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明日からしばらくいません
祖母が亡くなった。昨年だったか、見舞いに行った時にも私が誰だかわからなかった。あれほどしっかりした祖母がこんなになるのかと驚くと共に、悲しく思ったが「来たよ」と言うと仏様のような笑顔を返してくれた。あれはもう仏様の心であったのではないか?そんなことを思っていた。いつまでもいると思っていた祖母であったが相次いで亡くし、やはり寂しいものだ。子供の頃を思い出しながら、自分ももう五十の声を聞くようになったのだから当然のことだとも思う。
祖母はいくつだったのだろう。すでに九十は超えていたのではないだろうか。大往生だったと聞く。
何もわからなくなって、知らない間にあの世に行けたら、どれだけ幸せなことだろう。周りも大往生であったと思っているようだ。
明日、朝一の飛行機で大阪に帰ることになった。しばらく更新できないのは残念だがやむを得ない。ご勘弁のほどを…。
by Schweizer_Musik | 2006-07-30 14:00 | 日々の出来事
Wikipediaは使いやすい!!
最近、とみに充実してきているWikipediaは、百科事典としてかなり使える水準に達していると思う。いろんな匿名のボランティアが執筆して日々更新されていくわけで、それもいろんな人々の目を通して間違いが正され、より使いやすいものとなっていくというのは、全く素晴らしいことだ。
前はよくブリタニカ百科事典にお世話になっていたのだが、それはもうほとんど必要なくなった。ただ音楽事典としてはまだまだで、私のように調べ物をしたいと思ってもその記載を探すのは難しい。今日は一日宗教改革期のスイスの教会音楽とつきあってきたのだが、こうなると全く無力だ。
とは言え、リバールについてふと調べてみたらあるではないか。うれしくなって開いてみるとあまりに内容が乏しいので、私がちょっと書き加えてみた。嘘は書かないし、想像では書けないので、確かな資料に当たりながらということで、ちょっと手間取ってしまったが、こういうことで知識が共有できるとは、なんと良い時代になったことだろう。
一般的なことであるならば、ほとんどここだけで事足りる。
で、今朝の新聞にもこのことが書かれてあった。連載記事の一部であったが、社会的に認知されてきている証拠である。また善意による知識の共有というところが私は大変素晴らしいと思うのだ。どこかの学者が一人で調べて書いているのとは違うからだ。そして間違いはどんどん訂正されていくというのもWikipediaの良いところである。
私はツールバーにリンクを張ってある。とてもよく使うからだ。
by Schweizer_Musik | 2006-07-27 23:24
ショスタコーヴィチの交響曲第15番
ショスタコーヴィチの最後の交響曲は、不思議な作品で、様々な引用がされている。有名なものではロッシーニのウィリアム・テル序曲のスイス軍の行進の音楽が出てくるし、自作の引用も甚だしい。第1交響曲や第4交響曲、第10交響曲、あるいはおそらくチェロ協奏曲も…。
日本初演は確かロジェストヴェンスキーが大阪フェスティバル・ホールで振ったのが最初だそうで、その時の模様だったかが(記憶が定かではないのだが)テレビで放映され、私はそれを見た記憶がある。曲の紹介で「ウィリアム・テルが出てきますよ」という言葉が印象的で、そればっかり追いかけて聞いたのだった。まだ高校生で「革命」とヴァイオリン協奏曲を知っていた位だった。だから、自作の引用などがわかるはずもなく、ただ漠然と聞いていたが、かすかにやたらと打楽器が使われているなぁと思ったことも憶えている。
何種類かのCDを聞いてみて思ったのだが、この曲を難解な音楽とするのは間違いではないかと思い始めた。もっと天真爛漫な心が発散する光のようなものであると…。
第1楽章冒頭のフルートが演奏するテーマが、何とも人を食ったものだ。
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これ続いて、ファゴットがテーマの整理を行った後、いきなり「ウィリアム・テル」が鳴り響く。
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こうした音楽作品の引用は、20世紀には数多く行われた。例えばベリオのシンフォニアの第3部ではマーラーの「復活」の第3楽章をベースに無数の作品が引用されて出来ているが、このショスタコーヴィチの場合は、ベリオのようなパッチワークのような方法とまた異なるのは言を待たない。
息子でありこの作品の初演の指揮をしたマキシム・ショスタコーヴィチの言葉は重要だ。「これは、父が幼い頃、初めて好きになったメロディーなのです」と語るそれから考えれば、冒頭の人を食ったようなメロディーはおもちゃと戯れる様子を思い浮かべることもできるだろう。しかし、何とも可愛くない子供だ(笑)。
第2楽章は金管によるコラール風の音楽とチェロの独奏のダイアローグではじまる。
金管合奏の荘重な音楽は、明らかに葬送を暗示しているが、半音階を多用したメロディーは荘重さと悲劇性を表しているが、その主調はヘ短調であり、交響曲第1番での調であるあたりにこの音楽の本音が隠されているのかも知れない。
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続くチェロの独奏は最低音から最高音域まで使う、実に幅広い音域を持つメロディーであるが、その中心となるのは最高音域で、チェロのハイポジションによるか細く、哀れなメロディーが続く。この後、テンポを更に落として葬送の音楽をトロンボーンが歌い始める。
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これに続いてヴァイオリンのソロが入り再び葬送の音楽がトゥッティで鳴り響くという次第であるが、一種のロンドのような構成とも言えよう。
この葬送という性格を強調するか、逆にシンフォニックな構成を優先するかによって随分テンポのとりかたが違う。バルシャイのように速いテンポで音楽の構造を明確にする方法も一つの見識であると思うが、一方でハイティンクやケーゲルのように葬送の音楽であることを強く打ち出す遅めのテンポをとる方法もある。解釈の問題であろうが、作られて数年にしてこうもテンポが大きく異なる解釈が生まれるほどに、この音楽はなかなかに奥が深いのだ。
第3楽章へはほとんど休みなく演奏される。再び人を食ったようなメロディーが出てくるのだが、今度はちょっと自虐的な響きを含んでいる。これは、長調と短調を合わせて作るショスタコーヴィチ独特(というほどでもないのだが)の手法によっている。テーマだけ紹介しておこう。
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2小節ほどの長さを持つフレーズが前半と後半が反逆行の形となりシンメトリックな構造で出来ていることに留意するべきだ。この作品そのものがそうしたシンメトリカルな構造を全体としてもっているからである。この短い第3楽章のテーマがそういう構造を持っていることこそ、象徴的なことに思えてならない。
独奏ヴァイオリンによるメロディーは第1楽章の第1主題からとられているのだが、すでにグロテスクなまでにデフォルメされていて、最初のたわいもない音楽は苦悩をすでに何度も体験してきた風に聞こえてくる。
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そしてウィリアム・テルの行進曲のリズムを使ったファンファーレの後、クラリネットに現れるこのメロディーは、第1楽章の遠い反映であることは明白である。
終楽章はまるで打楽器奏者のための音楽であるとともに、ワーグナーの引用ではじまるそれは、数多くの打楽器の使用以上に印象的である。
冒頭にはワーグナーの「指輪」の「運命の動機」が出てきて、「ジークフリートの葬送行進曲」と似た展開を経て、「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲の冒頭の動機が弦に出てくるという寸法である。
作曲法的には、11音列による後半のパッサカリアの充実した書法に心惹かれる。何しろ分析していて、この楽章の面白さは絶大である。これはまたいつか…。

この作品をどうとらえるか、議論はつきない。私はショスタコーヴィチが自分の生涯を振り返りながら書いた作品に思える。と同時に、初心に帰り、器楽による交響曲に戻り、第1番や第4番などの節目となった作品を振り返った作品だと思う。引用は暗示的でそこから受け取るメッセージは多種多様であるが、それはショスタコーヴィチの音楽そのものの有り様であると思う。
演奏は、ケーゲル指揮のものが好きだが、ライブツィヒ放送交響楽団の技量が今ひとつで、ソロをとる部分でちょっと聞きづらい。その点、オーマンディやハイティンクの録音は実に美しい。バルシャイのケルン放送交響楽団との全集の演奏は速めのテンポで引き締まった第2楽章が評価の分かれ目であろうが、私は評価しない。コンドラシンは情緒と構成感のバランスがとても良いが、第2楽章はあっさりしすぎているように思う。大変立派な演奏なのだが、好みの問題だ。
ザンデルリンクも大変立派な演奏だが、テンポが遅すぎて聞いていて集中力が途切れそうになる。逆に私の体力が充実していたら、このテンポについて45分あまりを聞き通せるのかも知れないが、現状では無理だ。重すぎる。
ムラヴィンスキーの録音もキリリとしまったテンポでコンドラシンの演奏と同じスタンスで曲に対しているようだ。ただ、私の持っているCDが1976年5月26日のライブ録音(BMG/74321 25192 2)で、やや会場ノイズが大きすぎるのと、第2楽章のテンポが走りすぎるのが不満。第3楽章はすこぶる良いのだが、終楽章もスケール不足だ。彼はこの音楽をよくとらえきっていないように思う。
by Schweizer_Musik | 2006-07-26 19:57 | CD試聴記
コンドラシンの「革命」
コンドラシンのショスタコーヴィチの交響曲全集から、第5番を聞く。昔LPで聞いた時、こんな演奏だったかと、一生懸命に思い出そうとしていたのだが、どうも記憶にない。冒頭からかなりシャリシャリした高音にバランスが偏ったミキシングで驚いた。生々しいことは間違いない。潤いには欠けるので、ムラヴィンスキーのウィーン・ムジークフェラインでの1973年のライブ録音のような広がり感は感じられない。しかし、アルトゥール・ロジンスキーの古い演奏から聞いた直裁で激しい音楽に思われる。
アンサンブルは実に鋭さを感じるほど完璧である。この曲を演奏するのに、大変入念な準備をして臨んだことが想像できる。なるほどこんな響きがするのかと、この演奏を聞いて教えられた部分もあるほどで、今まで何を聞いていたのだろうと、少々情けなくなった。

この曲を私はそうたくさんの演奏で聞き比べてきたわけではないが、それでも記憶に残る名演はいくつもある。情緒満点の演奏なら1939年4月20日にフィラデルフィア管弦楽団と録音したもの(DUTTON LABORATORIES/CDAX 8017)など、ここまでするかというほどの大きな身振りで聞かせてくれるし、冒頭から凄く速いテンポで一気呵成に聞かせるアルトゥール・ロジンスキー指揮ロイヤル・フィルハーモニックによる1954年10月2-14日録音のウェストミンスター盤(Westminster/MVCW-18008)も忘れてはならないだろう。
ただ、音楽のタメがないので、どうしてもスケールは小さく感じられる点が惜しまれる。こんなに走らなくてもと私は思うのだが(終楽章は明らかにやりすぎ、全速力で駆け抜けていく)評論家の受けは良いようだ。
ムラヴィンスキーのモノラル録音もこの頃の演奏だったと思うが、CD化されたものを私は聞いていないし、LPも処分してしまったので、どんなものかちょっと確かめる手だてがない。しかし、3種類ものステレオでのライブ録音を持っているのでそれを聞いて思うのは、ロジンスキーのバタバタと急ぎ足で進むのとよく似たテンポでも受ける感じは随分に違うものだということである。この辺りが格の違いと言うべきなのかもしれない。
ザンデルリンクの録音は終楽章だけがもの凄いテンポではじめから飛ばしていて、他は遅め、あるいは遅いテンポでじっくりやっている。響きの重心が低く、いかにもロシアのオケ作品という感じでそれでいて下品にならない点が良いのだが、テンポの設定のバランスが悪いように思う。(それでいて終楽章は次第に失速してしまうのだから…)
バーンスタインの新旧2つの録音も評論家の意見と違つて、私には今ひとつである。第3楽章はあざといほどに遅く、連綿たる嘆き節でいくのだが、私はこの楽章、もっとカラッとした抒情で聞かせて欲しいと思っている。テンポを遅くとれば、それだけ情緒が濃く感じられるし、細かな表情も付けやすいのはわかる。しかし、そうしすぎると音楽は停滞し、気品、あるいは格調が損なわれる。これもまた紙一重の部分で、最近はそうした遅いテンポでやるのが一般的になっているようにも思う(ゲルギエフなど)。
またババーンスタインの演奏では終楽章がどうしても納得できないテンポだ。なんでこんなに急ぐ必要があるのだろう。彼は(ザンデルリンクのように)失速しないでそのまま駆け抜ける。それがエネルギッシュでかっこいいと感じるか、ただ急いでいるだけと感じるかは紙一重だろう。

バランスのとれた演奏としてはハイティンクの全集録音が最も良かった。もう一枚あげよと言われれば、1964年9月17日、ロイヤル・アルバート・ホールで録音されたストコフスキー指揮ロンドン交響楽団による録音をあげておきたい。(CARLTON/15656 91542)
彼が若い頃に録音したものと比べてもこの演奏の持つスケールにはかなわない。オケも実に素晴らしいものである。但し、終楽章のテンポが不安定(というより恣意的に動かしている)なのはまたしても問題点となるのだが、この楽章はハイティンク以外に満足するものがないのだ。
他にも十種類ほどの革命を聞いてきたのだが、まぁこんな程度でいいだろう。で、このコンドラシンははじめてハイティンク盤と同等の水準の演奏を聞かせたものと評価できる。サウンドについてはミキシングがはじめに述べたように私の好きな音でないのだが、演奏については間違いなくこの曲の最高水準の名演であることだけは間違いがない。
終楽章のテンポがはまっていることは最高である。この曲の終楽章のテンポについては内容についてかなり問題があると言われているが、ヴォルコフの「証言」の中で言及されていて、それが大変説得力があったため、私は未だにそれに影響されて聞くことが多い。確かにこのコンドラシンの演奏を聞くとそれが真実味をもって聞こえてくる。
第3楽章の哀切極まりない響きはどうだろう!!この楽章の最高の演奏は先に挙げたストコフスキーのライブ録音である。ストコフスキーというと恣意的な編曲が話題になることがあるが、それは一部のことで、大半はそんなことはない。ロクに聞きもしないで、思いこみだけで書くからそんな風評をたててしまうのだ。
この超名演に比べるとコンドラシンの指揮はやや平面的に聞こえるが、これは経験の差なのだろうか?
しかし、前後して申し訳ないが、第2楽章の素晴らしいコントロールの効いた音楽の運びは超一流だ!タメが深く、効いていて興奮を禁じ得ない!ソロの受け答えで出来ているトリオの部分も品位が維持され、見事である。
更に終楽章の素晴らしいまとめぶりではもう説得力抜群だ。この楽章は第2楽章とともに最高の演奏にあげられるだろう。だからと言ってハイティンクがこれでいらないなんていうことはない。でもコンドラシンでないと得られない何かがあると思う。
ストコフスキーの録音とハイティンク、コンドラシンの三枚が、私の「革命」のリファレンスとなった。
こんな凄い録音が入っているのだ。買わないのはもったいないですよ!!
by Schweizer_Musik | 2006-07-26 16:03 | CD試聴記
終戦の日を前にして
私は戦争が嫌いだ。基本的に人と争うことが好きでないのだ。実に単純な理由で申し訳ないが…。
前に住んでいた広島は、毎日原爆ドームの前を通って事務所に通っていたこともあり、八月は一際感慨深いものがある。
で、平和を願う音楽を集めてみた。
オネゲルの交響曲第3番「典礼風」は極めて激烈で不安の時代への警告でもある。彼はこの作品で神の怒りを歌い、救いを求める人々の祈りを表現した。終楽章には「われらに平和を与えよ」というミサの典礼文を与えているが、曲は平和を待ち望むか細い祈りの歌で閉じる。
オネゲルの盟友であったミヨーはユダヤ人であった。1940年にナチスによる迫害を逃れてアメリカに亡命。カリフォルニアで亡命生活を送り、ミルス・カレッジで作曲を教えていたというが、厳格な対位法の技術の乏しいアメリカにそれを伝えたのはミヨーであると言ってもよい。
しかし、亡命の中で書き上げた交響曲第2番はそれまでの軽快で古典的な枠組みをほとんど守っていたのだが、この曲で各楽章に標題を与えて、自分のメッセージを明確にしている。第1楽章には「平和に」というタイトルがつけられているのだが、この楽章で提示された素材が、全曲を支配していると見るべきだ。シンメトリーに構成された独特のソナタ形式によるこの音楽が、亡命直後に書かれたのだった。第3楽章「悲痛に」で提示されるオーボエのメロディーは、ナチスに支配される祖国への思いがあふれていると思う。

さて、オネゲルと同じスイス人の作曲家マルタンはオラトリオ「地に平和あれ」(1944)を戦争中に作曲し、続いてオラトリオ「ゴルゴタの丘」(1945-48)を書いている。彼は大規模な宗教作品として平和を歌い上げたのだった。
オネゲルの厭世観あふれる重さは彼にはない。しかし、彼の音楽の根底には深い罪の意識に対する懺悔の思いが満ちている。「地に平和あれ」の強烈な印象はそんなところから受けるのだろうか。
しかし、「イェーダーマン」よりの6つのモノローグ (1943)における彼はオネゲルと同様、深い厭世観に魅入られている。これはその一つ前の「旗手クリストフ・リルケの愛と死の歌」(1942-43)において更に強烈に出ている。ここからマルタンは「地に平和あれ」を歌い上げていったのだ。

悠々自適の生活を送ったミリオネア、プーランクもまた無縁ではなかったと思われる。ひょっとして「典型的動物」のあの優しい響きの向こうに皮肉な声が隠されているのではと勘ぐるのは私の勝手とさせていただくこととして、戦争が終わって書かれた「アッシジの聖フランチェスコの4つの小さな祈り」(1948)という無伴奏の男声合唱の作品に、心揺さぶられる「平和への祈り」を聞くことができる。
ささやかではあるが、プーランクの作品の中でも最も感動的な作品の一つだ。これとスターバト・マーテルは涙なしに聞けない。

続いて、バルトークの管弦楽のための協奏曲は絶対にはずせない作品だろう。誇り高いバルトークは、アメリカで受け入れられず、赤貧のうちに白血病に罹り、窮状を伝え聞いたかつての弟子や彼を尊敬する音楽家たちが集まって依頼した作品である。ヒットラーが好んだメリー・ウィドーのメロディーを紛れ込ませたりという手法は以前にも述べた。この音楽が内包するものは、その民族的な素材から受ける印象とは違い、あまりに重い。
だが、私はもう一つの作品、無伴奏ヴァイオリン・ソナタをあげておきたい。ここでは彼の音楽の秘術が縦横無尽に屈指されつつ、極めて内面的な世界を描きつつ、それが普遍的な感動に結びついていく、奇跡を体験できるからだ。
彼は、戦争が終わり、平和な日々が戻ってきた1945年の9月26日に白血病のために亡くなった。この時にハンガリーに残っていたバルトークのピアノの弟子ヴェレシュは「THRENOS〜ベラ・バルトークの思い出に」という作品を残している。後に共産主義を嫌いスイスに亡命する彼が、まだ伝統的な語法に基づきながら書いた、哀切極まりない哀歌である。
このヴェレシュが西側に亡命を強いられたように、20世紀は共産主義というもう一つの亡霊が世界にさまよい出て多くの悲劇を生むこととなったことも忘れてはならないだろう。ソ連軍によるプラハ侵攻などがあったことも…。こうした事態に対して、国連は無力だった。
それはともかく、バルトークはアメリカで埋葬された。しかしそれから40年あまりたって共産主義は崩壊した。
1988年、指揮者のゲオルク・ショルティらの尽力によって、バルトークの遺骨はハンガリーに戻った。そして、ハンガリーは国葬をもって祖国の偉大な才能に対する敬意を表したのだった。
ショスタコーヴィチの第4番から第8番、あるいは第9番といった交響曲や、近年になって話題となったグレツキの「悲歌のシンフォニー」などもあるが、それはまたいつか・・・。
終戦(敗戦)の日を間近に迎えて、心から世界の平和を祈りたい。
by Schweizer_Musik | 2006-07-26 13:15 | 音楽時事
諸井三郎の交響曲第3番
諸井三郎の交響曲第3番を聞く。湯浅卓雄が指揮するアイルランド国立交響楽団の演奏(NAXOS/8.557162J)である。
まもなく広島、長崎にアメリカが原爆を落とした日が訪れ、終戦の日が来る。昭和天皇の靖国神社についてのお言葉が波紋を呼ぶ中、私は政治的な発言は常に控えたいと思っている。
無党派層のどうでも良い派であるので、意見は右にも左にも時々でぶれるのだが、一つだけ、常に揺るがないものがある。それは「反戦・平和」である。
私は、過激な意見かも知れないが、日本海の「竹島」を韓国にとられるくらいなら戦争してでもという「おっかないこと」を言うくらいなら、負けてでも戦争を回避した方が良いという「戦争大嫌い」の人間である。国を守るために重く危険な任務にあたる自衛隊の人たちには敬意をはらうが、私は戦争はどんなことがあっても嫌なのだ。
右翼の方々からは非難されるだろうし、自国の領土が削り取られるというのは「悔しい」が、それで人殺しを正当化するのは嫌だ。相手が攻めてくるならば…?難しいことは訊かないでほしい。わからないとしか言えない。でもそういう理不尽なことで死ぬのなら「悔しい」が、それでも不戦を貫きたいと思う。人殺しは嫌だからだ。

さて、そんなことを何故思ったのかというと、この諸井三郎の交響曲第3番が書かれたのは1944年であり、作品は、敗色濃厚となってきた太平洋戦争の激化から、諸井三郎自身が死を覚悟して書き上げた、おそらくは彼の「遺書」であるからだ。
第1楽章が「静かなる序曲」とあり、第2楽章が「諧謔について」とタイトルがつけられている。そして終楽章には「死についての諸観念」とある。第1楽章と第3楽章(終楽章)が14〜15分かかるのに対して、スケルツォ風の第2楽章がたった5分足らずというのは、ショスタコーヴィチの第4番を思い出さないでもない。(但し長さはそれぞれにこの諸井三郎の作品の倍であるから、規模がちょっと違う)だが、あちらの作品はすでに書かれてはいたが、音にならないまま作曲者が当局の迫害を恐れたためか、封印してしまったので、諸井三郎がショスタコーヴィチに習ったわけではない。しかし、第2楽章にはショスタコーヴィチに感じるアイロニーが響いており、諸井三郎がプロコフィエフやショスタコーヴィチといった20世紀のロシアの作曲家たちの音楽を知らなかったわけではなさそうであるが。
私にはオネゲルの交響曲第3番「典礼風」と同質の重さを感じる。作曲法的には、当時の先端を行く合成音階を効果的に使った新古典主義的手法による作品と言えようが、山田耕筰のロマン主義がスクリャービンなどのロマン主義を内包する形で形成されて行ったのに対して、諸井三郎は古典派の音楽の緻密な構成法を志向しつつ、新しい響きを生み出していったのだ。
第2楽章の「諧謔について」が突きつけているものは鋭く深い。これはまるでオネゲルである。いや、諸井三郎かず真似をしたわけではない。こうした作曲法であればこうせざるを得なかったのだろう。そしてその表現しているものは終楽章で聞く者を深い祈りと救いへの願いへと収斂する。これは凄い作品だ。
湯浅卓雄の指揮は、私にとってこの未知の作品との出会いを幸福なものにしてくれたと言っておきたい。だが、この曲の突きつけるものに対して、あまりに表面的に聞こえてしまう。ミュンシュだったらどうだったろうか?などと思わせてしまうところが、限界か。大変良い演奏ではあるのだが、曲のすばらしさにもっと良い演奏を望みたい。
小澤征爾が、こうした作品を演奏してくれたらどれだけいいだろうか?今となってはもう望むべくもないが。

このCDには他にも、どこかプロコフィエフの交響作品を思わせる「こどものための小交響曲 変ロ調」とやや民族的な要素への接近を思わせる「交響的二楽章」も収録されていて、こちらは中々の好演である。(もちろん交響曲第3番も決して凡庸な演奏では決してないのだが)

彼が戦後、あまり作品を発表しないままに終わったのは、この第3番で燃え尽きたからだとも言われている。果たしてどうだったのかはわからないが、教育者としても戦前から戦後、多くの作曲家を育てたことでも知られ、柴田南雄、團伊玖麿、木下忠司、入野義朗、矢代秋雄といった戦後活躍した作曲家たちは彼の弟子であり、それぞれに個性的であるのも凄いことだと思う。
晩年になって12音を取り入れたピアノ協奏曲第2番を発表しているが、私はこれは未聴である。

私の祖父も叔父も戦死しているのだが、昨年、祖父が戦地に向かう時に残した「遺書」が出てきて、我が家ではちょっとした話題となったことがある。死を覚悟した精神がどういうものか、私は諸井三郎の作品に、祖父の遺した遺書と同じ何かを感じるのだが、それが何か、うまく言えないでいる。
しかし、この夏の終戦の日に向けて、戦争もできることにしようなんていう人たちにぜひ聞かせたいものだ。決意と団結、精神力でアメリカもやっつけられるなんていう、とんでもなく愚かな北朝鮮なんていう国もあるが、あの国などまるで日本の戦前を見る思いだ。好戦的で、自国の軍隊が一番というところが特に・・・。しかし、軍備で戦闘機は複葉プロペラだから、セスナで勝てそうなレベルだ。だからミサイルになるのだろうな。本格的に戦争したらどこにもかなわないから、あんなに吠えるのだ。
それでも、あんな愚かな独裁者の国に負けるのは悔しいが、私は反戦・平和で良いと思っている。

(すみませんが、私は政治的には全く中道で、左派でも右派でもありません。また、そんなに難しいことはわかりませんので、政治的な議論は遠慮させていただきます。何卒ご了承下さいますようお願い致します。)
by Schweizer_Musik | 2006-07-21 22:54 | CD試聴記
岩城宏之の第九を見た
岩城宏之氏のベートーヴェン交響曲の振るマラソン・コンサートの最後、第九を今スカパー!でやっている。昨年末生中継で放送されたものだが、私はとばしとばし見ただけで終わったものだ。今回、火曜日から全曲放送していて今日が最終回というわけ。
第九の演奏は日本が世界一上手いのではないか。何しろあれだけ年末になるとやるわけで、普通の合唱団ではやりたいという人が入りきれないというので「1万人の第九」なるイベントが各地で行われているほどだ。合唱も含めて独唱もオケも実に手慣れたもので、十分な迫力もあり、よくまとまっていると思った。
年末に素人も入って第九を歌うなんてと言う「専門家」も私は知っているが、ベートーヴェンはきっと喜んでいるに違いない。第九の精神というか、込められた人類愛とかはこうしたイベントにこそ相応しいと思う。一方で「専門家」を振り回す幼稚な発想には困ったものだ。大した「専門家」だ。
しかし、私はこの岩城宏之氏の見事な演奏を聞いて、心が動かなかった。破綻している部分はさすがにない。ただ、音楽の表面をなぞっているように感じられて全く感動も何もしなかった。故人に鞭打つつもりはサラサラなく、亡くなった方のこのライブがどうのこうのと言ったところで何もはじまらないのはよくわかっている。
一体どうしてだろう。彼が疲れていたから?それとも彼の解釈に問題があるのか?あるいは私の問題なのか?
全く釈然としないままに曲がエンディングを迎えてしまった。
by Schweizer_Musik | 2006-07-21 10:28 | 日々の出来事
夏休み〜♪
木曜日はあまりに疲れて昨日は一日使用不能となっていた。それでも月曜日に壊れた冷蔵庫を買い換えるために注文をネットで出したり(冷蔵庫が壊れると本当に大変!)と、結構忙しいようで、二三件電話した以外は、とうとう寝てしまった。寝ながら聞いたのはモーツァルト。なんと久しぶり。yurikamomeさんたちとクラリネット協奏曲を聞いて以来だった。
ではモーツァルトの何を聞いていたのか…?実はクラリネット五重奏を何度も繰り返して聞いていた。ある作品を何度も繰り返して聞くなんて、学生時代に戻ったみたいだった。
演奏家はだれでも良かったのだけれど、アントニー・ペイのクラリネット、アカデミー室内アンサンブルの演奏だった。聞き比べなんてしない。ただ音楽に集中し、その美しさを味わう。こんなことが一番疲れた精神をいやしてくれる。
1楽章ってこんなに充実したソナタ形式だったんだと思ったり、第2楽章であまりに美しさにすっかり天国に行ってしまったり、室内楽のメヌエットとしては最大級のメヌエットのチャーミングな表情に魅惑されたり、終楽章の変奏曲で、もっと繰り返してほしいと何度も思ったり…。ペイのクラリネットはそんなに意識したことなかったが、本当に良い演奏だった。でも曲が良いから…。
涼しい一日だった。今朝も大変涼しい。湿度は凄いけれど…。だからのんびり寝て過ごしたがいつものように汗はかかず、ようやく復活した。疲れる週の前半だったが、ようやく終わった。
ところで、多くのみなさん、私は長い夏休み(と言っても学校の仕事が夏休みというだけですが)に入ります。今年はなるべく出歩くことなく、ひたすらたまりにたまった仕事を片づけなくてはならないと思っています。
by Schweizer_Musik | 2006-07-21 07:53 | 日々の出来事
火曜日はレッスンです
火曜日は朝からレッスン。もの凄く消耗する一日だけど、長くない(9月までは3時半には終わる)ので楽である。まぁレッスンであるから時間が限られていて、大体一人30分なのだが、遅れてきたり、寝坊して来なかったりという馬鹿者がやはり何人かいて、作品がろくに出来ていないのに、のんきに構えている奴など、手をかけてあげたらいいのか、一度突き放して思い知らせた方がいいのかわからなくなる。
それでも一名だけ歯ごたえのある学生がいるので、こんな疲れる一日でもその学生の作品を聞き、それについてディスカッションするのは、大変良いリクレーションでもある。
明日は超多忙の水曜日である。しかし、中身が充実していれば肉体的に疲れても、精神的に満たされているので心地よい一日となる。一方で中身が空虚であればあるほど、精神的にも肉体的にも大変な疲労が残る。明日で夏休みである。サラリーマン時代には考えられなかった一ヶ月あまりの休暇に入る。その最後の一日を充実した一日にするよう、準備を入念にしておこう。

ドビュッシーの祭りから教会旋法に入ったのだが、先週は合成音階について話したので、今週はバルトークのミクロコスモスの分析を行うこととしよう。そこから二台のピアノと打楽器のためのソナタや弦チェレなどの分析へ入り、ついでメシアンのモード作法から武満へとこのクォーターでは話を進めたいのだが、果たしてどこまでできることやら。途中で芥川也寸志や伊福部昭などの日本の民族主義などにも触れたいし、そうなると、時間はいくらあっても足りないこととなる。
ドビュッシーの前奏曲も「沈める寺」や「帆」「雪の上の足跡」だけでいいのかと言われれば、全く反論できぬ。更に「海」や室内楽「フルート・ヴィオラ・ハープのためのソナタ」などはどうするのか。それに膨大な歌曲をとりあげないで、何がドビュッシーだと言われると一言もない。
更に現代音楽の授業なのに、まだクセナキスも黛敏郎も一柳慧もで出来ていないのだ。あと半年ほどあるとは言え、焦る。どこまで語れるのだろうか?
オーケストレーションの授業はすでにサックス四重奏についての説明はデザンクロのスコアの分析で終えた。先週から弦についての説明に入っているが、明日はサックス四重奏の音だしが残っている。多少欠けるようになってきた彼らがどれだけの作品を書き上げてくるか、楽しみであるとともに不安もある。
by Schweizer_Musik | 2006-07-18 19:32 | 日々の出来事
続々、コンドラシン指揮ショスタコーヴィチの交響曲全集
第4番は1935年に作曲されたが、スターリンの批判を避け、26年にわたって発表されることはなかった作品だ。長い間封印されていたのを、演奏したのがこのコンドラシンであった。1961年のことで、交響曲第12番の発表の年である。この翌年には第13番「バビ・ヤール」が初演される。
1936年のプラウダ誌上での批判による身の危険を感じての第5番「革命」の作曲の途上で生み出されたと見るべきか、それとも第5の変節の前の作品と見るべきか、この第4番は色々な問題をはらんでいると思う。
私はロジェストヴェンスキーの切れ味鋭い演奏とハイティンクの見事な演奏で満足していた。このコンドラシンの録音は目も覚めるような緊迫感に満ちた演奏で、打ちのめす。はじめて聞いた者に対する説得力は抜群だ。これではハイティンクの見事な演奏も多少ぬるま湯的に思えてくる。
ロジェストヴェンスキーの演奏は、冒頭から多少離れたところから俯瞰するような余裕と、ツボを心得た名人芸のようなところがあり、この曲のモダニズムを表すにはとても良い演奏だと思っていた。一方、ハイティンク盤はマーラーの第5番あたりのエコーを聞く分にはとてもよく、ロンドン・フィルも実に良い演奏で、全体にモダニズムというよりロマン的というか、メロディーに重きを置いた演奏だった。
コンドラシンはそのどちらとも違う。冒頭のシロフォンやピッコロなどによる警句のような出だしに続いて、春祭の生け贄の踊りのような弦のダウン・ボウの刻みに乗って出てくる軍楽隊のような音楽の実在感がもの凄いのだ。しかし、この曲の難解さはそんな表面的なことにあるのではない。構造がとてつもなくわかりにくいのだ。常に展開し、発展していて、そこにどんどん新しい素材が挟み込まれるから、ブルックナーのように同じ音楽が延々とやられるあの正反対のような音楽であることだろう。
コンドラシンはこの間断なく発展していく音楽を、強い緊張感と集中力で描き尽くす。絶妙なテンポの変化を伴うその作業は、全体に速めのテンポを選び引き締まった印象を与える点でも特筆されるだろう。
たった8分しかない短い!第2楽章も、コンドラシンの演奏は少しだけ速めのテンポを選び、実によく引き締まっている。これにより、皮肉なスケルツァンドな性格を強調してみせる。ハイティンクは少し重く、テンポも遅い(というよりこれが普通なのだろう)。ロジェストヴェンスキーはハイティンクよりも更に遅く、入念さを感じさせるのも面白い。しかし、コンドラシンは違う。
第3楽章(終楽章)のLentoの部分を重々しくやるのはハイティンク。ここだけははじめて聞いたときも私は違和感を感じていたのだが、ロジェストヴェンスキー盤もそうだったので、こんなものなのかなぁと思っていた。バルシャイの録音でこの曲だけちょっと気に入って聞いていた頃もあったのだが、それはこの終楽章のLentoのテンポがちょっとピッタリきたためだが、ファゴットのメロディーが軽く、確かにこういうアーティキュレーションであるにしてもちょっとスタッカートが短く弾みすぎているように思ったものだ。これがコンドラシンだと全てがピッタリくる。やっとこの曲の楽譜から受けた私のイメージに最も合った演奏に出会えたというのが私の正直な感想である。
アレグロに移っての部分もまさにこれでなくてはという、説得力に満ちた演奏が続く。良い!とても良い演奏だ。初演者だからと持ち上げるのは簡単だが、この説得力はそれだけでは説明不足だと思う。作曲者の意図を理解した指揮者コンドラシンの渾身の演奏であると思うからだ。
by Schweizer_Musik | 2006-07-18 08:30 | CD試聴記