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管弦楽法・木管編 (Flute)
一般的なフルートは次の音域を持っている。
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但し、最低音はもう一つ低い音まで出るものもある。例えばマーラーの第4番の交響曲などはそれを前提として書かれてあるので、最低音がH音になっている。
また音域によっては演奏が不可能なもの、あるいは極めて困難なものがある。次のトリルは原則として書いてはならない。
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オーケストラの中で使われるフルートの役割は様々であるが、やはり華麗なソロをまず紹介しなくてはならない。
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これはベートーヴェンの「レオノーレ」序曲第3番の中の有名なフルートのソロである。低音から高音にかけて、幅広い音域を駆けめぐるこの部分は、フルート奏者にとって過酷な要求をつきつけているが、ただ難しいだけでない品格の高さが存在する。オケの入団オーディションの定番でもあるそうだ。
次の用例はカデンツァであるが、フルート協奏曲などではなく、交響曲の中に出てきたカデンツァである。シューマンの交響曲第1番「春」の終楽章の再現部の直前にこのカデンツァは置かれているが、これはやや例外的であろう。
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低音域は太く、豊かな響きを持っているが、音量は得られない。従ってフルートの低音域にメロディーを与える場合は、伴奏を薄く書くか、全く動かさないか、あるいは無伴奏にするかしないと全く聞こえないということが起こりうる。
次のドビュッシーの小舟にての中間部から再現部へ戻るところで出て来るフルートの最低音域でのパッセージはクラリネットとハープのフラジオレットだけで背景が作られている。ビュッセルの冴え渡ったオーケストレーションが味わえる部分だ。
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近代フランスの作曲家たちは、このフルートの低音を偏愛した。ドビュッシーの名作をあげておこう。
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これに似た始まりを持つ作品がイベールの「寄港地」の第一曲「ローマ〜パレルモ」である。
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フルートの中音域は美しく整った響きで、メロディーを演奏させるのに適している。それと低音を組み合わせたラヴェルの「マ・メール・ロワ」のパヴァーヌの冒頭部は、中音域から低音域にかけての冒頭の4小節につづいて、この低音域にオブリガートが与えられて、もう一本のフルートに高音域のメロディーを与え、見事な対照(光と影)が描かれる。
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こうした対照をさらに推し進め、ストラヴィンスキーの詩篇交響曲(1930/1948改訂)の第2楽章の冒頭、フガートでオーボエとフルートが主題を歌い始めるところでこのフルートの高音と低音の対比が使われている。
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こうしたフルートの低音への偏愛はフランス近代特有のものというのは明らかに誤りで、ウェーベルンのオーケストラ作品にも顕著な傾向である。しかし、19世紀にはやはり中音域から高音域での使用が一般的であり、それは晴れやかで美しい効果をもたらしている。
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このドヴォルザークの第8交響曲の第1楽章の前奏でのフルートは、主題の予告として特に重要な部分で使われている。私には、ベートーヴェンのレオノーレの遠いエコーに聞こえるのだが、如何だろう。
フルートの高音域はどうなのだろう。最高音は一応4点Cであるが、このあたりの音域となるとコントロールが大変難しくなる。特にppでの演奏は困難を極めるのだが、マーラーは第九交響曲の第1楽章の終わり近くで次のフレーズをフルートに与えている。
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フルートの最高音域に偏重が聞かれるのはプロコフィエフの古典交響曲。その第1楽章の展開部でマーラーと同じ4点Cがpで出て来る。
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しかし、あまり高音になるのであれば、ピッコロでやった方がずっと効果的であるし、何と言っても安全である。オーケストラでは二管の場合は第2奏者、三管の場合は第3奏者が持ち替えで担当することが多い。従ってスコアではフルートの下に書かれることも多い。持ち替えの場合は数秒の間を与えないと不可能となるので、必ず休符を持ち替えに要する時間だけ与えること。
ピッコロの音域を次のあげておく。
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これは移調楽器で、記譜された音よりもオクターブ上の音がなる。極めて軽快で細かな動きにも適している。
ピッコロがソロで用いられることはあまりないが、チャイコフスキーの交響曲第4番の第3楽章で華やかなピッコロのソロが出て来る。
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フルートとオクターブなどユニゾンでピッコロを使うのが最もよく行われている。次はリムスキー=コルサコフのシェエラザードの第2楽章での用例である。尚弦楽部は省略してある。
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メロディーにピッコロを重ね、その効果を更に強調するためにXylophoneを重ねた用例がハチャトゥリアンの「剣の舞」である。
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こうした例は数多くある。チャイコフスキーの交響曲第1番の終楽章にも同じような用例が出て来る。もちろんXylophoneは出てこないが。転調して明るくなって盛り上がるところでstringendoと指定されたあたりである。
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ピッコロはこうした使い方が一般的で、あまりソロとして使われることはない。音がたちすぎるというか、目立ちすぎるため、バランスがとりにくいということもあるし、そんな高音でメロディーを歌わせる必要があるのかという問題もある。
確かミヨーの「ルネ王の暖炉」の中で使われていたはずだが、スコアを紛失してしまい、確認できなかった。
チャイコフスキーのオーレストレーションに対する抜群のセンスがこの初期の作品のあちらこちらにもちりばめられている。交響曲第1番は知られた作品ではないものの、決して駄作ではない。
この終楽章の冒頭でのフルートの低音の使い方は独特の味わいを持っていて、聞く度に感銘をうける。
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少し、特殊なやり方に偏ってしまったので、古典派のオーケストラ作品でのソロなどを除く一般的なフルートの使い方としてのユニゾンについて紹介しておこう。
ハイドンの交響曲などでよく使われる方法としてヴァイオリンとフルートの同度でのユニゾンがある。次の有名すぎる交響曲第101番「時計」の第2楽章での変奏にフルートとバイオリンの美しいユニゾンがある。
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オクターブにこれが広がるとどうなるか?その疑問に対して、同じハイドンの交響曲第102番の終楽章から例をあげておこう。
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オクターブ・ユニゾンから同度のユニゾンへと移っている。
実際にはトゥッティにおけるヴァイオリンとフルートのユニゾンは古典派の時代のオーケストラ作品ではどこでも聴かれるやりかたであった。しかし、時代が進むにつれて対比的に扱われることが増えてきた。というより、木管の役割が増えてきたのだ。
次のベートーヴェンの例はオクターブ・ユニゾンでもただ音色を変えるという以上の何かが込められているように思われる。
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ベートーヴェンのこの交響曲第1番(第2楽章からの引用)は、ハイドン的と言われることがあるが、このようなちょっとした推移部でもハイドンのオーケストレーションからもっと大きな、そして強い表現を行っていることは間違いない。
もちろん、ハイドンもこうしたオクターブ・ユニゾンも多用している。オクターブ・ユニゾンになると、2声の響きの違いが強調され、より広がりが出て来ると思う。
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これをプロコフィエフが「古典交響曲」でやっている。彼はこの作品で構成の上でも古典派の巨匠たちに挨拶を送ったのだが、オーケストレーションの上でも敬意を払っている。
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音域的にオーボエやクラリネットと絡むことが多いフルートであるが、意外とファゴットと絡むというのをモーツァルトは好んでいたようで、これがとても効果的だったりもする。
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この曲は「ジュピター」の名で知られる最後の交響曲の第2楽章の第1ページからの引用であるが、こうしたフレーズはモーツァルトのスコアをひらくと、すぐに見つけることができるだろう。しかし、このパターンをチャイコフスキーが交響曲第1番の第1楽章冒頭で使っているのを発見して、この作曲家がモーツァルトを深く愛していたことを思い出して、ちょっとほほえましい思いにかられたものだ。
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ピッコロとファゴットが3オクターブのユニゾンで実に面白い、滑稽な響きを作り出した人がいる。イッポリトフ・イワーノフである。彼の組曲「コーカサスの風景」の第4曲「酋長の行進」で次のようなところが冒頭に出て来る。
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簡単な音楽に聞こえるだろうが、この時の伴奏をしているホルンのボイシングに注目されたい。ファゴットとぶつからないように、細心の注意をもってこの滑稽そうな、それでいて堂々とした音楽を伴奏している。
ところで、このモードによるフレーズに、先頃惜しくも亡くなられた伊福部昭の音楽に近い何かを感じるのは、私の空耳だろうか?

フルートは管楽器であるからスラーを書くと、タンギングをしないでつなげて演奏する。逆にスラーを書かなければ、タンギングをするのでマルカート気味になる。もちろんマルカートを書いておけば更に明確に音を切って演奏してくれるだろう。
鍵盤楽器出身の者にとってこのスラーがかなりやっかいなものとなる。大体フレーズを表すものとしてスラーが体験的にしみついているからであるが、スラーを書きすぎた管楽器のスコアからは、ダラダラとした音楽ばかりが聞こえてくることも少なくないので、特に気をつけること!
タンギングと言えば、19世紀末から使われるようになったフラッター・タンギングもフルートの得意技の一つで、知っておくと良いだろう。所謂巻き舌による演奏。リードを口の中に突っ込まないフルートと金管楽器が得意で、クラリネットやオーボエなども出来ないとまでは言わないが、やはり不得意な分野で、敢えてこれらの楽器でフラッター・タンギングをしなくてはならない余程の理由がないとやる意味はない。
ラヴェルのラ・ヴァルスの始まってしばらくしてフルートのフラッター・タンギングが出て来る。
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次はウェーベルンのオーケストラのための六つの小品Op.6の第4曲である。これは1909年に書かれたオリジナル版。1928年に改訂されて、フルートにクラリネットが重ねるという変更がされていることも付記しておきたい。
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同じ頃、管弦楽法の天才、ストラヴィンスキーもこの技法を取り入れている。その中からバレエ音楽「火の鳥」(1910年版) の第1場イワン王子に捕らわれた火の鳥から。
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時代が下って、バルトークの傑作「管弦楽のための協奏曲」の冒頭にもこのフルートのフラッター・タンギングが使われている。詩的で幻想的なその響きに、この技法が20世紀はじめ頃から使われだして、わずか30年か40年ほどで市民権を確立したことを教えてくれる。
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次の例はシュトラウスの家庭交響曲の第1部からのものであるが、フルートのフラッタータンギングに続いてクラリネットのフラッタータンギングが続き、大変美しい半音階のスケールの連続となっている。ほんの一瞬の出来事なのだが、大変な効果である。
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こうした新しい奏法、響きを探求する中から、吹きながら声を出す武満徹の「ヴォイス」や、尺八のような表現を求めた福島和夫の「冥」などの名作が生まれた。これらはフルート独奏のための作品で、ドビュッシーの「パンの笛」などからヴァレーズのデンシティ21.5(密度21.5)(1936) などを研究するべきだろう。
by Schweizer_Musik | 2006-02-27 17:20 | 授業のための覚え書き
12音音楽について
ペンタトニックは5つの音で曲を作る。長調、短調は基本的には7つの音を使って曲を作る。もちろん派生音として部分的に異なる音を使うこともあるのだが、原則的には7つで作り、その中に主音と属音、更に下属音という主従関係が出来て調性が成立する。
20世紀に入り、調性の崩壊が起こるとこの主従関係は消滅していく。
古典の時代に書かれたモーツァルトの作品は調性を持っている。
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このハ長調のソナチネから調性を奪い、無調の音楽にすると次ぎのようになる。
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参考のためのmp3で音を作りました。こちらからどうぞ。

調性がなくなることによって、清涼なモーツァルトの世界が皮肉っぽくなり、苛立ちなどが混ざって聞こえてくる。これが20世紀というのだろうか?
私はこれをこの説明用に簡単に作ってみた。作る時、同じ音をなるべく繰り返さないように作った。また調性を否定するように和声からはずれるように意識的に音を配置している。
しかし、調性だけを奪っただけでは、何が生まれたと言えるのだろうか。
音楽にある規則性を持たせたいと考えるようになったのは当然だ。調性に変わる秩序を求め、生まれたのが12音音楽であった。
調性音楽であれば、主音と主和音が世界の中心にあり、それとの力関係で成立しているのだが、12音音楽では調性を感じさせるものを一切拒否する。
試みに上のモーツァルトの楽譜を見て欲しい。左手に使われている音はドミソ、ドファラ、レファソ、シレソとこれだけである。その大半はドミソだ。
右手のメロディーもドミソ(それも特にドの音)が多いのに気が疲れるだろう。そして主音とそれに付属する音を強調するようなことを徹底して排除するために、スケールに含まれる12個の音を全て平等に、一つの反復もなく作ることが12音音楽の基本となっている。

12音音楽は、まず基礎となる音列を作ることから始める。
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この音列を音程の上下関係を反転させた音列もここから導き出されるはずだ。次にその反行形をあげておく。
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この二つの音列を逆から読むだけで新しい音列が生まれる。したがって基本音列ができれば、4つの音列が自動的にできることがわかるだろう。
この音列を使って小曲を作ってみた。
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音を聞いてみたいという方はこちらからどうぞ。私が作ったものなので恐縮であるが、同じようなものが、ウェーベルンにもある。そちらを出したかったのだが、楽譜が探せなかったので、私の稚拙な作品で我慢してほしい。もちろん、この説明のために書いたもの。
これだけではあまりに瞬間芸で、プライドが許さず、ずるずると中間部を作ろうと思った。
ここまででは、十二音の基本的な音列4つだけであるが、実はこの音列から音高を半音ずらすともう一つの音列がうまれる。従って一個の音列から48個の音列が生まれることがわかっていただけるものと思う。これが、12音音楽の作り方の基本である。
で、中間では5度上の音列を使って作ろうと考えた。次にその音列をあげておく。
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この音列で続く中間を作ったので見て欲しい。
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段々めんどうくさくなってきたので(プライドはどこへ行った?)本当にコピー・ペイストで再現を作った(というより写した)。
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作曲のお仕事ではこんないい加減ことをしておりませんので、誤解なきよう!!
次に12音音楽の実際を、新ウィーン楽派のいくつかの作品を見ていくことで、勉強していってみよう。
この項続く。
by Schweizer_Musik | 2006-02-26 13:22 | 授業のための覚え書き
うんざり・・・
うんざりである。何に。メール問題である。
だまされて追求した若い議員を、マスコミは叩きに叩いている。そして、それと関係のない、この議員の以前の話を一生懸命ほじくりだして、議員を叩く。まぁ、たたきがいがあるのかどうか知らないが、マスコミのレベルの低さはどうしようもない。
まぁ、だまされた馬鹿者はともかく、本当はだました方が悪いのではないだろうか。欺した奴なんてどうでも良いみたいだ。ああ疲れる。うんざりだ。誰が一番悪いのかわかっているではないか。
民主党の責任問題を一生懸命やるのは、自民党をみんなで守りたいようだ。私がうんざりするのは、話題性にのっかって、組織的に叩いて楽しむマスコミの低俗さを私は見たくない。なのに見ているのはただただトリノ五輪の荒川選手の姿が出て来るからである。
民主党の脇の甘さは、管前代表も含めて今に始まったことではない。誰がなろうが私は民主党の支持者でも何でもないので、勝手にしていただいて結構なのだが、自民党の方がずっと非道いのにこちらの方が良いように思われて、またしても自民党が勝ってしまうのが嫌なだけである。
まぁ、マスコミが民主党と永田議員をたたきにたたいて、世論で影響されている普通の人と、冷静に見ている人とが半々という状態は、マスコミの意見誘導みたいなやり方にうんざりしている人も多いのではないかと思う。
しかし、下らない話だ。さっさと民主党は「ごめんなさい」と言うべきだった。時間がかかりすぎたのも情けないことだ。こんな程度の話で、伊藤議員とヒューザーの話がとんでしまったではないか。マスコミの取り上げ方の問題だ。相手にする必要なしである。マスコミに対して・・・。

つくづく私は政治家には向いていないことがわかった。こんな魑魅魍魎の世界で生きる奴らってすごいなぁと、つくづく思う。
by Schweizer_Musik | 2006-02-26 08:44 | 日々の出来事
バーバーの弦楽のためのアダージョ考
この曲はもともと弦楽四重奏曲の緩徐楽章として作曲された。彼が何故これを弦楽合奏にアレンジをしたのかは知らないが、とても上手くアレンジされていて、弦楽四重奏の書き方とコンバスの入った弦楽合奏の書き方の違いを教える際の、とても良い教本になってくれている。
元来の作品は、第1楽章と第3楽章が同じ素材を第1主題としていて、この緩徐楽章もその第1楽章の第1主題から派生してできたものだった。
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それはともかく、弦楽のためのアダージョはアメリカの大統領が亡くなった時に演奏されるなど(たしかこれのためにアレンジされたようにうっすらと記憶しているのだが…)したこともあり、ポピュラーな人気を誇っている。特にハリウッドの戦争映画などに使われたことから、多くの人が知る作品であろう。

曲は概ね三部形式で作られていると考えられる。三部形式と言っても、ロマン派の作品のように中間部が対照的に作られているのではなく、ほぼ提示部・展開部・再現部という形に分けることができるだろう。実にわかりやすいし、何度も同じテーマが繰り返されるので一度聞けばテーマを憶えてしまう。このわかりやすさ、憶えやすさがこの曲の最大の強みだ。
ロマン派の音楽で、シューマンのトロイメライのような作りと言えばいいのだろうか。あれも転調を繰り返しながら単一の主題が微妙な変化を受けながら繰り返す音楽である。これも同じ形で出来ている。ではテーマを見てみよう。
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このテーマは二部構成で出来ている。即ち、前半が上行型、後半が概ね下降型というわけである。そしてほとんどが順次進行で出来ていることもこの主題の特徴である。
だから、続いて繰り返された時に5度の跳躍がメロディーに加えられ、そのエコーが更にオクターブの跳躍となって、大きな対比が生まれる。
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上の楽譜の4小節目にその跳躍が聞かれるが、この繰り返しは前半だけでこの跳躍でCes音が出てきて転調し、ヴィオラにテーマが移って繰り返される。
続いて、このパターンを今度はヴィオラからヴァイオリン1に移る形にパートを入れ替えて繰り返す。
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この繰り返しには変化が加えられていることと、跳躍のエコーが10度に拡大していること、ヴァイオリンの対旋律も主題から作られていることなどが注目に値する。

続いて第2部である。
第2部では、メロディーがヴィオラからチェロに移る。バスはヴィオラで、ハーモニーをヴァイオリンに宛てられている。コンバスはあえてここでは外されていて、再現の直前まで、コンバスのない響きの支点が高くなっている。
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これがストレッタによって主題が処理され、急激にピアニシモからフォルテへと向かう。その時の低音はカットされ、全てが高音にもっていくことで、大変特徴的な響きが生まれる。このあたりがこの作品のユニークな点で、フォルテシモに向かう時、低音を分厚くしていく方が、ダイナミックな印象を与えやすいはずなのに、バーバーは全く逆をやって効果を得ている。
切迫部のストレッタにも注目すること。古典的なクライマックスの作り方であるが、見事につぼにはまっていて、効果絶大だ。
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クライマックスの最高潮で唯一の変ロ短調の主和音が鳴り響く。この曲のただ一つの主和音である。
このクライマックスの後、音楽は久しぶりにコンバスが入り、バスの音域が広がったところでピアニシモに音量が落とされ、急速に音楽が静まっていくと、ゲネラルパウゼをはさんで、第3部に入る。

第3部は主題を前半・後半をヴァイオリンとビオラのオクターブ・ユニゾンで一度演奏して、後はただ部分を二度、やってエンディングとしているに過ぎない。極めてあっけない終わり方だが、これが弦楽四重奏の第2楽章として書かれたことを思えば、納得できる。実際、この後フィナーレが鳴り響くのだから。
とりあえず、その部分を次にあげておく。
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良い演奏は多い。アントニオ・ヤニグロが演奏した、古いアナログ録音は史上最速ではないかと思うが、あまり遅すぎないのが私の好みで、古いライブ録音で恐縮なのだが、グィド・カンテルリが1955年3月27日にニョーヨーク・フィルを指揮したもの(私が持っているのはAS disc/AS 515)が良かった。ただノイズも多く、一般的でもないので、マリナー指揮アカデミー・オブ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズの1975年10月ロンドンでの録音(LONDON/F35L-50480)が良い。
バーンスタインの情熱的な演奏は新旧ともに弦のボウイングが荒っぽく感じられて、私の好みに合わないが、あの壮絶なエネルギーはどっしりとした重いものを感じさせずにはいない。
若干、守りに入ったかとも思われるネーメ・ヤルヴィがデトロイト交響楽団を指揮した一枚は、美しいのだが、今ひとつ曲のエモーションが伝わって来ないうらみが残る。
その点、トーマス・シッパース指揮ニューヨーク・フィルの1965年2月2日録音のバーバー管弦楽曲集はその他の曲の演奏も良く、広く薦められるものだが、若干演奏ノイズが気にならないでもない。(SONY/MHK 62837)
レナード・スラトキン指揮のセントルイス交響楽団の録音は弦の響きに魅力がない。曲が曲だけに弦の美しさが命だ。その点、テンポの重さが今ひとつなのだが、アンドルー・シェンク指揮ロンドン交響楽団は総合点でマリナーに一歩及ばないものの、なかなかに素晴らしい。ロンドン交響楽団の威力だろうし、弦楽合奏が盛んなイギリスらしい。(ASV/ASV-39)
他にも色々探していたら出てきたが、まぁこんなところ。総合点でマリナー、ついでシェンクとシッパーズか。エモーショナルなバーンスタインもこういった演奏が好きな人にはたまらないだろう。
by Schweizer_Musik | 2006-02-25 00:50 | 授業のための覚え書き
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考
武満徹の初期の傑作「弦楽のためのレクイエム」を考えてみたい。
この素晴らしい作品は、最初東京交響楽団の委嘱で作曲され、1957年6月20日第87回定期演奏会において初演された。

武満徹は、自らの作曲について次のように語っている。

「私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。」

「私は音を組立て構築するという仕事にはさして興味をもたない。私は余分を削って確かな一つの音に到りたいと思う。」

弦楽のためのレクイエムは「音楽以前」などと酷評にさらされた。ベートーヴェンやブラームスを奉る音楽界は、この不思議な倍音を重ねて得られる厳しさが理解できなかったのだ。
しかし、その深さ、厳しさを20世紀の大作曲家ストラヴィンスキーは聞き逃さなかった。1959年に来日したストラヴィンスキーは、NHKのアーカイブで日本の作曲家たちの作品を聞き、この当時全く相手にもされていなかった作品を聞いて「厳しい、実に厳しい。このような曲をあんな小柄な男が書くとは!」と絶賛した。この話が世界に伝わって、武満は世界中に名前が知れ渡ったのだった。

この弦楽のためのレクイエムについて、武満は「はじまりもおわりもさだかではない。人間とこの世界をつらぬいている音の河の流れの或る部分を。偶然にとりだしたもの」
と語っているが、西洋的なものでない、東洋的な輪廻転生とどこかで繋がっているのではとも思ったりもする。
しかし、そうした武満自身の意図はわかるものの、音楽は西洋的な形式概念でほぼ出来ている。
大きく三部に分かれ、それぞれが前半と後半に分かれる複合三部形式としてとらえられる。第3部の再現部は、型どおりに繰り返されるのは、二十世紀半ばに書かれた作品としては、極めて伝統的で、ウェーベルンなどのたゆまない変奏と変容による作曲法よりも古典的であると言えよう。

作品は次の主題から派生して紡ぎ出される。このテーマを動機aと呼ぶことにするが、このメロディーが作品ではなんども繰り返される。
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このちょっととらえどころのないメロディーのフレーズの終わりに三連符の蠢く重厚な響きが対置する。そしてこの動機から次の印象的なフレーズが立ち現れるのだが、まず冒頭部分を背景の音も含めて、もう一度提示しておく。
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これが繰り返され、最初の頂点で動機bが提示され、
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静まりながらこれがより明確に繰り返され、Lourd(重く)と指定されたカデンツ(終止)が入り、第1部の前半が終わる。
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続いて第1部の後半である。ここで次の印象的なメロディーがヴァイオリンに出現する。テンポを落とし、艶っぽさすら感じさせるこのメロディーは大変印象深い。
このメロディーの動機は、動機bが変容して出来たものであることは、誰もが気付くことだろう。
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ゼクエンツで出来ていて、伝統的な作りにかなり近いものである。これが縮小されて繰り返された後、テンポを最初に戻して、動機bがダイナミック・レンジを大きく広げて戻ってくる。
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そして、第1部後半の頂点が形成される。ここではヴァイオリンに冒頭の主題が回帰しているのだが、ほとんどそれは聞こえず、より高いオクターブ・ユニゾンの高らかなメロディーにマスクされている。これが静まり、やがて動機bが控えめに(あるいは遠くで)響き(実際にはビオラのソロで)第1部を終える。
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続く第2部は、古典的な三部形式の作品とは異なり、冒頭のメロディーの回帰から始まる。
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和音もほとんど同じでこれが小さなエピソードを挟んで繰り返されて前半が終わる。
続いて、全く今までとは異質に聞こえる、この作品の中で唯一動的なフレーズ動機dが表れる。
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この動機dは、冒頭のテーマの伴奏部分にあった三連符のフレーズに関連していると考えられるが、よく見ると第1部前半の終止の直前でのフレーズの音の構造そのままであることに気が付くだろう。
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動機bがこれに続いて回帰し、更に第1部後半の動機cが挿入される。
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これに動機dのちょっとした変奏がついて、
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動機d - 動機c - 動機dが1セットとなって、そのまま繰り返されて第2部を終える。

第3部は最初の第1部がそのまま繰り返されて終わる。型どおりの際限があるあたりは、武満徹もまだ古典的な様式の枠内で模索していたのだろうと考えても、大きくはずれてはいないだろう。しかし、一つ一つの響きの厳しさ、突き詰めたような厳しさはどうだろう。真似でない、音と真剣に向かい合った結果としてのこの音の厳しさが、あの独特の美しい武満サウンドを形成していくのだ。その原点がこの曲の中にある。

この音楽の演奏は、若杉弘氏が指揮した東京都交響楽団の演奏が圧倒的である。若い武満の音楽をこれほど室内楽的な緊張感で演奏したものは、そうないだろう。
by Schweizer_Musik | 2006-02-24 20:44 | 授業のための覚え書き
モーツァルトの生前の評価
あがるまさん、から
>作曲家から見てモーツァルトの缺点は何処にあるのか
>或は同時代人からの評判が良くなかつたのは、どう云ふ点によるのか。
というコメントをいただきました。返事のコメントを書いていると量が設定以上になってしまったので、エントリします。以下、書いたコメントです。

こんにちは!
モーツァルトのアニバーサリー・イヤーですから仕方ありませんね(笑)
モーツァルトと同時代の音楽がハイドン以外はほとんど聞けない状態で、なかなか広がりが出てこないと思います。
ただ、モーツァルトが生前評判がよくなかったというのはどうでしょう。確かにザルツブルクの大司教からは長い音楽をやると言って嫌がられたりしましたね。
ただ、ウィーンでは大変な人気を誇っていたようです。しかしパトロンを持たなかったこともあり、売れっ子であってもそれ以上に浪費したようです。「ドン・ジョバンニ」が評判が悪かったのは、題材が当時としては不道徳に過ぎたからで、ベートーヴェンは「なんであんな台本をとりあげたのか」と言っています。
まぁ、どうも当時のモーツァルトの評判は実はもの凄く高かったのではないかと思います。ネガティヴな意見は、それが自由にならなかった貴族などのやっかみなのでしょうか?しかし、貴族社会も間もなく崩壊していくのですから、モーツァルトが時代の寵児であったことは間違いないでしょう。
ベートーヴェンがモーツァルトがとても好きだったし、ハイドンもそうでした。シューベルトはモーツァルトをかなり研究しているようですので、その時代にはかなりの楽譜が流通していたようです。
同時代人の評価が低いというより、貴族の庇護を受けずに生きたことで、同時代のサリエリなどより収入が少なかったということは言えるのではないでしょうか。
by Schweizer_Musik | 2006-02-23 06:13 | 音楽時事
昨日から実技試験
昨日から実技試験で、缶詰状態である。帰ってきてから大したこともしていないのに、疲れたのか、すぐに寝てしまった。
それは昨日まで一生懸命成績つけから報告書の作成で大変だったからだが、まぁそれは仕方がない。まぁ、全て期限内(2時間ほど遅れてしまったが)に提出できて、ほっとしている。やっと終わったという感じだ。
女房は介護の仕事をはじめて今週から出ている。静かな朝である。私も今ようやく起きて、色々メールなどを行って出るところ。忙しいというより、気持ちが落ち着かない。これが結構疲れる。

カサロヴァのブルガリアへの旅という番組をやっていた。とても面白いものだった。ブルガリアン・ヴォイスという商標がついている独特の合唱もやっていた。
昔、芸能山城組のレコードで「地の響」というのを持っていて、それではじめてこのブルガリアン・ヴォイスに出会ったのだが、地声で歌う合唱がとても高度で、これが民謡というカテゴリーに入るとは信じられなかったものだ。
今でも私は芸術作品の一つだと信じているが、これとカサロヴァのコラボレーションなど、とても面白く、一気に見てしまう。音楽の力である。
さあ、そろそろ出かけよう!
by Schweizer_Musik | 2006-02-22 10:31 | 日々の出来事
剣客商売が新しいシリーズに・・・
私の好きな剣客商売が時代劇専門チャンネルで次のシリーズに入る。もうこのチャンネルとホームドラマチャンネルで何度再放送されたことだろう。私は「陽炎の男」「東海道見附宿」というのが一番好きな編なのだが、DVDでも持っているのだから、何を今更と言うのが本当のところであるが。
このシリーズでは三冬役が寺島しのぶに代わり、秋山大二郎役も山口馬木也に変わっている。山口の演技がやや固いが、寺島しのぶのなんとも可愛い演技(彼女は本当に役に入ると何でもできる!凄い女優だ!)によって、実に良い感じの映像になっている。
このシリーズのはじめには、秋山大二郎と三冬が結ばれる少し前の二編がある。それが上にあげた二編なのだが、プッチーニの「ラ・ボエーム」の第1幕のような趣きがあり、ほほえましい、とても良い感じだ。

フジテレビのこのシリーズや鬼平のシリーズは、京都で撮影されているようで、私ほど何度も見ていると、「あっ、同じ所でロケしている」ということがわかって面白い。
スカパー!で見てからDVDでもう一度見て、更に原作を読んで味わうというのが、私の最近の楽しみ方だ。実はもう全てほとんど頭に入っているのだが、それでも面白いものだ。
ところで、私の好きな「東海道見附宿」の編での映像。最後の場面で大二郎と三冬が力を合わせて助けた浅田道場の門弟の人達に送られて海岸を江戸に向かって帰る場面があるのだが、帰る方向が江戸だとして、どうして左に海岸があるのだろう?あれはどう考えても変だ。東海道を江戸に向かう時の海岸は常に江戸に向かって右側に海がなくてはならない。いきなり日本海になっているのだから面白い。誰も気が付かなかったのだろうか?

こんなになったのは、イギリスのグラナダ・テレビが制作した「シャーロック・ホームズ」のシリーズだけである。あれも私は全編DVDで持っている。ろくにドラマを見ない私であるが、上質の落語を聞くがごとき楽しみになっている。
音楽もまた気に入っている。ヴァイオリンのソロ、チェロのソロなど、なかなかに美しい音楽であるし、動きのある場面でも単純にブンチャカやっているのではない、奥深さがある。
by Schweizer_Musik | 2006-02-20 22:52 | 日々の出来事
無人島に持って行く十枚(セット)
今時、全く流行らないことを考えてみた。CDはデータにして持って行けるので、ハード・ディスクの許す限り可能であろう。昔のようにLPだったら話はわかるが・・・。
しかし、今の自分が、厳選した十枚って一体何か?
ふと考えると、これが意外と面白いのだ。潤沢に、ほぼ何でも聞ける環境に自分はいるが、そこからギリギリまでそぎ落として考えるというのは、今だからこそ面白そうに思い始めた。それで、十枚選んでみた。そうすると、あれほど好きな室内楽が入らないのだ・・・。そしてピアノ音楽も、歌曲も。以下、順位はないのでそのつもりで読んでほしい。

【BMG/BVCC-1036】
・ハイドン/交響曲 第88番 ト長調「V字」Hob.I-88
  フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団1960年2月6日録音
・ハイドン/交響曲 第95番 ハ短調 Hob.I-95 (1791)
・ハイドン/交響曲 第101番 ニ長調「時計」Hob.I-101 (1793-94)
  フリッツ・ライナー指揮交響楽団1963年9月13,16日録音
この録音の素晴らしさは語り始めたらきりがない。95番と「時計」は空前絶後だ。88番はクラウスの録音に比べると今ひとつであるが、くっついてくるのでとりあえず・・・である。

【BIS/CD-1000〜1002】
・バッハ/マタイ受難曲 BWV.244 (1728-29)
  鈴木雅明指揮バッハ・コレギウム・ジャパン他
   1999年3月神戸松蔭女学院大学録音
一年前ならば、リヒターの1958年の名盤をあげていただろうが、鈴木氏のバッハのカンタータ集を聞いていてもう彼ら以外のバッハは考えられなくなってしまった。ほとんど彼らの録音は持っているが、どれもが全く新しい!!

【ARTE NOVA/74321 87074 2】
・ベートーヴェン/ミサ・ソレムニス ニ長調 Op.123 (1819-23)
  ディヴィッド・ジンマン指揮チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団,スイス室内合唱団他
   2001年5月7-9日チューリッヒ・トーンハレ録音
これは迷った一枚(二枚組だけれど・・・)。実はハイティンク指揮の「田園」にしようかと随分迷ったのだが、ベートーヴェンをたった一枚ということになると「田園」では飽きてしまいそうだ。作曲者が「生涯最高の作」と考えていたこの曲は、ディヴィッド・ジンマンのようにサラリと入ってくる演奏で、何度も聞き返したいものだ。名匠ネフが鍛えた合唱団も素晴らしいし、ソリストたちも文句はない。

【DENON/COCY-78624】
・武満 徹/服部隆之編曲/小さな空 (1961?)他
  石川セリ(vo),他  1993年12月〜1995年9月日本コロンビア、東京スタジオ録音
私の好きな武満徹の音楽から何を選ぶべきか迷った。きっと生涯二度と彼の音楽が聴けないとしたら、ものすごく悲しいに違いない。たった一つというのは確かに酷だ。でも一番よく聞いたこのポピュラー・ソング集なら、彼の優しい言葉に慰められることは間違いない。
アレンジされ、石川セリ(井上陽水の奥様)が個性的な歌い回しで表現しても、どのフレーズからも武満徹の「うた」が聞こえてくる。これはいかに彼の作った音楽が他に類のないものだったかの証である。こんなことってバッハ以外になかったことだ!!
寺山修司や谷川俊太郎の詩に加えて、文才にも恵まれていた武満徹自身の詩につけた「小さな空」などの歌が心にしみる。

【EMI/7243 5 86477 2 3】
・オネゲル/交響的運動 第1番「機関車パシフィック231」(1923)
・オネゲル/交響的運動 第2番「ラグビー」(1928)
  ジョルジュ・ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団  1953年2月24日録音
・オネゲル/劇的物語「ニコラ・ド・フリュー」(1939)
  ジョルジュ・ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団他  1953年3月11-16日録音
・オネゲル/クリスマス・カンタータ (1953)
  ジョルジュ・ツィピーヌ指揮パリ音楽院管弦楽団他  1954年2月パリ録音
・オネゲル/オラトリオ「世界の叫び」(1931)
  ジョルジュ・ツィピーヌ指揮フランス国立放送管弦楽団,合唱団他1957年パリ録音
これは、沢山入っている2敗組だが、私はただ「クリスマス・カンタータ」のためにだけこれを選んだ。二十世紀の奇蹟である。音楽も演奏も!

【PHILIPS/PHCP-3548〜9】
・ブルックナー/交響曲 第8番 ハ短調 (1889〜1890,ハース版) 1981年5月25-26日録音
・ワーグナー/ジークフリート牧歌 (1870)
  ベルナルト・ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団
  1974年12月2-4日アムステルダム、コンセルトヘボウ録音
悲しい時は、これを聞いて神に祈りを捧げたい。豊かで広がりのあるサウンドに心が癒されること間違いない。併録のジークフリート牧歌も素晴らしい。これを聞いて、愛情なんていうことを忘れないようにしたいものだ。

【BMG/BVCC-8819】
・シュトラウスⅡ/ワルツ「芸術家の生活」Op.316 (1867)
・シュトラウスⅡ/ワルツ「ウィーン気質」Op.354 (1871)
・シュトラウスⅡ/宝のワルツ Op.418 (1885) 〜 歌劇「ジプシー男爵」より
・シュトラウスⅡ/ワルツ「南国のバラ」Op.388 (1880)
・シュトラウスⅡ/ワルツ「美しき青きドナウ」Op.314 (1867)
・シュトラウスⅡ/皇帝円舞曲 Op.437 (1889)
・シュトラウスⅡ/ワルツ「朝の新聞」Op.279 (1864)
・シュトラウスⅡ/ポルカ「雷鳴と稲妻」Op.324 (1868)
・シュトラウス(Josef)/ワルツ「わが人生は愛と喜び」Op.263 (1869)
・シュトラウス(Josef)/ワルツ「オーストリアの村つばめ」Op.164 (1864)
  フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団1960年頃録音
これを聞けば、無人島でも心がうきうきしてくることだろう。リズムが弾み、弦が、管が歌い、踊る。たった一人の夜をきっとなぐさめてくれのではないだろうか?

【SONY Classical/SMK 64477】
・モーツァルト/交響曲 第39番 変ホ長調 K.543 (1788) 1953年12月21日,1956年3月5日録音
・モーツァルト/交響曲 第40番 ト短調 K.550 (1788) 1953年2月23日録音
・モーツァルト/交響曲 第41番 ハ長調「ジュピター」K.551 (1788) 1956年3月5日録音
  ブルーノ・ワルター指揮ニューヨーク・フィルハーモニック
中学生の時、LPを何百回と聞いてとうとう駄目にしてしまった一枚。これを聞くと今でも中学時代を思い出す。なんとなく思い出のアルバムみたいだが・・・。
スイス・イタリア語圏の町ルガーノのはずれにあるワルターのお墓に行った時、ふと耳に聞こえてきた気がしたのを思い出した。聖アボンディオ教会の墓地にある彼の墓には、妻、そして二人の娘とともに名指揮者ワルターが永遠の眠りについている。

【DINEMEC CLASSICS/DCCD 017】
・シューベルト/マニフィカート ハ長調 D.486 (1815)
・シューベルト/ミサ曲 第5番 変イ長調 D.678 (1819-22)
  ミシェル・コルボ指揮リスボン・グルベンキアン財団管弦楽団、合唱団他
   1996年12月19,20日リスボン録音
これはミサ曲の方を。このミサの美しさは別格だ。デュリュフレにしようか、フォーレにしようか迷ったあげく、これにした。冒頭から救いの慰めに満ちている。こんな救いの音楽をシューベルトは書いたのだ!!
コルボの演奏は一時の角張ったスタイルから随分修正してきているものの、あと一歩か?しかし、ローザンヌでの録音ほど角張って刺激的でないので、やはりこちらでよいだろう。

【LONDON/POCL-1044】
・ドビュッシー/海 〜3つの交響的スケッチ (1903〜5)
・ドビュッシー/バレエ音楽「遊戯」(1912-13)
・ドビュッシー/カプレ編曲/交響的断章「聖セバスティアンの殉教」(1911)
・ドビュッシー/牧神の午後への前奏曲 (1894)
  シャルル・デュトワ指揮モントリオール交響楽団 1989年5月1,4,9日,10月5,8日録音
無人島で海ばかり見て過ごすのなら、やはりドビュッシーの「海」が最高のBGMになってくれることだろう。
シャルル・デュトワの演奏は、何度聞いても新鮮で美しい。サウンドの完璧さと音楽の伸びやかさが同居した極めて稀な名演の一つ。

これは、一週間もしたら違うものが入り込むに違いないような代物で、選んでからもショスタコーヴィチが居ないじゃないかとか、シベリウスの第5番あたりが入っていてもよかったかなとか、シューベルトのピアノ・トリオの第2番もいいなぁとか、ドヴォルザークの第8番かスターバト・マーテルあたりもどうだったかなぁとか、ショパンも、あるいは、バッハは平均率クラヴィーア曲集でもよかったのではとか、色々思っている次第である。
それに他人のこんなものは誰も興味がないと思うので、全く自己満足でやったことだが、それにしては面白かった。またいつかやってみようと思う。
by Schweizer_Musik | 2006-02-20 00:11 | 原稿書きの合間に
リヒャルト・シュトラウスのオーボエ協奏曲
Yurikamomeさんがシュトラウスのオーボエ協奏曲について書かれていた。コメントをしようと思ったのだけれど、あまりに好きなこの曲について書き始めたら、止まらなくなってしまったので、こちらに書いて、リンクを張ることにした。
c0042908_21482295.jpgシュトラウスのオーボエ協奏曲は作曲者が八十歳を越えて書いた作品群の中でも最後の4つの歌曲や二重協奏曲とともに、この作曲家が老齢に達してようやく澄み切った美の世界に到達したことを示す傑作であると思う。
ナチスと一定の距離を持っていたとは言え、ドイツ人シュトラウスもそれが問われることには変わりがない。カラヤンのようにナチの党員であったのでもなく、1935年にナチと対立して帝国音楽局総裁を辞任したり、自作品の公演を妨害されたりと、色々とあったことは事実であるが、シュトラウスにとって戦争によって美しい祖国が瓦礫の山と化して行き、多くの人々の死に出会うことは大きな悲しみでもあった。
メタモルフォーゼンはそうしたシュトラウスの悲しみと絶望の中から生まれた音楽であった。ベートーヴェンの「英雄」の第2楽章の動機を使ってのそれは、ドイツの誇りへの葬送でもあった。
これを、戦後、フルトヴェングラーが復帰してまもなく、ベルリンで取り上げていて、その録音がグラモフォンから出ている。その絶唱とも言うべき絶演は、時を経て今も我々の心をかきむしる。

ヘッセはシュトラウスが嫌いだった。ヘッセはナチスと強く対立した文豪で、ナチス・ドイツではヘッセの書いたものは発禁であったという。戦争中の苦しい時代もヘッセは変わらずナチス・ドイツを攻撃し続けた。そうしたヘッセにとってシュトラウスはおそらく「どうしても許せない存在」だったのだろう。
音楽の好みもまた、シュトラウスのような大がかりな見得を切るような音楽はシュトラウスの好みではなかった。ちなみにヘッセはバッハとモーツァルトを特に好み、ベートーヴェンはあまり好きでなかったと言う。
シュトラウスが最後の4つの歌を書くにあたって、ヘッセの詩を選んだのだが、ヘッセは音楽をつけることは快く許可している。
ちなみに、ヘッセは相手がどんな作曲家であっても許可している。人から自作の詩に音楽をつけることをどう思うかという質問に対してヘッセは「下手な音楽をつけられたからと言って、詩人は何の迷惑も被らない」と答えている。
だから、シュトラウスのあの美しい最後の4つの歌に対しても、ヘッセは全く興味を示さなかったそうだ。ただシェックだけが、その詩の意味を深く理解し、相応しい音楽をつけたとして、大変高く評価していた。

話が横道にそれてしまった。
シュトラウスは1945年にドイツ、バイエルン地方のガルミッシュ=パルテンキルヒェンの村の自宅にジョン・ド・ランシーという若いアメリカ兵の訪問を受ける。彼はオーボエ奏者であった。ランシーは老作曲家を深く尊敬しており、彼は「ぜひオーボエのための曲を」と老作曲家に駄目もとで頼んだら、なんと彼は快諾する。
1945年にガルミッシュで終戦を迎え、十月八日にスイスに居を移し、チューリッヒ近郊のバーデンに居を構えた。名前からわかるようにここはリマト川に臨む温泉地で、静かな環境をシュトラウスに与えたのだった。
昨年、私もこのバーデンを訪れたが、春まだ浅い三月半ばの暖かいある日、駅から旧市街の方に歩いていくと、何やらお祭りがあったのか、大変な人出で驚いたものだ。リマト川まで歩いて、川沿いの町並みを撮影したのが上の写真である。

さて、ここでランシーの求めたオーボエの作品にとりかかったシュトラウスは、1946年に完成した。しかし、ランシーは初演を行うことはできず、結局1946年4月16日にチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団で、フォルクマール・アンドレーエの指揮、マルセル・サイエを独奏者として初演が行われる。
ランシーはこの曲については不運で、アメリカ初演もできなかった。ランシーは当時フィラデルフィア管弦楽団の首席オーボエ奏者であったが、確かニューヨーク・フィルハーモニックの首席奏者が初演を行ったはずだ。
しかし、録音は残されている。共演はウィルコックス指揮のおそらくはロンドンのフリー・ランスの奏者を集めて録音されたと思われるそれは、この曲の最良の演奏の一つでもある。
世評の高いハインツ・ホリガーの演奏は私は買わない。いや、私は彼の作曲家としての才能と業績、またオーボエの演奏領域を極限まで広げて、その可能性を示した点で高く評価するが、彼のオーボエはあまりにチャルメラみたいな薄っぺらな音で、好きではない。こればかりは好みなので許されたい。2種類ある彼の録音(VOX/CDX 5136)でのギーレンとの録音はかなり非道い状態だが、もう一つのフィリップス盤でのデ・ワールトとの共演した演奏はなんとか我慢できる範囲にとどまっている。
また、ケンペの全集でのマンフレート・クレメントは美しい音を持っていて、決して嫌いではないが、若干テンポが不安定で、技術的な不安を感じずにはいられない。
というとどの演奏がいいのかと言われれば、今もってローター・コッホのオーボエ、カラヤン指揮ベルリン・フィルの1969年9月の録音を越えるものを私は聞いたことがない。コッホのこれは代表的な名演であるだけではない。これ以上は無理と思わせるほどの美しさ、フレーズの自然さ。そして伸びやかな歌。オケのオーボエの室内楽的な絡み。正に神業である。
これと、この曲に関わった名演奏家ド・ランシーの演奏を持っていれば、クレメント盤にケンペの指揮という魅力でちょっと後ろ髪を引かれながらも、後は私には必要なしである。

yurikamomeさんの記事 : R・シュトラウス作曲、オーボエ協奏曲

追記・・・これを書いてから、すっかりディヴィッド・ジンマンのアルテ・ノヴァのシリーズで、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団の名手フックスの録音があったことを思い出した。あれはコッホ以来の名演だった。私はコッホであまりに満足しているので、つい他の演奏を忘れてしまっているようだ・・・。批評の資格なしだな。
by Schweizer_Musik | 2006-02-19 21:36 | 原稿書きの合間に