<   2005年 04月 ( 38 )   > この月の画像一覧
明日からしばらく
学校が始まって一ヶ月。やっと四月を乗り切ったところだ。ヘトヘトになってしまっている。現代音楽の授業ではバルトークの弦・打・チェレスタのための音楽の第1楽章をアナリーゼした。アトナール・セオリーの授業ではウェーベルンのパッサカリアを分析。オーケストレーションの授業ではホルンとファゴットの楽器についての説明とともに、イベールの木管五重奏のための3つの小品をこれは簡単な紹介程度だがやる。一日で準備する量としてはマックスである。二日連続のこの仕事は一年続くのだが、なかなかに大変な仕事を引き受けてしまったようだ。だが、やりがいもある。学生達はひたむきでやはり教えがいがある。昨年も愉しかったが、今年も愉しい一年になりそうだ。

さて、明日から私はちょっと留守をするので、このブログは5月5日までお休みします。
by Schweizer_Musik | 2005-04-28 02:25 | 日々の出来事
ラヴェルとシェーンベルク
ラヴェルとシェーンベルクは一歳しか違わない。彼らはほとんど同世代の作曲家であると言ってよいだろう。しかし歩んだ道は全く異なっている。ラヴェルは幼い時から音楽に親しみ、音楽院で正規の教育を受けたエリートだったが、シェーンベルクはツェムリンスキーに対位法を習ったくらいで、後は独学に等しかった。
ラヴェルは調性から離れようとはしなかったが、それを極限まで拡大してみせた。しかしシェーンベルクは無調から十二音音楽へと進んでいった。
ラヴェルは美しい響きのハーモニーに関心を持っていたと思われる。それは彼の様々な作品からわかることだ。しかしシェーンベルクは美しいハーモニーに興味を覚えたことはなかったと言える。彼が書いた和声法の本はフランスのシャランなどの課題と比べれば、その成り立っている世界が全く異なることを思い知ることになる。
ラヴェルが畢生の大作である「ダフニスとクロエ」を書いていた頃、シェーンベルクは5つの管弦楽のための小品 Op.16を書いていた。色彩感のあるオーケストレーションに大きな特徴があるとは言え、調性と縁を切ったシェーンベルクの音楽は、短く、挑戦的な響きに充ち満ちていた。
新しい音楽を切り開いたのはシェーンベルクだった。
この稿途中・・・後日、加筆する予定。
by Schweizer_Musik | 2005-04-28 02:23 | 授業のための覚え書き
授業とレッスンでクタクタ
一日10人の作曲のレッスンと2時間の授業をやって帰ると、もう夜の10時だった。クタクタ。ポップス・ソングを作っている学生が来たと思ったら、現代音楽で面白いことを考えて来る学生がやってくる。更に吹奏楽の作品を書きたい学生がいるかと思えば、久石譲風の癒し系のピアノの曲を書きたいと言う学生も来る。ジョン・ウィリアムズ調のオーケストラの曲を書きたいという学生もいる。対応するのは私一人だからつくづく守備範囲が広いことを意識してしまう。
明日は一日授業だ。準備はなんとか終わる。明日を乗り切れば、多忙を極めた四月の学校が終わる。N島君にはお礼のメールも出さずにいるのは、あれから全くそれにかかる時間がなく、目を通しただけで終わっているからで、申し訳ないばかり・・・。ありがとうね・・・。明日が終われば、今度は九州にちょっと行ってこなくてはならない。しばらくまたお休みとなる。この機会に原稿は進められるのではないかと思っているが。
by Schweizer_Musik | 2005-04-27 00:01 | 日々の出来事
無調への道、1900年代から1910年代の前衛
二十世紀の扉を開いた作曲家は誰か?この空しい質問に答える必要はないだろうが、色々と言われてきている。ワーグナーのトリスタンとイゾルデの前奏曲でドッペル・ドミナントの第五音下方変異が調性崩壊のきっかけだったとは、いろんな本に書かれてあるが、百歩譲ってこの意見を採り入れたとしても、この調性崩壊のきざしが劇音楽の分野で起こったことは象徴的である。
機能感を失った和音の連結は、音楽(主題)の持続的な発展・展開には寄与しなくとも、情景描写にはうってつけだった。ローエングリンの第1幕への前奏曲やリングの中の"Waldesrauschen"(森のささやき)などを聞けばよくわかる。グリーグのペール・ギュントの「朝」でも良い。
和声の機能はこじつけられ、遠隔調への連結が好まれるようになり、属音が解決されないままに放置されるに至って、新しい考えがそれにとって代わろうとしていく。それがモードであった。
シェーンベルクにとって、調性を捨て去り、全てを破壊することが目的ではなかったはずだ。ミヨーの多調性音楽にしても、シェーンベルクのドデカフォニーにしても古典の音楽を常にその根拠に求められていた。曰くベートーヴェンはすでにこうした未来の響きを予告していた。私はそれを展開してみせたにすぎないと。例えばモーツァルトの交響曲第40番の終楽章。展開部への移行部で主題の変形がフォルテのユニゾンで奏でられるが、それが同じ音の繰り返しのない12音であるとか・・・。
そうした話は、私に言わせればこじつけであり、詭弁に等しいが、この根本には主題の背景の統一というものが意図されていたことだけは間違いがない。

実は、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンやシューベルト、ショパンなど、ほとんど全ての大作曲家たちの音楽の、その構成原理は基本的に同じものである。つまり主題の音列、あるいはリズムに同じ素材を用いて、性格の異なるテーマ、メロディーの背景を統一することで、全体のまとまりを得るように作られているのだ。バッハの平均率クラヴィーア曲集の前奏曲とフーガもそうした緊密な関連の上に出来上がったものであり、ベートーヴェンもモーツァルトもショパンも皆これを学んでいる。
これを、ドデカフォニーはシステム的に行ってしまうのだから、どんなに書いても全体は統一され、まとまるはずなのだ。ここにドデカフォニーの可能性があるというのがこれを担いでいた人達の期待であった。

話をもとへ戻そう。調性が崩壊していく過程は、新ウィーン楽派だけではなかった。マーラーも第10番の交響曲でほとんどクラスターといった響きを書いている。後半、第一主題が帰ってきた後、その前はごく普通の和音が重なっていくフレーズが、クラスターのような音塊となって積み重なっていくところは、異界をのぞき込んだ瞬間のような、ゾッとするような感覚を受ける。リッカルド・シャイーの演奏で聞くとこの衝撃が薄れ、どうしようもないほどきれい事に聞こえてしまう。マーラーはあんな音楽ではない!私はロジェストヴェンスキーの指揮で初めて聞いて以来、この演奏以外では満足できないようだ。あれは、ロジェストヴェンスキーの最高の演奏だった。
マーラーの命がもう少し長くあれば、この作品も完成されていたはずだ。そうしたらどんな音楽になったのだろう。恐ろしいような・・・。だからクックをはじめ多くの復元版が作られたのだろう。クック版は優れた復元版だと思うが、(これを評価できるほど、私はマーラーのこの作品のことに詳しくない)作曲家がトルソとして残したものは、トルソとして味わうのがよいのではないだろうか。他者が勝手に手を加えることは、同じ作曲に携わる者としては抵抗感が禁じ得ない。こうした作品を書くパイオニアと言うべき人達がいて、アンタイルやヴァレーズといった人々が活躍する素地が出来上がっていったのだろうが・・・。

フランスでの無調への試みは、ドビュッシーが映像第2集の「 葉ずえを渡る鐘の音」で全音音階の試みを行ったあたりから始まった。1909年から10年にかけての作曲された前奏曲集第一巻の「帆」でもドビュッシーは全音音階を使用している。この作品ではドビュッシーは一つの全音音階による部分に対して中間部で変ニ長調の部分を対置することで全音音階による機能感の欠如とそこからの発展していく力の欠如を補うという手を使っている。
全音音階は、オクターブを全て全音にするため、導音を無くしてしまう音階である。そしてこのことは和声の機能感からの解放を意味する。聞いていていかにもエレガントな調性との別れをドビュッシーは選んだものだ。
この傾向は1904年に書かれた「喜びの島」あたりで半音階への偏愛が聞かれ、すでにその予告が行われていたが、これらの作品で、決定的となった。そして前奏曲の第2巻で調性感は一層希薄となり、続く「練習曲集」で更に推し進められる。
しかし、ドビュッシーはあまりに急進的で不協和な響きに対しては許せなかったのではないだろうか。彼のエレガントな耳は明らかにそうした「不作法な音」に対して本能的な拒絶を命じていたと思われる。
ピアノ連弾作品である「白と黒で」なども調性感は希薄であっても、不協和は徹底的に排除し、美しい倍音を構成する響きを目指して作られている。
最期の年1915年に書かれた「フルートとヴィオラ,ハーブのためのソナタ」はその美しい響きの向こうに新しい時代の響きを聞くことができる名作だ。しかし、調性から彼は決別することはついぞ無かった。無調にかわってドビュッシーは古い教会旋法に近づいて行ったのだった。

こうした無調への試みは、アメリカにおいてずっと大胆に行われた。アイヴスの諸作を思い浮かべてもらえればよい。典型的な日曜作曲家であった彼は「ドレミのために飢えるのは嫌だ」と生業を別に持ち、休みに作曲をするというスタイルを続けた。だから、「売れなくては」という強迫観念がないためか(笑)作りが大胆なところが特徴と言えよう。例えばアイヴスのヴァイオリン・ソナタ第1番は1903年から10年にかけて書かれたが、調性に近い響きを持つことは持っているが、それを大切にしようなどとは微塵も考えていない。
1906年に書かれた「宵闇のセントラル・パーク」は驚異的である。静けさと宵闇の明るさを管弦楽でこれほど見事に表現した作曲家がこの作曲家以前にいただろうか。遠くから響いてくるクラクションの音、全体がピアニシモであることなど、極めてユニークな作品である。これが1906年の作品だとは、にわかに信じられない。

この稿続く・・・
by Schweizer_Musik | 2005-04-26 23:51 | 授業のための覚え書き
昨日は選挙に行く
c0042908_7314942.jpg昨日は鎌倉市議会議員選挙。こちらに来てから棄権したことはない。まぁ、近いということもあるが・・・。
今回から長女も一緒だ。彼女もとうとう成人である。投票所で持っていた携帯電話のオマケのカメラで記念撮影。はしゃいでいたその様子をどうぞ・・・。こんな奴に選ばれる被選挙人が気の毒に・・・(笑)
夜は女房のパエリアと「甘いワイン」(私は好きではないが・・・)で祝う。晴天であったが、女房が応援していた人はどうだったのだろう。夜、選挙事務所に行っていたようだが私は色々あった一日で、疲れ果てて熟睡していたのでわからぬ。しかし昨日は花粉が多かったようだ。もう終わりだと思ったのにまだ続いている。やれやれだ。今日は朝から小糠雨が瀟々と降っている。もう初夏の風が吹くようだ。一年で一番好きな季節がやってくる。
by Schweizer_Musik | 2005-04-25 07:21 | 日々の出来事
津田理子さんの帰国コンサート!!
私が心酔するピアニストの一人、津田理子さんが、5月から6月にかけて一時帰国されて東京と九州でリサイタルや公開レッスンを行われます。
先のプログラム・ノートはそのコンサートのプログラムとして書いたもの。
5月30日は東京のカルラホールで、そして6月1日の夜は宮崎の県立芸術会館のイベント・ホール。翌日は宮崎で公開レッスン。一日おいて長崎でコンサート、そしてその翌日は鹿児島は鹿屋の坂元楽器エターナルファイン・ホールで。
二ヶ月ぶりとなる再会の時が楽しみではあるが、近くの方はぜひ行かれることをお薦めしたいところである。
宮崎は学校の授業を休んで私も行く予定だ。プログラム・ノートはその時のもの。書きすぎたかな?
by Schweizer_Musik | 2005-04-24 21:56 | 日々の出来事
津田さんのリサイタルのプログラム・ノート
プログラム 宮崎2005年

Scarlatti Sonate E-Dur L.430
(1685-1757)
Beethoven Sonate Op.27 Nr.2 “Mondscheinsonate”
(1770-1827)
(Sonata quasi una Fantasia)
-Adagio sostenuto
-Allegretto
-Presto agitato
Chopin Etude Op.25-1 As-Dur / Op.10-3 E-Dur
(1810-1849)
Mazurka Op.17-4 A-Dur
Ballade Op.47 As-Dur

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Alberto Ginastera Danzas argentinas Op.2 (1937)
(1916-1983) アルゼンチン舞曲集
-Danza del viejo boyero 年老いた牛飼いの踊り
-Danza de la moza donosa 粋な娘の踊り
-Danza del gaucho matero はぐれ者のガウチョ(牧童)
Alberto Ginastera Rondo sobre temas infantiles argentinos Op.19
アルゼンチンの童謡によるロンド

Claude Debussy Clair de Lune (月の光)
(1862-1918)

Sergej Rachmaninoff Moments Musicaux Op.16
(1873-1943) Nr. 5 Des-Dur Adagio sostenuto
Nr. 6 C-Dur Maestoso


解説

1) スカルラッティ ソナタ ホ長調 L.430
 ドメニコ・スカルラッティは1685年、イタリアのナポリに生まれた作曲家です。スペイン皇太子の妻となったポルトガルの公女バルバラの音楽教師となったのが縁で、後半生はスペインの宮廷音楽家として過ごし、同地で亡くなりました。
 彼ははじめは宗教的な作品も書いていますが、スペインに移ってからはもっぱら鍵盤作品を書き続けました。その数なんと550曲。「ソナタ」というタイトルのそれらの曲は、ベートーヴェンなどのソナタと違い、単一楽章による小さな作品ばかりで、長くてもせいぜい4分から5分程度の長さです。小品ながらもその華麗で色彩的な音楽は今日でも大変人気があります。
 このホ長調の作品もそうした作品の一つで、優雅な宮廷風の音楽が味わえます。

2) ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調「月光」
 1801年、ベートーヴェンは、「月光」という名前で今日親しまれている第14番のソナタを書きます。ベートーヴェン自身はただ「幻想的ソナタ」と呼んでいたにだけでしたが、この第1楽章をドイツのロマン派詩人レルシュタープが「スイスのルツェルン湖に映る月光の波に揺らぐ小舟のよう」と言ったことから「月光」という名前で呼ばれるようになりました。
 第1楽章はゆったりとしたテンポで三連符の分散和音がさざ波のように揺れ動き、伸びやかなメロディーがその上に訥々と語り始めます。左手のバスがゆったりと一つずつ順番に下がっていきますが、それが全曲を貫くモチーフとなります。ソナタ形式と言ってもよいのですが、かなり自由な構造で出来ています。
 谷間の百合によく例えられる第2楽章は、とてもチャーミングで、魅力的です。三部形式で出来ていて、第1楽章でバスにあった下降するモチーフが、今度は右手のメロディーに出てきます。
 第3楽章は豪放な楽想を入念に練り上げてソナタ形式にまとめあげた、いかにもベートーヴェンらしいフィナーレです。第1楽章と同様、バスに下降音型が出てきて、全体をまとめあげるのに貢献しています。

3) ショパン 練習曲 Op.25第1曲変イ長調「牧童」、練習曲 Op.10第3曲ホ長調「別れの曲」
 12曲ずつまとめられた二つのショパンの練習曲集は、単なる指の練習にとどまらない芸術性の高い作品として、多くの名ピアニストたちに愛されています。
 作品25の第1曲で両手のアルペジオによる優美な作品で、後の人々によって「牧童」という名前がつけられ親しまれています。アルペジオに乗って右手が歌い上げる素朴なメロディーが牧童の吹く笛の調べを思い起こさせるからこの名前がつけられました。また優雅なアルペジオを指して「エオリアン・ハープ」とも呼ばれることもあります。
 続いて演奏される作品10の第3曲「別れの曲」は、ショパン自身が「これ以上美しいメロディーを生涯に書いたことがない」と友人のグートマンに語っています。それほどの美しいメロディー。今日ではポピュラー音楽にまで編曲されて多くの人に親しまれている名曲中の名曲です。

4) ショパン マズルカ イ短調 Op.17-4
 ショパンの数多いマズルカの中でも屈指の名作と言われる作品17-4は、一部でポーランド時代に書かれたと言われていましたが、その円熟した筆致により、今日ではもっぱらパリ時代のものであると考えられています。内省的で寒々とした主部に挟まれたイ長調のパグパイプ風の伴奏を持つ中間部との対比が鮮やかです。こうしたパグパイプ風の伴奏はマズルカではこれ以前にも多く使われ、ショパンの音楽の民族的な音楽との深い結びつきを表す好例であると申せましょう。

5) ショパン バラード 第3番 変イ長調 Op.47
 バラードとは譚詩曲という訳語があるように、詩を元に作られた器楽作品を言います。ですからこのショパンの曲も元になった詩があるのですが、それがミッキエヴィッツの「水の精」という詩であると言われています。
 詩の大意は次の通りです。
「森をさまよう若者は、湖のほとりで水の精と出会う。若者と水の精は恋に落ち、決して心変わりしないことを誓い合う。また別の湖のほとりで若者は別の美しい女に会うが、この女は水の精の化身であった。女は誘惑して若者の誓いを試す。そして若者がその誘惑に負けてしまった時、女は水の精に戻り若者に抱きつくとそのまま深い湖水の底へと引きずり込む。後には静寂が残った。」
 1840年から翌年にかけて書かれたこの作品は、当時のパリの社交界の好みを反映したもので、他の3曲のバラードに比べるとはるかに軽快で華麗な作風によっていると申せます。音楽は洗練の極みに達しており、彼の傑作の一つと言えましょう。

       ============= 休 憩 =============

6) ヒナステラ アルゼンチン舞曲集 Op.2
 ヒナステラは今日ではピアソラの先生として知られていますが、二十世紀南米の作曲家としてはヴィラ=ロボス、カルロス・チャベスといった人達とともに最も重要な作曲家です。
 彼はアルゼンチンの民族的な素材をもとに数多くの作品を残しました。戦後一時期、モダニズムを目指したヒナステラであったが、基本的にアルゼンチンの民族的な素材を中心に作品を作曲した。
 彼はスイスのジュネーヴに1971年から住み、スイスで活躍するチェリストの愛妻と過ごしていた作曲家は、亡くなるまでその創造力は全く衰えることなく、晩年に至っても愛妻のために書いたチェロ協奏曲第2番など、傑作を残しています。
 そうしたヒナステラのこのアルゼンチン舞曲集は彼の最初期の1937年の作品で、第1曲「年老いた羊飼いの踊り」、第2曲「粋な娘の踊り」、第3曲「はぐれ者のガウチョ(牧童)の踊り」という3曲からなり、民族的な舞踊のリズムが積極的に採り入れられた曲集となっています。

7) ヒナステラ アルゼンチンの童謡によるロンド Op.19
 戦後の1947年に書かれたやさしい作風による曲です。ヨーロッパからアルゼンチンに伝わったという古い童謡のメロディーをもとに、ヒナステラ自身の子供達のために書かれました。

8) ドビュッシー ベルガマスク組曲より「月の光」
 1890年に書き始められたこの組曲は、出版が1905年と遅く、この間、かなりの推敲が行われたと想像できますが、定かではありません。しかし、その精緻なピアニズムは後の前奏曲集や映像を予告するもので、初期の作風を色濃く残しながらも傑作として知られています。中でも第3曲の「月の光」は独特の美しいメロディーと響きによって人気の名曲となっています。聞く者に「月の光」を連想させると言えば、第1部で弾かれたベートーヴェンのソナタと双璧ですが、その表現している世界の何と異なることでしょう!

9) ラフマニノフ 楽興の時 Op.16より第5曲変ニ長調、第6曲ハ長調
 ラフマニノフは大変傷つきやすいデリケートな心の作曲家でした。ですから自信作であった第1交響曲に対する心ない酷評に対して、二年以上も全く作曲できないほど大きな痛手を被ることとなりました。
 この2年間の空白の前、最期に書かれたのがこの「楽興の時」で、初期のサロン風の作品から大きく芸術的にも成長した充実した曲集で、作曲されてすぐに出版されています。
 第5曲変ニ長調は「バルカローレ(舟歌)」で、ラフマニノフはこのスタイルでいくつかの作品を書いていますが、その最初の作例と言ってよいでしょう。左手のさざ波のような伴奏の上に訥々とメロディーが流れていきます。第6曲ハ長調は劇的でしかも堂々としており、全曲を閉じるスケールの大きな曲になっています。
by Schweizer_Musik | 2005-04-24 17:32 | 原稿書きの合間に
ウェーベルンについて
新ウィーン楽派の中で、最も後世に影響を与えたのはウェーベルンだろう。初期の「夏の風の中で」なんていう作品は、1904年というシェーンベルクもまだ「ペレアスとメリザンド」などという作品を書いていた頃に書かれた習作のような作品である。演奏も1961年に遺稿の中から発見されてその翌年にシアトルで初演されたという作品である。ヴィッレの詩による標題音楽であるが、冒頭から分割された多声部の弦楽に長和音と短和音を行ったり来たりさせていたりと、面白い部分がいくつもある。ソロへの偏愛はマーラーのオーケストレーションの特徴でもあり、聞いているとウェーベルンが対照的なマーラーからも大きく影響を受けていたことを実感する。そうあの第十番の交響曲は未完に終わったとは言え、第1楽章のあの深淵をのぞき込むような一瞬は今日の音楽を予感した一瞬でもあったことを思い知るのだ。

シェーンベルクの高弟として世に出たウェーベルンはベルクと共に、二十世紀の最重要な作曲家となっていく。師であるシェーンベルクは1874年の生まれで、ウェーベルンは1883年、ベルクは1884年の生まれという間柄だったが、ベルクは腫瘍により1935年に50年の生涯を閉じた。そしてその十年後。戦争が終わったウィーンの町でアメリカ兵の誤射により突然命を奪われるという悲劇(今もどこかの国であの国はこれを繰り返している・・・悲しいことだ!)を見舞う。師のシェーンベルクはその後1951年まで亡命先のアメリカで(彼はユダヤ人であったため、1933年ナチスが政権をとった時にフランス経由でアメリカへ亡命していた)生き続けた。だから彼は「ワルシャワの生き残り」などという激しい怒りをそのままぶつけたような音楽を残した。師が最後まで生き続けたが、晩年の彼はカリフォルニア大学における教鞭をとることで(その講義の内容は「作曲の基礎技法」という名著となって残っている)、ヨーロッパ時代の先鋭さから離れていった。ナチスによる悲劇が無ければ、シェーンベルクはヨーロッパにとどまり、弟子達と共に更に大きな仕事を残したかどうかは、今となってはわからないが・・・。

ウェーベルンに戻ろう。私が彼の音楽で最初に感動したのは、「パッサカリア」であった。作品番号1とつけられたこの音楽はカルロ・マリア・ジュリーニ指揮ウィーン交響楽団の演奏会ではじめて聞いたものだった。ほとんど沈黙に近いピアニッシモからフォルテシモに至る大きなダイナミック・レンジにも驚かされたが、精緻な響きは武満徹の音楽を初めて聞いた時の印象にとても近いものがあった。ニ短調を中心として、バロック以前の変奏曲の手法であるパッサカリアという形式を、自分を世に問う最初の作品の形式に選んだウェーベルンは、その基本において、実に古典的な作曲家だった。ベルクの方がずっとロマン派にどっぷり浸かっていた。(もちろんどちらがより優れているとかいうレベルの問題ではない。敢えて言うならどちらも天才だ!)
パッサカリアの主題そのものがすでに調性を微妙に外れるように書かれているが、基本的にニ短調で書かれている。ただ、オーケストレーションは完全に二十世紀のものだ。ハープも多用されているが、ドビュッシーやラヴェルとなんと違うのだろう。
ウェーベルンがいかに天才であったか。それは彼が編曲したバッハの音楽の捧げ物の6声のリチェルカーレを聞くだけでも良いだろう。昨日の授業でこの曲を聴かせ、一つの旋律をいくつかの楽器(音色)に振り分けるという手法を説明し、その点描的な書き方の特徴を感じさせることを目標としていたのだが、どうだったろう。バッハを乗り越えてしまった唯一の編曲であると私は考えている。その意味でこのアレンジは不朽の名作だと思う。現代音楽の音楽番組などでテーマ音楽に使われることも多いが、(原曲を知っている人を除いて)バッハだと思って聞いている人がどれほどいるだろう?
さて、作品1となった1908年に書かれ、初演されたパッサカリアの後、二つの合唱作品と二つの5曲からなる歌曲集でかろうじて調性の殻を残したウェーベルンであったが、作品5の弦楽四重奏のための5楽章を翌年に発表し、調性と決別する。シェーンベルクも調性との決別を同じ頃に行っているが、この頃の二人の音楽には大きな差を私は感じていない。ウェーベルンは基本的に厳しく表現主義的で、激烈な表現に傾斜していた。後の作風とこの辺りは大きく異なる。作品5は1930年に弦楽合奏用にもアレンジされて(これは簡単に思われているが、実はそれほど簡単なものではない!)いるが、それほどウェーベルンにとって記念碑的作品なのである。
作品6の管弦楽のための6つの小品はそうした激烈なウェーベルンを聞くことができるが、シェーンベルクの同時期の作品である5つの管弦楽のための小品Op.16と、ウェーベルンはかなりの差がある。シェーンベルクの方が明らかに激烈に不協和音を強調しているが、ウェーベルンは室内楽的な表現に向かっていて、とてもデリケートなのだ。
翌年に書かれたヴァイオリンとピアノのための4つの小品は、後の音の点描主義とも言われたウェーベルンの特徴をよく表している。弦楽のための5つのパガテルで使われた様々なヴァイオリンの奏法による音色の多彩さへの挑戦は、この頃から彼が表現主義から音色への指向を強めていたことを表していて興味深い。
オーケストラのための5つの小品 Op.10 (1911-13)はそうしたウェーベルンの個性が最初に、そして完全な形で示された傑作である。短いミニアチュールの中から表現される沈黙と手を結んだ劇性は、大変大きな振幅を持っている。ただこの作品は作曲されてすぐには演奏されなかった。世界大戦が邪魔したのだ。結局シェルヘンらの努力によって1926年にチューリッヒで初演されたのだが、その頃には十二音による点描主義、音色旋律など、彼のスタイルは完全に確立されていた。しかし、この曲を聴いて、そのギャップに気づいた人はいなかったのではないだろうか。
ポンティチェロ(駒のそばで弾く弦楽器の奏法)など、今日では別に珍しくもない技法がそこかしこに使われ(これは弦楽四重奏のためのパガテルでもそうだ)金管にはミュートが、ホルンにはゲシュトップが、そしてなんとMandolineが使われ(マーラーの第七番を思い出す!!)、調性の無い世界で色彩的な管弦楽法が試みられている。

そして、チェロとピアノのための二つの小品を経て、十年あまり、合唱曲や歌曲を中心に作品を残している。
実はウェーベルンはその残した作品の少なさにしては、歌曲の割合がかなり高い。宗教的なテキストを含めて、かなりの分量にのぼるのだが、あまり取り上げられないのは残念なことだ。
最初期の習作の時代から、数多くの歌曲を残したウェーベルンは、管弦楽作品や室内楽、ピアノ作品ばかりが取りざたされるのに、あの世で残念に思っているに違いない。作品番号のついていない初期の平易な語法で書かれたものから、1943年の最後の作品となったカンタータ第2番に至るまで、声楽はウェーベルンの大きなテーマだったことを我々は忘れてはならない。

そしてこうして歌曲の時代が十五年ほど続いた後、1927年に発表した弦楽三重奏曲で、十二音による点描的な作風を確立し、激烈な作風から脱却し、沈黙多き、独特の音楽を作るようになるのだった。
続く交響曲は全2楽章で、1929年にニューヨーク・フィルハーモニックで初演されてこの作品は、そうしたウェーベルンの頂点を築いている。この後書かれた「九つの楽器のための協奏曲」とともに彼の最高傑作であると私は確信している。これ以後に書かれた彼の作品はどれもが珠玉のような傑作ばかりだ。中でも1940年に完成した管弦楽のための協奏曲Op.30は、バルトークの名作と同じ時期の作品とはにわかに信じることが出来ないほど、現代的である。
ウェーベルンの音楽は20世紀の前衛音楽にとっての出発点であった。彼は師の考案した十二音音楽を精緻なミニアチュールにして「見せた」のだ。彼の音楽は肉体のない骸骨のようなものでもあった。十二音を切りつめ、響きに対するチャートに従って絶妙な音楽を作り上げたが、あまりに精緻に過ぎて普通の人間である私たちが聞いて楽しむというより、楽譜を見て、その精緻さに驚くというような音楽であった。
例えば、ピアノのための変奏曲という曲がある。第1曲は最初2音から3音の重なりによる十六分音符の静かな響きで始まり、これが4音の重なりになり、やがて32分音符というより細かなリズムに移り発展する。そして最初の世界がいきなり戻るが、ここでは4音の響きを残している。全曲をアナリーゼすると膨大な話になるのでこの程度にしておくが、ピアノで彼がいかに音色、響きというものに注目していたかがよくわかるだろう。
合唱作品として書かれた二つのカンタータが戦争中の彼の成果であったが、ウェーベルンの最期は悲劇であった。アメリカ兵が誤ってウェーベルンに向けて撃たれた弾丸が彼を貫いたのだ。この世紀の早とちりで音楽界が失ったものは計り知れない。そして同じ事を今もアメリカはどこかの国でやっているという。悲しいことだ、実に悲しいことだ。
ウェーベルンの音楽を出発点として、戦後のヨーロッパでメシアンやブーレーズが活躍をはじめる。しかし、最もいなくてはならなかったウェーベルンはそこにいなかった。
by Schweizer_Musik | 2005-04-21 23:13 | 授業のための覚え書き
シェーンベルク
20世紀の音楽を俯瞰することを第1クォーターの柱に据えることにする。
本科の明日の現代音楽の第一回の授業ではシェーンベルクなどのドデカフォニーをとりあげる予定。クォーター末にはドデカフォニーによる室内楽の小品を課題として提出させることにして、その技法の発展を考察していってみたい。
まずはシェーンベルクだろう。
十二音に行き着くまでのシェーンベルクは様々な試行錯誤を繰り返している。もともとは「淨められた夜」という大変ロマンチックな音楽から出発した彼は、次第に新たな調性の体系を模索しはじめる。
ワーグナーなどの和音の複雑化によって始まったとされる調性の崩壊は、ドビュッシーなどにモードの導入によって細々と生きながらえていたとは言え、20世紀はじめに発表されたストラヴィンスキーの「春の祭典」で最終的に壊滅してしまう。
時は第一次世界大戦が巻き起こり、ロシア革命が世界中を不安に陥れていた時代であるが、一方でアメリカのジャズ(概念は今日のジャズと全く異なる・・・これについては後の授業で触れる)がヨーロッパに少しずつ入ってきて、袋小路に追い込まれていた作曲家達を大いに刺激する。
新しい芸術運動は様々に巻き起こっていた。ドビュッシーたちに反対してサティを盟主とする6人組(作家であるコクトーが中心になっていた)が一瞬であったが輝きを放ったのも、このジャズと結びついた古典主義の人達の間であった。
しかし、十九世紀を貫いてきた形式と語法はすでに混沌としていた。

シェーンベルクはこの十九世紀の語法から出発している。彼の弟子達も同様だった。なかでもシェーンベルクの「淨められた夜」は世紀末芸術の典型の一つと言えよう。
彼はブラームスとワーグナーの伝統の上に生きた。しかしそこはもうすでに枯れかけた土地であった。新しい波の中で彼はこの作品の後、試行錯誤の時代に入る。
「試行錯誤」とは言い過ぎかも知れない。どれもが新しい語法に向けたチャレンジであるが、どれもが完成しているからである。ただ十二音によるシステムに向けてのチャレンジという意味で「試行錯誤」という言い方をしているに過ぎない。
1902年から1903年に書かれた交響詩「ペレアスとメリザンド」でシェーンベルクと最後のロマンチックな作品を書き、以後この世界と決別する。
1906年に書かれた室内交響曲第1番は4度を基本として既成の和声構造を持たない作品として構想された。九つの楽器による単1楽章による交響曲という試みは、ブラームスのバロック音楽からベートーヴェン、シューベルトを意識したスタイルをその根本で受け継いだものと言える。対位法への偏愛ともいうべきスタイルも、以前の「淨められた夜」のスタイルから発展したものだ。しかし、表現されているものの何と違うことか!
枯れた地平から新しい豊かな地平へのチャレンジは大戦前に広まりつつあった表現主義がその大きな推進軸となった。
絵画ではココシュカなどの強烈な作品があるが、1907年に彼が書いた脚本「殺人者、女たちの希望」は1909年にウィーンで上演され、メーテルリンクなどに大きな影響を与えた。そしてこのウィーンでシェーンベルクがこの傾向を取り入れようとして1912年に書いたのが「ピエロ・リュネール」である。
この作品以前にも1909年に書かれたモノドラマ「期待」などの作品があり、そうした地平の上に「ピエロ・リュネール(月に浮かれたピエロ)」がある。
この作品では、レチタティーヴォ技法と語りとの境界がなくなり、音程については目安として書かれてあるだけになっている。今日ではこの程度の無調による歌唱は、技術的には可能であり、当たり前となっているが、当時としてはとんでもなく大変なものだったと想像できる。それで音程はいい加減でも良いという書き方をしたらしい。
このインパクトは大きかった。が、ストラヴィンスキーなどのバレエのスキャンダラスな初演や、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」(1911)などの音楽の出現によってそうした新しい試みは霞んでしまっていた。
この後もシェーンベルクは様々な作品で無調を試み、新しい語法を編み出そうと努力している。「5つの管弦楽のための小品」Op.16は色彩的なオーケストレーションで、彼の弟子のウェーベルンを予感させるものとなっている。また1909年の3つのピアノ曲Op.11で十二音の概念である音列を一部に取り入れてみたりしているが、それが更に推し進められた結果1920年から1923年にかけて書かれた5つのピアノ曲Op.23の第五曲「ワルツ」で十二音音楽が完成したのだった。
続いて組曲Op.25は全曲が十二音で書かれているし、木管五重奏曲はアンサンブルにまでその理論が応用された最初の作品となった。
シェーンベルクは十二の音を一つの重複、繰り返しもなく並べ、それをもとに反行、逆行、反行の逆行という4つの音列を作り上げ、それを半音ずつずらして全部で48の音列を作りあげ、それをもとに書くことで統一感のある音楽が書けることを証明してみせた。
とは言え、以後の全てのシェーンベルク作品が十二音で書かれているわけではないが、オーケストラ作品にもそれは応用され管弦楽のための変奏曲やピアノ協奏曲、バイオリン協奏曲など大規模な作品にもドデカフォニーは使われ、弟子のベルク、ウェーベルンといった作曲家たちもこれを大いに使って作品を発表していった。
次回はウェーベルンについて。
by Schweizer_Musik | 2005-04-20 01:30 | 授業のための覚え書き
上の写真・・・
上の写真は私のスイス取材旅行で大切な助手を務めてくれたN島君の撮影によるもので、レマン湖畔の風景である。どこかは知らないが、おそらくローザンヌのウシーあたりではないかと想像している。白銀の山はフランス・アルプスだろう。自分で撮っていないので、エラソーなことは全く言えないのがちょっと寂しい。ああ自分で行けば良かったと思うところもあるが、それではとてもあんなに回ることは不可能だった。しかし、なかなか味わい深い良い写真なので気に入っている一枚だ。すでに私はあちこちで使ってしまっている。N島君、お許しを!!
ところで、スイスの写真ですから!決して琵琶湖でも北海道のどこかの湖水でもないので・・・。

今朝はこのブログの表紙の写真を今日五枚ほど作る。暇だったわけではないのだが、何だか落ち着かず、現代音楽のCDを聞きながらこんなことをやっていた。フィリップ・グラスの音楽など聞いていると、このスイスの風景とあまりに違う文化の中に生きている音楽だと痛感する。
音楽がその文化的背景を持っていることを、現代の音楽でも感じることができたのは一定の成果であった。明日は実技のレッスンと授業がある。どうも担任をやっていた時と違い、新しい授業を担当することになって、準備することがものすごく増えて大変だ。
午後からは明日の準備に専念せねば・・・。
by Schweizer_Musik | 2005-04-18 11:55 | 原稿書きの合間に