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補講が終わった・・・
昨日は冷たい雨の中、久しぶりの月曜日の出勤となる。朝早く出て、夜遅くまで何があったかと言えば、補講!である。この学校で初めての補講であるが、試験前の最後の週ということで、目一杯時間をとって行った。第2専攻の学生たちは全員休んでしまったが、それでも実習の方は時間が足りないという状況。
この下手な私のピアノが大活躍するなんて、想像もつかなかったが、学生達の曲を片っ端から初見で録音してCDにしてあげていくという作業を行った。午前中はソプラノ・サックスと、そして午後はヴァイオリンと。
そしてその後は、授業と現代音楽の話。ああ疲れた疲れた・・・。授業をしながらうとうとしてしまい、途中で休憩をとって缶コーヒーを飲む。こんなこと初めて・・・。水曜日の分の補講は七月にすることになっているが、こちらは特に問題はない。
それもこれも今日から三日、宮崎に行くためである。明日は宮崎で津田理子さんのリサイタルがあるからだ。チューリッヒ以来の再会である。数日前に来て、昨日は東京でサロン・コンサートを行っているはずだ。行けたらと思っていたが、とんでもなかった。
しかし今日から三日間。宮崎の懐かしい面々との再会が待っている。楽しみだ。七時には出なくてはいけないので、そろそろ準備にかかろう。
ブログは木曜の夜に再開します。
by Schweizer_Musik | 2005-05-31 05:48 | 日々の出来事
遅れに遅れている・・・
ああ、原稿を書く時間がとれず、遅れに遅れている。こまったものだ。ようやくバーゼルを書き上げ、バーゼル・マドリガリーステンやネフ、オルガニストのルドルフ・シャイデッガーなどについて書き上げた。
続く章も半分ほど終わる。予定をかなりずれ込んでしまったのはなんとも情けない。あと二〜三日で書き上げたいのだが、時間はなし。やれやれだ。
by Schweizer_Musik | 2005-05-29 18:26 | 原稿書きの合間に
マーラー/交響曲 第2番 ハ短調「復活」バーンスタイン指揮ニューヨーク・フィル *****(特薦)
バーンスタインのニューヨーク・フィル盤である。この後何度かこの曲を録音し直しているが、この録音はバーンスタインのこの曲の録音の中でも最も個性が弱いと思う。しかしそれ故にマーラーの音楽が自然に呼吸しているようで私は良いと思うのだが如何だろう。
第一楽章は、やや燃焼不足の感もあり、彼ならばもっと燃え上がるような演奏が可能だろう。しかし、冷静にバランスをとりながら集中していく様はなかなかのものだ。ショルティのようにキビキビしすぎた演奏ではこのうねるような情感は出てこない。これこそがバーンスタインの指揮だ。レオポルド・ストコフスキーもこの曲をロンドンで録音しているが、あれはちょっと?だった。ロンドンでの「復活」と言えばやはりテンシュテットだろう。あの青ざめた演奏はバーンスタインとは対極にある。しかし、何と重いものを彼は背負っているのだろう。最初から彼は燃え上がらない。内に秘めたものが次第に飽和状態に向かい、そして全面的な崩壊に繋がっていく。その過程に安らぎの満ちたメロディーと皮肉にみちたリズムがある。これはテンシュテットからしか聞くことはできない。
この面でバーンスタインは直情的で一本調子とも言ってよい。テンシュテットの屈折の仕方は尋常ではないと思う。しかしバーンスタインの演奏は親しみやすさがある。テンシュテットの演奏のように深い傷を負っていない健康がベースにあると思う。これがこの演奏の魅力の全てではないだろうか。
曲のアンサンブルは見事と言って良い。ニューヨーク・フィルは本当は上手いんだなぁと思う。しかし、このオケは手抜きをよくしてくれるので、どうも私の信用が今ひとつだ。この演奏における彼らはベストを尽くしていると思う。
第2楽章ののどかなダンスは、このバーンスタイン盤以上のものがあるだろうか?同じオケを振ったワルターの演奏はここまでチャーミングではなかった。このワルターの演奏は「巨人」ほどの高みに達していないというのが私の意見。これはテンシュテットの名演に比べるとよりその思いを強くする。もちろん凡演などでは決してないのだが、こちらの耳が肥えてしまったのだ。
ミヒャエル・ギーレンの演奏も悪くないのだが、彼は情緒というものをどこかで切り捨ててしまうところがある。この第一楽章であれほどの名演を聞かせながら、第2楽章でサラサラと流してこの楽章の持つ意味「この敬愛する死者の生涯の中の至福の瞬間。彼の刺繍と、もはや失われてしまった無邪気さへの哀愁に満ちた追憶」というマーラー自身の言葉からするとやや離れているように思う。
こうした面でテンシュテットとバーンスタインは理想的だ。ストコフスキーは明らかに違和感がある。彼は早くからこの作品をとりあげていたが、演奏はちょっとマーラーとかけ離れているように感じる。
他にあげるとすれば、ベルナルト・ハイティンクのクリスマス・ライブ(1984年)だろう。テンシュテットと全くことなる表現ながら、最高のレベルに達しているものとしてあげられよう。アバドのものは二種類とも今手元になく、確認できなかった。小澤征爾の録音も残念ながら手元にないので聞きくらべできなかった。
「不信仰と否定の霊が彼をとらえた。混乱した様々な夢を見る」という第三楽章の混乱はテンシュテットほどでなくともバーンスタインは十分に表現している。ハイティンクのライブ盤がこれに続く。カノン的にレントラーの舞曲が展開しているところにないきなりブラスのファンファーレが鳴り響いたりと、音楽が全く脈略なく混乱していくのに、あまりに整理されすぎてしまうと、この楽章の面白さが半減してしまうのだが、バーンスタインの真っ直ぐな解釈はありのままのマーラー像を描くことで、この複雑な楽章を見事に表現している。
第四楽章の「原光」はリー・ヴェノーラ(sop)とジェニー・トゥーレル(messo-sop)によって歌われる。これはいつ聞いても感動的な楽章で、中間の三楽章を締めくくるものとして大変見事な効果を持っている。ただトゥーレルの歌については、好き嫌いがはっきりでるだろう。私は十分に美しいと思うが、声がやや個性的で、これがルートヴィヒだったらとかいう贅沢なことをいいたくなるのも事実である。
終楽章の感動的な表現は、バーンスタインの独壇場だ。テンシュテットはここでも天国にはいけない。彼は心から歓喜していないのだ。しかしバーンスタインは違う。彼の歓喜に一点の曇りもない。そのあどけないほどの純真さはおそらくマーラーの本質なのではないだろうか。だからこそあれほどに精神が引き裂かれていったのだと私は思う。
私はテンシュテットの表現とバーンスタインどちらも好きだ。長大なこの交響曲のフィナーレを感動的に最後の歌い上げるカレジェート合唱団もまた大変優れた演奏である。祈りの深さ、重さをこれほどストレートに表現されるともはや感動する以外にないだろう。後年の円熟した彼から失われてしまった輝きをこの演奏からたっぷり味わうことができる。その意味でこの1963年の録音はかけがえのない価値を持ち続けている。ヴェノーラとトゥーレルの歌はとても良い。名演である。歴史的に評価の定まった名盤故に推薦も何もあったものではないのだが、やはり無印では失礼だと思うので特薦とさせていただく。

マーラー全集第一巻/バーンスタイン/SONY/73DC221〜3
by Schweizer_Musik | 2005-05-29 08:11 | CD試聴記
ドゥ・ラ・ブルショルリのCD化を望む・・・
九州で整理したレコードの中から、持ち帰ったレコードにモニーク・ドゥ・ラ・ブルショルリが弾いたチャイコフスキーのピアノ協奏曲の一枚があった。この前から聞き返してみて久しぶりに感動。アルゲリッチの演奏なんてまだまだと言いたくなるほどの熱い演奏に、心奪われた。これほどの演奏家が交通事故で再起不能となり、その数年後、ひっそりと亡くなっていたとは。共演はルドルフ・モラルト指揮ウィーン・プロムジカ交響楽団。大変なテクニシャンであるが、音楽への集中力がとてつもないのだ。これを聞くとアルゲリッチのキリル・コンドラシンとの共演などがそう大したものでなく聞こえてくるから不思議だ。
ヴォックス原盤のこの演奏がCDになったという話はまだ聞かない。残念なことだ。かつて、モーツァルトの協奏曲も持っていたが、あの一枚は大阪の実家に置いたままになっている。彼女はドイツの評論家として名高いカイザーも絶賛していた名演奏家であるが、残念なことに忘れられるのが早すぎるように思う。
多くの演奏家が復刻されている現在、どこかが彼女の録音を探し出してCDにしてくれないものだろうか?
by Schweizer_Musik | 2005-05-28 22:00 | 音楽時事
ショーソンの詩曲を聞き比べ
この詩曲は、私の好きな曲の一つで、CD初期に、鹿児島の天文館にあった名曲喫茶で何度と無く前橋汀子さんの演奏で聞いた思い出がある。学生時代に大枚はたいてコンダクター・スコアを手にしたことも懐かしい。当時はレコードを持っていなかったのにもかかわらずである。
この幻想的なハーモニーに魅せられ、ピアノに移してボソボソ弾いてはため息をついていたことも懐かしい。
この曲もそう大して色々な演奏を持っているわけではない。実はキョン=ファ・チョンの素晴らしい演奏があれば良いと思って積極的に集めていなかったのだ。他には、オケの独走が目立つとは言え、ダヴィド・オイストラフとシャルル・ミュンシュの演奏や古いユーディ・メニューインとエネスコの共演やジャック・ティボーとアンセルメの録音、更に美しいジノ・フランチェスカッティの録音も・・・。ああバーンスタインがもっとデリカシーに富む指揮者であったなら、せめてこれがジョージ・セルかオーマンディだったらと嘆くことしか今は出来ないが・・・。
で、これらの録音を聞き返してみた結果を報告したい。この一ヶ月、現代音楽ばっかりだった耳にビタミンを与えるつもりで、今日の午後はこの曲を聞き、レッスンをし、またこの曲を聞いていた。

まず最初に取り出したのはダヴィド・オイストラフとミュンシュの1955年12月14日ボストン・シンフォニー・ホールでの録音である。鉄のカーテンの向こうからやってきたこのヴァイオリンの巨人によるフランス物は線の太い楷書のショーソンだ。スケールの大きな表現は見事で、ミュンシュは合わせ物は明らかに上手くない。交響曲のように独走してしまうのだ。しかしオイストラフはその上を行く。暴れ馬を乗りこなしてとてつもないスケールで描いたショーソンだ。しかし、私のこの曲に持っているイメージとは明らかに大きく異なるので、どうしてもファースト・チョイスの演奏にはならない。
エネスコがピアノ伴奏で弾いた1928年頃の録音もあるが、これはBiddulph/LAB 066ではノイズが多すぎて困ったものだが、EMIのヴァイオリンの巨匠達(男声篇)(EMI/CE25-5886〜95)は大変良い復刻で十分に鑑賞できる。戦前の決定盤であったそうだが、確かにこの幽玄な世界は独特である。ピアノに少々不満もあるが、エネスコの変幻自在の表現によくつけていると思う。オーケストラではこうはいかなかったことだろう。音楽がピアノにシフトするとエネスコの幅広い表現を聞いてくると、ちょっと一本調子に聞こえてしまうのは、ピアニストが悪いわけではなく、ヴァイオリニストが良すぎるために起こる現象だ。

この録音のほぼ五年後、パリでエネスコはオーケストラを指揮してこの曲を録音しているが、その時のヴァイオリン独奏は若いユーディ・メニューインである。
サーフェイス・ノイズはあるが、EMI/5 65960 2の復刻は見事だ。とても聞きやすい復刻で、これはモノラルでの決定盤と思えてくる。オーケストラのパリ交響楽団がどういう団体かは知らないが、大変良い演奏で、エネスコの本職でない指揮でここまでついてくるのは大したものだ。ところどころ指揮者のミスによると思われるアンサンブルのほころびはあるし、弦の盛大なポルタメントに時代を感じるものの、そんなことはすぐにどうでも良くなる。どこもかしこも霊感に満ちあふれた演奏だ。これぞ歴史的名盤!!

次ぎに取り上げたのは、トーシャ・ザイデル(vn),レオポルド・ストコフスキー指揮ハリウッド・ボウル交響楽団の1945年7月22日録音である。ザイデルは知る人ぞ知る名手だが、ストーキーはこうした合わせ物が実はとっても上手いのだが、この演奏もうまくつけている。しかし、どうも居心地の悪い演奏だ。ストコフスキーとショーソンの相性はあまりよくないのではないか?ザイデルも演奏もエネスコや若きメニューインの名演を聞いた後で聞くと、どうも今ひとつというところ。ザイデルのピッチもあまり良くない。私は少々気持ちが悪かった。

ジャック・ティボー(vn),エルネスト・アンセルメ指揮スイス・ロマンド管弦楽団の1946年の演奏はこのザイデルの後ではものすごく感動的だった。アンセルメのこうした作品でも冴え渡った指揮は定評のあるところだ。
ヴァイオリンは多少のジャック・ティボーの年齢を感じさせるとは言え、なんて素晴らしいのだろう。音楽に集中しフレーズを歌いきっていく。緊張感は大変なものだが、それを受け止めるアンセルメの指揮の落ち着いたテンポにより、一本調子の高揚した演奏と一線を画すものとしている。
エネスコの指揮でのメニューインの演奏は、感性の瑞々しさにその高い価値があると思うが、総合点では明らかにこのジャック・ティボーによる演奏が全てにおいて勝っている。アンセルメの指揮もエネスコの指揮とは比べ物にならない。

ジノ・フランチェスカッティとバーンスタインの録音は、素晴らしいヴァイオリンに対して、バーンスタインの演奏がチャイコフスキーの「悲愴」になってしまっている点が残念だ。響きに対するデリカシーが無いというべきか。ネチッとしたサウンドに冒頭から最後まで違和感を感じたが、この演奏が評論家は一番にあげていることが多いのは何故だろう。
バーンスタイン流にショーソンを解釈しているわけで、それを非難する気は毛頭無い。これも一つの解釈である。

今のところ、最もよく聞く演奏はキョン=ファ・チョンとデュトワが組んだ1975年の録音である。キョン=ファ・チョンはこの頃が最も勢いがあったし、演奏にひらめきがあった。曲によっては鬼気迫るものもあるが、このショーソンでは実にバランスがよろしい。ちょうどユーディ・メニューインの若いときの演奏のように。しかしそれだけではない。デュトワ指揮のロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団がなかなかに良いのだ。
かつてLPでよく聞いた演奏はアルチュール・グリュミオーであった。マニュエル・ロザンタ−ルが指揮したあの演奏は私のこの曲の原点になっているようだ。あの演奏は今は行方不明で、また聞いてみたいという気がしないでもないのだが、今、キョン=ファ・チョンの演奏があるので、十分に楽しめている。

で、結局のところザイデルとジノ・フランチェスカッティの演奏には多少不満を持ったものの、その他は結構楽しんで聞けたのが実情で、どれもがお薦めというわけのわからない結論としておこう。
by Schweizer_Musik | 2005-05-28 21:35 | CD試聴記
ラヴェルとショーソンのピアノ・トリオ *****(特薦)
1983年の録音。ラヴェルとショーソンの名作を二曲録音したもの。
ラヴェルの作品のなんともロマンチックな演奏。イヴォン・カラシリ(vn),クラウス・ハイツ(vc),アンリ・バルダ(pf)の三名による1972年録音の演奏(ラヴェル室内楽全集の中におさめられている)などに比べるとずっと大人の演奏である。
若き日のナヴァラが参加した1941年のダンテ盤(DANTE/LYS380〜381)は演奏は理想的なのだが音が悪いというか盛大なノイズの彼方の音を聞く趣である。ダヴィド・オイストラフ(vn),スヴャトスラフ・クヌシェヴィツキー(vc),レフ・オボーリン(pf)の3人の録音は目覚ましいものだが、1952年のモスクワ録音でノイズが気になるが、ナヴァラの盤ほどではなく、とりあえずこの演奏で我慢をしておこうかというところだった。(演奏そのものは最高級のものであるが、録音が・・・)
CDが売り出されて最初期に出たボザール・トリオ(メナヘム・プレスラー(pf),イシドーア・コーエン(vn),バーナード・グリーンハウス(vc))の演奏はそれこそ素晴らしいもので、決定盤とおもわれたものだ。しかし、意外にも彼らの評価はこの頃低く、あまり話題にならなかったのは不思議だった。常設のトリオとして目覚ましい活躍をしていた彼らが認められるようになるのは二十一世紀の声を聞くようになった九十年代後半になってからだった。
その彼らのラヴェルは決定盤と言ってよいだろう。ロマンチックに過ぎるかもしれない。歌い回しだけでなくテンポの動きもロマン派的であり、ラヴェルの演奏にしては少し感情移入が大きすぎるところもある。ヴァイオリンのコーエンはがんばっているものの、ダヴィド・オイストラフとでは勝負にならない。線が細いのだ。しかし、アンサンブルのヴァイオリンとしてはなかなか美しい。逆に3人のバランスということでいけばボザール・トリオの演奏は大変よくまとまったもので、満足のいくものである。チェロの名手グリーンハウス(確か彼だけが創設以来のメンバーではなかったか?)のアンサンブルを知り尽くしたベースの支えで、大変見事なまとまりで、これは推薦できる。
第1楽章のModereはいかにもラヴェルの作品らしい旋法をうまく使い、柔らかな抒情を湛えた音楽。第2楽章はパントマイム。実に技巧的な作品で、ラヴェル以外に絶対に書けそうもない音楽。これでパントマイムをやっているのを見たことはないが、忙しない劇となろう。音楽は明らかにスケルツォである。ボザールの緊密なアンサンブルはこうした楽章で威力を発揮する。オイストラフ・トリオの演奏は少しゆったりとしたテンポを選んでいて、それによって音楽の構造がよく聞き取れるのだが、スケルツァンドな性格は少し薄められてしまう。
第3楽章のパッサカリアは緩徐楽章の役割を担っているが、クープランの墓のなかのフーガのように対位法の時代の古い楽式によるものであるが、彼の作品中最も重く深刻な音楽ではないだろうか。第一次世界大戦中に書かれたということも影響しているのかも知れない。深く心に傷を負った者だけが書ける音楽だ。コーダ近くで弱音器をつけたチェロのメロディーの寂しげなこと!サラリと歌い上げて深い情感を聞く者に残すグリーンハウスのチェロは見事。プレスナーのピアノは名演だ。
終楽章は一転していつものラヴェル節が炸裂するのだが、ピアノ・トリオなのに協奏曲か管弦楽の作品を聞いているかのような充実したサウンドは、もう脱帽だ。ボザール・トリオの演奏は全く不足はない。
この演奏はユニバーサルから2000年にパノラマ・シリーズのラヴェル作品集としてこれだけが再発された。

引き続いてショーソンのトリオを聞く。
第1楽章の序奏でチェロのソロが出てくるところでのテンポとリズムの取り方がかなり古風で驚かされた。一拍目を重くとって拍子感を際だたせるもので、ケンプなどの演奏に聞くことができる。したがって今日の感覚からすると少しルバート気味に聞こえる。和声的にはショーソンがこの時代の音楽家としては当然なのかも知れないが、ワーグナーの強い影響下にいたことを感じさせるものだ。
主部に入ってテンポが速くなってからもそうした近代的な響きは随所で聞かれるが、基本的にはロマン派の音楽からそう踏み出したものではない。堅牢なソナタ形式で書かれ、テーマのちょっとしたハーモニーに時代を感じさせるとは言え、なかなかに魅力的である。ボザールの演奏はショーソンのいささか屈折したロマンチックな音楽を見事に表現したもので、素晴らしい。この曲があまり演奏されないのは一体どうしてだろう?
第2楽章はスケルツォだ。リズム的にとても面白い工夫があり、転調もなかなかに発明があり、これまたうまく出来た音楽だ。トリオで伸びやかなメロディーが出現するが、ボザールの演奏は全く素晴らしく、私は至極満足させられた。
しかし、全曲の中ではこの楽章の印象が少し地味な感じが否めないのは事実だ。それは発想とショーソン自身のもっているものとの開離にあるように思われる。彼はスケルツァンドな音楽よりも歌い上げるタイプの音楽により合っていたのではないか。どうもそんな印象が強く残る。だから続く第3楽章のずっしり来る音楽にこそ、ショーソンの最良の音楽を聞くことができるのだ。
第3楽章は若いショーソンが思いの丈を存分に歌い上げた音楽。「詩曲」はこうした音楽が発展して行く中が生まれた奇蹟のような音楽なのだ。その原点に触れるような貴重な瞬間がそこかしこに聞かれる。ボザールの美しい演奏には全く不満を言う気持ちにならない。ラヴェル以上に彼らの性格に合っているように思われる。
終楽章はもう少し軽やかでもいいのではないだろうか?軽やかな楽想にアルペジオのピアノを配するあたりショーソンだ。ノーテンキに弾んでいられないのがショーソンであるとすれば、この演奏は全くショーソンの意図をよく汲んだものと言えよう。アーティキュレーションにプレスラーのセンスの良さを感じさせる。彼はなかなかにテクニシャンである。この楽章のピアノ・パートは弾くのは相当の技量を要求されたはずだが、サラリとこなすのはさすがだ。しかしピアノが要とは言え、三者が一体となっての盛り上がりは凄まじく、ボザール・トリオがこうしたロマンチックな音楽に対して、素晴らしい適合性を聞かせることの好例としてアレンスキーなどの名演とともにこの曲の演奏もあげることができよう。名演である。
このCDは1994年頃、PHCP-3841として再発されているが、今も手に入るのかどうかは私はしらない。再発されていないとすれば、実に残念なことだ。見つけられたらぜひ手にとって聞いてみられることをお薦めしたい。

PHILIPS/35CD-136
by Schweizer_Musik | 2005-05-28 08:05 | CD試聴記
リゲティ ピアノのための作品集 エマール(pf) *****(特薦)
私の教え子が持っていたものを借りて聞いた一枚。スイスのラ・ショー・ド・フォンのムジカ・テアトルで録音されたものである。
リゲティがどれほどのピアノの腕を持っているのか、そしてこのピアノ作品がピアニストにとってどういう位置づけの作品なのかはわからぬまでも、この作品の面白さはもう最高だ。実は私は何枚かこの曲のCDは聞いている。自動ピアノでの演奏もあるし、何人かのピアニストがCDとして出しているからだが、このピエール=ローラン・エマールの演奏はそれらを全て捨て去っても惜しくはないほどだ。
全三巻にわたるが、第3巻はまだ一曲しか完成していないという。それでも十分だ。こんなに刺激的で面白い音楽があるだろうか。全くの無調ではなく、適度な調的な響きが、この作品を親しみを感じさせる原因ともなっているが、全音階的なサウンドは多くの人の共感を得ることだろう。
それに小気味よいほどの難技巧が網羅されているこのエチュードはどの部分を聞いても刺激に満ち、聞く者の想像力、インスピレーションを刺激し続けるのだ。
各曲には「無秩序」「妨げられた打鍵」「悲しい鳩」などといったタイトルがつけられ、どことなくドビュッシーのエチュードにも似た充実感をもたらしている。
エマールはそうしたタイトルに合った表現を心がけるというよりも、純音楽的な解釈で聞かせる。作曲者のアニバーサリーとして企画されたものながら、これほどのまでの名演が含まれているとは!!
未聴の方でピアノが好きな方にはぜひ!お薦めしたい。

リゲティ_ピアノのための作品集/SONY Classical/SRCR 2130
by Schweizer_Musik | 2005-05-27 23:51 | CD試聴記
ワルター指揮コロンビア交響楽団のマーラーの「巨人」*****(特薦)
一日疲れ果てて帰り、バタバタと仕事をこなし、メールの返信を書いたりしているとすぐに時間がたってしまう。
この一ヶ月はもう古典の音楽からはなれてしまっていたので、疲れ果ててしまった。久しぶりにマーラーの交響曲第一番を聞く。ブルーノ・ワルターの指揮するステレオ盤の方。なんて安らぎに満ちた音楽なのだろう。
しかし、この曲はベートーヴェンの第9のパロディでもある。冒頭はまったく第九の第一楽章そのものではないか。ある時聞きながらふと気がついたのだが、全てが第九の裏返しなのだ。そのテーマの多くが「子どもの魔法の笛」からとられていることはよく知られているが、マーラーの最初の本格的な交響作品が、ベートーヴェンへのオマージュであったとは面白いものだ。「巨人」はその背後にある者を指していたのだろうか。
ブルーノ・ワルターの指揮は全てにおいて素晴らしいものだ。こんなに上手くていいのだろうか?微妙なテンポの変化はあくまで自然で、どこまでも伸びやかだ。録音も当時としては大変良い。
この曲の演奏では最初に聞いたエーリヒ・ラインスドルフ指揮ボストン交響楽団の演奏が今もどこかに残っているが、あのちょっと素っ気ない演奏からすると、この演奏のなんと歌に満ちていることか!!
第2楽章のレントラーのリズムの粗野にならない程度に野趣あふれる表現は、女性的などと言うワルターへの言われ無き偏見を見事に打ち砕くものだ。
第3楽章のアイロニーに満ちた表現は、どうだろう。フランスの子どもの歌を短調にして葬送の音楽にするというのは、マーラーがその初期から精神的に引き裂かれていたことを物語っている。平和で優しい野辺の風景は、一転、彩色が反転し、異様な世界に聞く者をつれていってしまう。
終楽章はベートーヴェンの第9の終楽章の冒頭の雪崩うつフォルテッシモがマーラーがどう料理したか興味津々といった具合だが、ベートーヴェンに比べると随分アニメ調に感じてしまう。
しかし、このワルターの演奏は文句なしだ。微妙なテンポの変化がそれと知られず行われ、旋律の性格をサラリと強調して聞かせる。これはもう名人芸の技と言えよう。私のようにヘボの指揮と比べてはいけないのだろうが・・・こんなことは私には逆立ちしても無理なようだ。
私はバーンスタインの旧盤も好きだったが、やはりこのワルター盤につきるのかも知れない。これを聞いたあとでは、なかなか他の指揮者で満足できなくなってしまうのが困ったものであるが・・・。このような歴史的名盤を今更「特薦」ですなどと言うのもはばかられるようなことだが、無印では失礼でもある。だから当然 *****(特薦)です。

SONY Classical/SM2K 64 447
by Schweizer_Musik | 2005-05-27 23:34 | CD試聴記
疲れた・・・
今日は一日授業。
オーケストレーションの授業ではコダーイのハーリ・ヤーノシュの分析を行う。現代音楽ではないが、続く「現代音楽研究」の授業でも同じ内容で行う。ただ対象がオーケストレーションでは本科で、現代音楽研究はそれを卒業したアカデミー生ということで、内容的に深めるところが少し違うが・・・。
コダーイは先週にバルトークを取り上げたので、その続きということにしたのだが、組曲「ハーリ・ヤーノシュ」の第1曲と第2曲を分析する。
第一曲は実は簡単そうに見えて意外に面白いものだ。多調性によるもので、モードによるメロディーが転調を繰り返し、伴奏は別の(実は増四度離れた調性・・・最も遠い調性にあたる)調性で伴奏するのだ。
こうした状態をスコアを詳細に見ながら発見していき、それをピアノで弾いて確かめ、そのヴォイシング(音の配置)を調べ、どういう音がするのかを想像をたくましくしていく作業をして、その上で実際の演奏を聞くことにした。
こうしたことを通じて、スコアをどう読めばいいかを学びながら、分析する力を養うということを今、私はやろうとしている。
問題はただただ、準備に手間が掛かることだろう。来週は何を取り上げようかと、考えるだけでも負担が大きい。
さて、その来週は、ストラヴィンスキーの管楽のための交響曲をとりあげようかと今考えている。春の祭典は長く、難しすぎる(スコアを読み切るだけでエネルギーを使い切ってしまいそうだ・・・笑)のでやめた。

アトナール・コンポジションの授業ではウェーベルンのピアノのための変奏曲をとりあげる。音列表を作らせて、それをもとにどの音列がどういう風に使われ、構成はどうなっているかを調べていったのだが、これは大変な集中力を要したようだ。
授業をはじめて一ヶ月あまり。随分彼らも成長した。こうして人が成長していく姿を見るのは実に楽しいし、やりがいを感じるところ。
来週は宮崎に仕事で行くので休講である。その届けを今日出してきたところ。学生たちへの連絡も済んだ。

ところで今朝は東海道線が止まって大変だった。結局朝のレッスンが出来ず、夕方になってしまい、学校を出たのが九時過ぎ。帰ったのは十一時に近かった。つくづく疲れた。今日はもう寝よう。
by Schweizer_Musik | 2005-05-25 23:50 | 日々の出来事
ウェーベルンのピアノのための変奏曲 Op.27
今日は授業の準備で、ウェーベルンのピアノのための変奏曲に一日かかってしまった。まさに朝から晩まで、ウェーベルンばかっり・・・。

この作品。ちょっと聞いただけでは何がどうなっているのか、さっぱりわからない曲で、あえてそうしているようなところがウェーベルンの側にありそうな気がする。しかし、透明な薄いガラスでできたシャンペン・グラスのような繊細さで出来たそのサウンドは、分析し、曲の構造を理解してくると何だか親しみやすくなってくるから不思議だ。
いや、実は今を去ること25年。大学で七ッ矢先生の分析の授業でこの曲をやって知っていたのだが、こうして自分でしっかりと分析しなければ何にもならないことを痛感する。
第一曲だけで十分すぎるほど面白かった。
第一曲は3つの部分に分かれており、常に2つの音列(それも同じ音位の逆行の音列と組み合わせて)作られており、その構造がわかると、随分聞きやすくなる。
逆行の音列が組み合わされるということは、同時に前から後ろからという流れで、途中でクロスするところができるということで、そうしたシンメトリーをフレーズ毎に形成するようになっている。
音の重ね方も2音から4音へ。リズムは八分音符と十六分音符の組み合わせの点描的な部分から十六分音符と三十二分音符の組み合わせへ。そして再び八分音符と十六分音符の組み合わせへというように、こうした面でもシンメトリーが求められている。
やはり演奏は、あまりに正確で美しい音色のポリーニに尽きるだろう。他のいくつかも聞いたが、全く問題にならなかった。稀代の名演奏と言うべきだろう。
このリズム(音価)、音の重ね(音色)に強度が加わり、音列とともに順列と組み合わせで理詰めで曲を書くというのは、ブーレーズやメシアンたちの戦後の出発点となったものである。
これが、果たして今も有効なことなのかどうか・・・。色々と考えさせられるところだ。しかし、執筆の方がなかなか進められないのは問題だ。明日はちょっと集中して書くことにしよう。
by Schweizer_Musik | 2005-05-22 22:23 | 授業のための覚え書き