の作品で最後は代用せよとバッハは言い残しているそうだ。しかし、完成版もあり、実際に聞いたこともあるが、また筆を折った途中で止めるという録音も存在し、なかなかに興味深いものだ。
ブルックナーも第9番の交響曲で終楽章を完成できず、その部分はテ・デウムを演奏してほしいと残している。これも、後の人々がほっておけず、書きかけのスケッチを集めて完成版を作ってしまった。録音もいくつかされていて聞くことができる。
有名なのはマーラーの第10番だろう。もともとクルシェネクが第1楽章を演奏できる形にし(ほぼ完成していた)、メロディーだけはほぼ残されていた(いわゆるコンデンス・スコアの形で完成に近かった)第3楽章が演奏できるようにしていた。
その後、マーラー人気が出てくるにつれて、全楽章聞きたいというファンに後押しされる形で、クックのよって補筆され、イギリスで作曲者の死後50年を経て「初演」が行われた。
この補筆完成について、マーラーの(作曲・指揮の!)弟子であるブルーノ・ワルターが「絶対に止めるよう」に手紙を書いている。マーラーに認められて世に出るきっかけをつかんだオットー・クレンペラー(彼も作曲をよくする)も「許せない行為」と言っている。当時、マーラーを知る人々から、この補筆完成についてかなりの批判があったことは事実だ。だから、バーンスタインもこの曲の第1楽章のみ演奏している。作曲家でもある彼にとって、他人の手がこういう形で入ったものは許されなかったのだろう。
残されたメモのような楽譜も全て出版されているので、クックの補筆が作曲に近い行為であったことは理解できる。クックが注意深くマーラーの素材を使って書き上げたこともわかる。
しかしだ、私はクック版も聞き、その優れたスコアを認めるが、マーラーの音楽として評価することは差し控えるべきだと思う。あくまで「まがい物」でしかない。ただ、責任者としてクックの名前が入っているだけ良心的だろう。

さて、チャイコフスキーの交響曲「ジーズニ」である。この曲を作曲者は交響曲として発表することを断念したもので、公表を望んでいなかったものだ。
第1楽章は何とか書き上げたものの、後がどうしても続かず、書き上げたスコアに対しても不満を持っていたため破棄し、1楽章制のピアノ協奏曲第3番として書き直して発表したものである。
彼は十分に注意深い音楽家であったと思うが、大きな失敗をした。それは、破棄した部分をちゃんと暖炉の火の中に投げ込まなかったことだ。そのおかげで、彼が亡くなってから、彼が破棄した楽譜で、チャイコフスキーの名前を使って一儲けしようという「山師」たちの餌食となってしまった。
まだ、弟子のタネイエフが1楽章だけでなく第2、第3楽章を完成させた3楽章制のピアノ協奏曲にしたのはかわいいものだ。それはチャイコフスキーの人となりをよく知る作曲家である弟子のタネイエフが書いているのだから。それにチャイコフスキーが書き上げたピアノ協奏曲である点も特徴だ。
しかし、続いて作曲者の死後かなりたって、ボガティレフがチャイコフスキーのピアノ曲などを素材にして完成版を作ってしまったのだ。チャイコフスキーは交響曲として確かに計画したが、それを自ら破棄し、ピアノ協奏曲として完成して、作品番号をつけて発表したものを、他人が勝手に作り替えて、作曲者が望んでいなかった交響曲にでっち上げてしまったのだ。
このでっち上げ交響曲をかつてオーマンディが録音していたし、ヤルヴィがシャンドスに第3番のピアノ協奏曲と並べて録音していた。この二枚を聞いた感想を言えば、ボガティレフの補筆はあまりにやりすぎで、チャイコフスキーだとはとても言えないものだった。
このでっち上げ交響曲に目をつけたのが西本智実氏とチャイコフスキー財団ロシア交響楽団だった。
西本某の指揮するオーケストラ(ナクソスなどで聞くロシア交響楽団とは別物のようで、設立など実体が全く不明のいかがわしさが感じられる)が昨年、チャイコフスキーの命日に初演されたという第2楽章(かなりのメモが残っていた、あるいは発見されたというが、私はどれほどのものだったかは知らない)を初演し、今回来日して、それにに加えて新たに作曲された第3楽章も演奏されたそうだ。
天国のチャイコフスキーは「おいおい、止めてくれよ」と言っているかどうかはわからないが、「死人に口なし」と他人がその作品に手を加えることが、果たしていいことなのかどうか?
編曲ならわかる。作曲者が発表した作品を、編成を変えて演奏するというのも、音楽の一つの楽しみである。しかし、加筆しているのだ!!編曲とは全く異なる行為が、どこの誰とも知らない者の手によって(それも複数らしい?)やっている。そんな馬鹿なと思う。
しかし、このコンサートはどこも満員御礼だそうだ。さすが、西本智実のプロモーションは上手い!!愛好家なら知っている第7番の存在を意識させないように「ジーズニ」と名前をつけて、更に、第七番とは言わない。そして新発見を装い(ちょっと調べてみれば、誰もが新発見でないことぐらいわかる)「秘曲」(最近新たに作曲して、何が秘曲だ!それなら私にも一杯あるぞ!)と強調して、もう明らかに詐欺そのものではないか。すれすれなのは、新たに発見されたスケッチをもとにしているという「謳い文句」で、やっぱり「秘曲だと言いつのられると、その文献が明らかでないために、私たちに反論の仕様がない点であろう。
このプロモーションは上手い。上手いが、いつものように彼女のプロモーションはちょっと嫌な感じがする。音楽以外の話題でプロモーションをかけ、「話題先行」で仕事をして、音楽自体が話題にならないことが多いからだ。

西本某が、ちゃんとした音楽家ならば、こうした詐欺まがいのプロモーションで売ったりしないで、音楽の感動の質で勝負してほしいものだ。人は先入観で感動するというところがないとは言えない。あるいは感動を自ら演出してしまうようなところもある。だからプロモーションがうまくいけば、感動できないわけではない。
しかし、それは真実ではないのだ。今回の彼らがやっているのは、チャイコフスキーの音楽を聞かせているわけでも、その「秘曲」となっていたものが「新発見」されたものでも断じてない。
優秀な現代ロシアの作曲家?なのかどうかは聞いていないので知らないが(聞く気もないので、今後ともこの点について判断することはないだろう)その人たちが作曲したらしい(チームなのだそうだ。笑わせる。作曲をしたことがない人を欺そうという意図が見え見えでもう気分が悪くなる。チームで作曲なんてできるか!)ものの「初演」である。
ああ、どうか日本の素直な音楽愛好家の人たちよ、欺されないように!かわいそうなチャイコフスキーの作品ではないのですよ!!チャイコフスキーは別の曲として完成させた曲を勝手に作り替えただけの話なのです!!
西本某なる指揮者(と本人は申告しているようだ)は、今回のこの一連のコンサートにおいてこのまがい物の「ジーズニ」で勝負をかけているようで、チャイコフスキーがちゃんと完成させた「悲愴」や第五交響曲を演奏するということは、ほとんど宣伝していないようだ。チケットにも「ジーズニ」しか書いていないそうで、一般の人たちには事情がわからないことだろう。まぁ、こうした名曲では勝負できないという判断なのだろうが…。
ブログで巡回すると、このコンサートは概ね好評のようである。ただ、チャイコフスキーの音楽に感動しているのか、西本某の指揮が良いのか、チャイコフスキー財団ロシア交響楽団という実体の知れない(いつ誰がどういう経緯で設立した団体で、どういう演奏経歴があるのか、実績が全く不明の団体という意味である。)のアンサンブルがすばらしいのかは、どうもよくわからない。ただ西本某が「かっこいい」とかの感想が多いようだ。
こうした一般の人々に対して、音楽専門家の方々はほとんど無視しているようだ。当然だろう。まともな音楽関係者なら、こんな程度の低いプロモーションの宣伝文句の尻馬に乗るわけはないのだ。
CDやDVDもそのうちに出てくるのだろう。私は今後は無視することにする。ただ、マスコミがこのような悪質(と私は考えている)なプロモーションの提灯記事を書き立てたりする場合は、またかみつくだろう。しかし、今日一日、この事が頭に来て、仕事にならなかった。本当にいい加減にしてほしい。

2006年6月4日朝、加筆。
一晩たっても腹立ちは収まらず、結局書き加えてしまった。
by Schweizer_Musik | 2006-06-03 17:32 | 音楽時事
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