冬の夜の慰めに (16) ヘフリガーの冬の旅
私は「冬の旅」をテノールで聞くのが好きだ。元々シューベルトはテノールのために書いている。だからというわけではないと思うのだが、テノールで聞くのが一番自然に感じるのは、これが青年の絶望と再生の歌であると私が感じているからだろう。
Ian Bostridgeの素晴らしい録音もあるが、私はスイスのテノール、エルンスト・ヘフリガーの歌を愛聴している。カメラータにある1990年の東京でのライブは少々調子が悪いようで、冒頭は聞くのがちょっとつらいが、1980年頃にスイスのアールガウ、セオン教会で録音したものは、ピアノのかわりに当時のハンマーフリューゲルで演奏していて、ちょっと違和感を感じるところもあるけれど、しばらくすると慣れて、この青春の物語に集中している自分を発見する。

この曲は若者と乙女の物語であり、失恋という極めて個人的な蹉跌とそこからさすらいへの憧れが歌われる。それは若い時代にある永遠というキーワードで描かれていると思う。この曲がライヤー弾きの音とともにさすらいの旅に向かうところで終わるのは、とても象徴的だと思うが、思えば死と乙女とさすらい、夜の歌とシューベルトが長年追い求めてきたテーマによる連作歌曲集であることに気付くと、この作品の重要性がよりよく見えてくる。
この作品はシューベルトの一種の集大成なのだ。言い換えれば、シューベルトの全てがこの曲集の中にあると言っても過言ではない。
だから、1時間もかかる長大な歌曲集に多くの人が挑み、また多くの人が涙するのだろう。
1980年当時のエルンスト・ヘフリガーの歌はもう素晴らしいの一言。シュライヤーのような軽い声質ではないので、歌に実体感があるのも良い。
ヘフリガー以外で好きな演奏と言えば、ジェラール・スゼーのものがある。美しい声とはこういうものなのかとつくづくため息が出てしまう。
青年らしい輝きを感じさせられるのはこの声のおかげだ。ピアノを弾くボールドウィンの見事な共演ぶりも特筆せもばならない。
続いて、ヘルマン・プライの歌も好きだが、この盤でピアノ弾くのがサヴァリッシュで、これまた超絶的な名演なのでちょいちょいと取り出して聞く。
しかし、このプライの全体にぶら下がるピッチの低さには少々閉口する。
その点、ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウのいくつかの録音は凄いレベルの高さだと思う。
ジェラルド・ムーアのピアノで録音した全集盤は最も雄弁で、他の録音の完成度に対してどこか熱い何かがあるように思う。
ハンス・ホッターの名高い録音もここに入れなくてはならないのかも知れないが、私のこの曲に対する考え方と対極にある演奏で、ホッターの素晴らしさには脱帽するが「冬の旅」をホッターで聞きたいとは私は思わない。
他にもいくつかあるが、こんな大作を聞きくらべをする体力はこのあたりで尽きてしまった。
で、結局、エルンスト・ヘフリガーがデーラーと共演して録音したこのクラヴェース・レーベルの録音に落ち着くわけである。
最後の「辻音楽師」で弦が共振してビーンと鳴っているのだが、これなどなかなかの効果で、良い感じだと思う。
デーラーという極めてクレバーな鍵盤奏者を共演者として迎えたこともこの演奏の成功の要因となったと思うが、できればこのCDが今も手に入ることを祈るばかりである。
by Schweizer_Musik | 2007-12-10 22:51 | (新)冬の夜の慰めに…
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