昨日の授業 - 近衛秀麿の「越天樂」
昨日の現代音楽の授業は、色物でせめることにし、近衛秀麿の「越天樂」をとりあげた。
日本人が西洋の物まねではダメだと、自分たちの表現は何かを真剣に模索し始めた時代の作品であるからだ。
これは自分にとっても実は切実な問題で、考えれば考えるほどこの問題が迫ってくる。
しかし80年近く前の日本で、まだ作曲家が職業として認知されていない社会にあった近衛秀麿が、これほどの問題意識と独創性を持つ知性で、自らのアイデンティティーに向き合っていたことに、若い人たちは学ぶ必要があると思うのだ。

さて、近衛秀麿が「越天樂」の編曲でどういうこだわりを持っていたかであるが、まずこの雅楽の古典をできるだけ正確にオーケストラに置き換えるという覚悟だ。
当時はおそらく「越天樂」の西洋式の楽譜は存在しなかったのではないだろうか。出来のよくない録音ぐらいは手に入ったことだろう。でもそれを聞いて五線に起こすことから始めたに違いない。
そしてメロディーをいくつもの管楽器でユニゾンで演奏しているように聞こえるそれが、細かくずれていて、そのズレが絶妙な歌い回し、「タメ」とか「コブシ」といった表現を生んでいることに気がつき、それをどうオーケストレーションするか、悩んだはずだ。
そしてその結果、オーケストラを雅楽と同じ、3つのアンサンブルに分割することにしたのだった。
第1のアンサンブルはメロディーを担当。このメロディーに歌詞をつけたものが「黒田節」なのだそうだが、そう思って聞くとなるほどと思う。
それはともかく、第1アンサンブルだけを見ているだけで十分に面白い。同じメロディーをユニゾンで演奏しているのに、あるパートにはグリッサンドがあったり、倚音が付け加わっていたりで、サッと見ただけでは同じメロディーを演奏しているとは到底見えない。
このスコアには、最初にこれを演奏した人達は困惑したことだろう。
しかし、それによってもたらされる効果は絶大であった。
第2のアンサンブルは打楽器など減衰音系のアンサンブルで、合いの手を担当する。
そして第3のアンサンブルは独特のハーモニーを担当するヴァイオリンである。

近衛秀麿は戦前から戦中のヨーロッパで活躍した唯一の日本人指揮者であった。交友関係もストコフスキーをはじめ、当時の大音楽家たちと親しく交流を重ねた。
その彼の名前を世界に知らしめたのが、このアレンジであった。
そして、この成功が様々な試みを生んだ。
山田耕筰が長唄とオーケストラを共演させて交響曲とした「鶴亀」をはじめとして、我が国特有の文化へ近づこうという運動が起こった。
こうした試みが、早坂文推の「左方の舞と右方の舞」を生み、松平頼則の「盤渉調越天楽の主題によるピアノと管弦楽のための主題と変奏」などという曲を生み、更に「ダンス・サクレとダンス・フィナル」や「右舞」「左舞」などに繋がるのだと思う。
そして、武満を予告することとなるのではないだろうか。
今からすれば、例えば山田耕筰の「鶴亀」なんて、古い東宝の時代劇の音楽みたいで、古くさく感じるし、これが名作であると言う勇気は私にはない。
だが、こうした出発点に立つ作品が突きつけている問題は、今も尚、何一つ変わらず私たちに突きつけられている問題であると私は思う。ここに、学ぶこと、考えなくてはならないことの多くが存在する。そして、何故自分は西洋の音楽をやっているのか…。

疲れるので、今日考えるのはこのくらいにして、昨日、学校の資料室で借りてきたモーツァルトの歌劇のCDでも楽しむことにしよう…。
by Schweizer_Musik | 2007-12-13 13:02 | 授業のための覚え書き
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