2007年 02月 12日 ( 3 )
早坂文推のピアノ協奏曲を聞く
早坂文推のピアノ協奏曲を聞く。実に面白く聞いた。私も常に問題意識を持っているところに觝触するものを感じたせいである。最初は本を読みながらの「ながら聞き」だったのだが、次第に真剣になって、本を放り出して聞き始めた。
黒沢映画の音楽を担当していたことぐらいしか印象にないという人も多いかもしれないし、武満徹との関係で知っているという人も多いだろう。代表作というか、私が学生時代から知っていた作品は「左方の舞と右方の舞」といくつかの映画音楽くらいで、最近になってその他の作品に接するようになったに過ぎない。
で、このピアノ協奏曲は、音楽としてそう面白い作品ではないと思う。特に第1楽章は長すぎて、全体に静かで穏やかな流れの中で緩やかな移ろいゆく風景のような音楽となっている。
一方で第2楽章はちょっと伊福部昭の「リトミカ・オスティナータ」のようなアレグロのリズミックな面白さを有しており、ペンタトニックなどの多用が印象に残る。とは言え、私には音楽がやや平板に聞こえるのだ。この辺りがこの曲の限界なのだろうか?
しかし、この作品は日本的なものをどう最も西洋的(それも工業が進んだ19世紀のヨーロッパの華麗な協奏曲という)ジャンルと融合させるかがテーマなのだ。そしてその実験というかチャレンジがどういう世界を切り開いたかが重要なのだと思う。

1932年に早坂文推は伊福部昭や三浦淳二と知り合っている。お互いに影響し合いながら彼らはそれぞれの道を歩んでいったことは、私も知っている。しかし伊福部昭と早坂文推は、二人とも日本的なものをどう西洋音楽の器の中で消化してしまうかとうところがテーマであった。
伊福部昭はそれをロシアの民族主義の様式の影響の下に消化していったと思う。それは例えばストラヴィンスキーだったりしたのだが、早坂文推はもう少し違ったところにあり、フランス近代に心を寄せていたことは、その響きの特徴から感じられる。
ただ、それがピアノ協奏曲ではプラスにはあまり働いていない。雅な響きは全体としての品の良さと同時に冗長さを作り出しているのだ。
しかし、そこかしこから聞こえてくる先人の日本的なるものと西洋音楽との融合と独特の音楽を生み出す努力の成果に対して、心から尊敬と共感を献じたいと思う。
岡田博美氏はよくやっているが、全体としてもう少しメリハリのある演奏が望ましいと思う。それはヤブロンスキーの指揮するロシア・フィルハーモニー管弦楽団の演奏にも言える。
ナクソスのこのCDにも片山杜秀氏による素晴らしい解説がついている。この博識な人物に心から賛嘆と尊敬を捧げなくてはならないだろう。だず、このCDは誰にでもお薦めできるというものではない。まぁ、千円だから…。
by Schweizer_Musik | 2007-02-12 21:40 | CD試聴記
カッチーニのアヴェ・マリア…
ジュリオ・カッチーニの作とかされるアヴェ・マリアをスラヴァのCDで初めて聞いたのは今から15年ほど前のことだった。
ポピュラー音楽のような印象を受けたし、どこかアルビノーニのアダージョのような胡散臭さを感じたが、今もその印象は変わらない。
カッチーニは1545年頃の生まれだというが、ほぼ16世紀の作曲家でありながら、和音の使い方などが近世のものに感じられるからである。
カッチーニの作品と言えば、学生時代に友達の伴奏をしたことがある「アマリリ麗し」位しか私は知らない。
また出典が全く明らかでないままに、1990年代に入って急速に広まっていったのも不思議だ。私は少なくともそれ以前にこの曲を知らなかった。
アヴェ・マリアとだけ何度も繰り返すのも、様式的に16世紀当時にはあまりなかったのではないか。モンテヴェルディなどを思い出しつつ、全く不思議なことだと思う。
ナクソス・ライブラリーで聞いて、本田美奈子の美しい歌声を思い出した。と同時に、カウンター・テノールのスラヴァ(すみません、全く好みの音楽家ではないので…)を久しぶりに思い出した。
しかし、変な曲だ。その内、アルビノーニの「アダージョ」の作曲者であるジャゾットのように「私が作りました」と誰かが出てくるのかも知れない。まぁ出てこない方が、著作権の使用料を払わなくて良いので、一般にはありがたいことかも知れないが…(笑)。
by Schweizer_Musik | 2007-02-12 20:51 | 日々の出来事
山田耕筰の長唄交響曲「鶴亀」を聞いて
昨日は150小節ほどのメドレーを作り、それがせいで、色んなことが貯まりに貯まり、どうしようもないほどになっている。「えい、しばらくそれらは放っておけ」とばかり、早朝からの作曲は今日は逆に止めて、休養にあてることとした。追われてした仕事なんてロクなものができない!(ものすごい言い訳だ…)
といって、全力で一週間を過ごしたおかげで、何をしていいのか?ふと考えてしまう。で、聞いていないCDを聞いてみようと思った次第である。
ナクソスの日本の作品のシリーズは必ず買うことにしているのだが、山田耕筰は二枚目となった。ありがたいことである。こうして大正、昭和にかけての日本の交響運動のあらましがわかるのだから。それに片山杜秀氏による詳細な解説!これがあるからナクソス・ライブラリーというわけにはいかない。
「鶴亀」は江戸時代の十代目杵屋六左衛門の作曲による「鶴亀」に管弦楽の伴奏をつけたもので、山田耕筰の作曲というのはやや無理があるのかも知れない。更に言えば長唄の「鶴亀」自体ももともとは伝統的な能の演目をふまえて作られているのだそうだ。
長唄そのものへの私の知識などとるにたらないもので、こうした部分はこの解説が埋めてくれる。
詳細は解説に譲り、私は聞いてみた感想を述べたい。

山田耕筰はこの作品よりもずっと前の1921年に「明治頌歌」という作品を書き上げ(山田耕筰指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏が復刻されている)で篳篥を使ったのであるが、そうした日本の伝統的な音楽は、ずっと西洋音楽との関わりの中で育った彼にとってはひとつの挑戦だったと考えられる。
ちなみに山田耕筰は一家のキリスト教徒も多く、賛美歌や吹奏楽を聞いて育つという環境にあった。まだ東京音楽学校に作曲学科はなく、日本に作曲というものが確立していなかった時代のパイオニアは、西洋音楽の中で生まれて来たのだった。この点は考慮すべきだろう。
しかし「明治頌歌」はどう聞いても、ドイツの後期ロマン派風であり、シュレーカーの作曲だと言われたら信じてしまいそうになる。
片山氏は当時の山田耕筰をとりまく2つの時代背景を指摘している。その一つ目は、明治の文明開化以後の西洋音楽と伝統音楽の2つの潮流が拮抗していたこと。(宮城道雄などが活躍したのもこの頃だ)宮城道雄は「さくらさくら変奏曲」を書き、近衛秀麿は「越天楽」を管弦楽化した。二つ目は、無声映画の普及で西洋音楽に大衆が親しむようになって来たことである。SPで西洋音楽に触れる人も増えてきた。宮沢賢治の「セロ弾きゴーシュ」の時代がやって来たのだ。
こういう背景から、山田耕筰は自身があまり接してこなかった日本の伝統的な音楽に取り組むようになっていったのだった。このチャレンジの中で最も斬新だったのがこの長唄交響曲「鶴亀」であった。
元となった「鶴亀」が作られたのは黒船来航の二年前だというから、江戸時代末期も末期であった。まさに江戸時代に発展した文化の集大成の一つと言っても良いのかも知れない。
それを山田耕筰は管弦楽をつけて演奏するようにした。従ってこの作品は長唄を聞くものである。三味線もお囃子も唄も全て入っている。というより、長唄そのものに控えめな管弦楽がついているに過ぎない。
こうした物は、大体違和感を感じるものであるが、実は私は全く違和感を感じなかった。調律も違う、サウンドの違いは大きく、とても聞けた物ではないのではと思っていた。ちょっとしたゲテモノ趣味だと…。
しかし、私はとても自然に聞けた。それは控えめなオーケストレーションが原作を全く邪魔していないことにあるのだろう。見事だとか上手いとか言うのではない。特に変わったことをしているわけでもないのだが、長唄の発声、歌声とオケがこれほどうまく合っているとは思わなかった。
1934年の初演だと言うが、何度か再演されたようで、1960年には森正の指揮でレコーディングも行われたという。私は不残念ながらこれを聞いていないが…。
三味線と唄にヴァイオリンのソロが絡んだり、時々控えめにトランペットが鳴ったり…。この点、山田耕筰の実に手慣れた手腕とアイデアが生きていると思う。
彼が、戦後すぐに脳溢血で倒れ、半身不随となってしまい、充分な音楽活動ができなかったのは残念なことであった。この後に多くの人が続いたとは言え、山田耕筰自身による続く作品が聞きたかったという気がどうしてもする。
一度お聞きになってみてもいいものですよ。私は結構楽しみました。
by Schweizer_Musik | 2007-02-12 11:22 | CD試聴記