クーラのピアノ・トリオを聞く
クーラのピアノトリオを聞く。
どうも北欧づいていて、ちょっとこの辺りで違った国、異なる時代の作品をと思うのだが、ある作品を聞いてそこから連想してこれという感じで流離っているので、なかなかフィンランド、ノルウェーあたりから出られないでいる(笑)。
さて、クーラという作曲家をどれだけの方がご存知だろう。病気で倒れる前の舘野泉氏がよく取り上げられていたこともあって、氏のファンなら可愛い小品を知っておられるだろうが、彼には本格的な管弦楽作品はなく、若くして不幸な出来事で亡くなっているために、本格的に世に問うべき作品が少ないことも、彼がローカルな作曲家でありつづける原因である。
不幸な出来事とは、フィンランド内戦の頃の1918年、酔った白軍の狙撃兵に口論を仕掛けられて、頭を撃たれたことである。悲しい出来事であるが、ロシアと国境を接し、常にこの大国に利用され続けてきたフィンランドの歴史と、ロシア革命という政治的動乱がこうした不幸を引き起こしたとも言えるが、人類にとってかけがえのない才能が花開く直前に手折られた無念さを禁じ得ない。
最近、銃による事件がニュースを騒がしているが、こうした愚かな出来事を見るにつけ、多くの宝を光り輝く前に失った、あるいはもっと光り輝くはずだったものを無くしてしまった悲しさを感じる。人殺しの道具がこの世から無くなれば…それは無理な話なのだろうか?

この音楽を聞いていると、モードなどを使ってはおらず、まだ後期ロマン派の範疇にあるのだが、半音階への傾斜は聞かれず、ヘキサトニックなどへの親近感をクーラが抱いていたことは明らかである。
ストラヴィンスキーのポリコードやラヴェルなどのモードへの傾斜をフランスに留学したクーラはどう聞いたのだろう。そしてそれを自らの語法へ、どう方法論を形成していったのだろう。
若書きの、まだ確立されていない彼のやや舌足らずとも思われる音楽ではあるものの、伸びやかなメロディーとデリケートな楽器の扱いとサウンドに私は彼の才能の大きさを強く感じる。
この作品はまだ形式と音楽のバランス未熟だと思う。こんなに長くなくても良いだろう。(50分もかかる三重奏曲である!)もっと簡潔に、そして効果的に語ることができた筈だ。1907年にヘルシンキ音楽院に在学していた頃の作品なのだそうだ。だが、習作の域をはるかに脱しているこの作品は前途洋々たる才能の輝きに満ちている。伸びやかなメロディー(第3楽章を聞き給え!)、明らかに新しい響きを聞いていたその耳(終楽章の冒頭のユニークな出だしを聞き給え!)はそのきらめきである。

演奏しているのはトリオ・ポヒョラ。ポヒョラ一家というか兄弟姉妹によるもの。フレージングが硬く、やや興ざめな部分もあり、もっと良い演奏で聞けたならと思わないでもないが、この古い録音しか私は知らないので、とりあえず満足しておこう。
by Schweizer_Musik | 2007-04-30 10:45 | ナクソスのHPで聞いた録音
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