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フィギアを見て「ボレロ」の編曲について考えてみた
随分前のことのように思っていたのだが、よく考えてみるとほんの四年ほど前の話なのでそれほど昔の話ではない。
私は合唱用に「亡き王女のためのパヴァーヌ」をアレンジしたことがある。それはクラシックの音楽をポップスにしたら売れるだろうにということで、プロジェクトを組んだことによる。しかし、プロジェクトは頓挫し、それは実らなかった。確か「愛のあいさつ」やヴィヴァルディの「四季」の中から「冬」の第2楽章など、色々やってはみたのだが、学生たちがのって来ず、私は自らに課した「亡き王女…」だけが残った次第である。
本田美奈子のCDが出始めていたし、ポップスとクラシックのクロスオーバー(ちょっと表現は古いが)がヨーロッパなどでもてはやされるようになっていた頃だった。陳腐なメロディーを書いて、ありきたりの恋の歌詞なんて捨ててしまっても惜しくなかった。
頓挫したのは、もう学校を去られたある先生が烈火のごとく怒ったこともあるようだ。曰く「作曲者への冒涜である」とのことだった。
その次の年だったか、あの「ジュピター」が出て来て、ああ、あの時もうちょっとがんばればよかったかなぁなどと思ったことも事実だが、当時、私にそれほどの権限があったわけでもなく、他のことにかまけている間に埋もれてしまった。また私のそのアイデアを受け止めるだけの実力も当時の私とプロジェクトの学生たちにはなかったのかも知れない。今だったらもう少し形として良いものがあったと思うのだが…。

なぜそんな愚痴を今更書いてみる気になったのかというと、フィギアスケートの番組で、ラヴェルの「ボレロ」をソプラニスタの岡本知高が歌っているの見たためである。

サラ・ブライトマンなどをはじめ、ミュージカルなどはクラシックのトレーニングを積んだ人たちがどんどん進出しているし、境界を無くし、新しい世界を作り出しているアーティストも増えてきている。ポップスの畑でがんばっている人たちも、クラシックのそれこそ何十年、何百年という時の砥石にかけられて、残ってきた宝物のようなメロディーに目を向け始めている。
もう私とは何の接点もないあの声楽の先生は怒るかも知れないが(あの方は私にではなく、私の上司にかみついたそうだ。私は一度も直接言われていない…。このあたりにいやーな意図を感じてしまい、関わりたくなくなったのも事実であるが)私はクラシックの作曲者が改作を禁じていない作品を、新しい歌に作り直すことにはためらいを感じていない。自分の曲だと言って世間に発表するのは論外であるが、メロディーが、音楽が世界の人々の公の財産となったものは、かまわないと思う。
チャイコフスキーの第7交響曲のような「新発見」や「初演」等というイカサマはダメ。しかし、編曲を作曲者の意図を反映していないから、許されないなどと言うのは、愚かである。
ラヴェルの編曲した「展覧会の絵」やドビュッシーが編曲したサティの「ジムノベティ」は許されないのだろうか?
ストコフスキーの編曲がどれだけ音楽の世界を豊かにしたことか。考えてみればよくわかる。
その他にもシェーンベルクなどによる様々な作品の編曲がある。シェーンベルクやウェーベルンの編曲作品の多くが、実用を目的に作られたものとはいえ、時という砥石にかけられても無くなることなく、マーラーの「大地の歌」など、今も演奏会のプログラムを飾っていることは注目に値する。

ちなみに、編曲にはいくつかの種類がある。

1) オーケストラなどの作品をピアノなどで弾けるようにするための編曲。オペラ、バレエ、ミュージカルなどに必ずある。これがなければ上演は難しい…。ピアニストが自分の演奏会のために改作する場合もある。この場合はオケとは限らずリストの作品のように歌曲などもある。

2) オーケストラ作品を編成を変える。多くは編成を小さくするものであるが、吹奏楽のように大きくなる場合もある。

3) ピアノ曲などの小編成の作品をオーケストラなどの別の編成にする。代表的なものが「展覧会の絵」であるが、「死と乙女」の弦楽合奏版や、ショスタコーヴィチの弦楽四重奏曲のバルシャイによるオーケストラ版などがある。ラヴェルの自作のピアノ曲の管弦楽化もこれにあたるだろう。

4) メロディーだけをもとに、別の音楽作品に改作するもの。もとが民謡などの場合の多くがこれにあたる。ブリテンのイギリス民謡集や、ブリッジの民謡作品のアレンジ、更にドラゴンによるフォスター・メロディーなどもこれにあたるだろう。原作が単純なものである場合だけでなく、バッハなどのような作品をジャズ化する場合もこれにあたるだろう。(素材としてだけでなくビッグ・バンドのような作品へのアレンジもある)

5) 作品の聞き所だけを短く切って、連続していくつもの作品を演奏できるようにしたメドレー作品。調性、曲調のバランスから判断すべき曲順、長さ(曲数が多いとすぐに十分を越えてしまう…つまり長くなりすぎてしまう)などを判断すべきで、編成などに手を入れる必要もあり、1)〜4)の内容と組み合わせて行う場合がほとんどである。

ほかにはバッハ(ヴィヴァルディ作品のオルガンへのアレンジが有名)やモーツァルト(バッハの平均率クラヴィーア曲集のアレンジとヘンデルの「メサイア」が有名)がおこなった編曲もあり、色々な用途で編曲が行われてきたことも原典主義者の方には知っておいてほしい。

こうしたものの他に、素材として既成の作品のメロディーを使って、別の音楽に仕立てるものも増えてきた。メロディーがすでに知られていることもあって、新鮮さは乏しいものの、ヒットの可能性はちょっと高いかもしれない。
前の「声楽の先生」のように怒る人もいるかも知れないが、結局はこれも時という砥石にかけられるのだ。需要があってそれが売れたのであれば、だれも文句は言えない。時代の要請なのだろう。

こんなことを思いながら、ボレロのメロディーを歌う(ゲーテかだれかの詩なのだそうだ)岡本知高を聞いていた。指揮をしていたのは最近美しい奥様をもらった金聖響で、コンマスには豊嶋泰嗣氏が座っていた。
by Schweizer_Musik | 2006-12-31 21:54 | 音楽時事
カヴリーロフのショパン
3週間ほど、作曲しては寝るという時間を過ごし、自分の音楽以外、ほとんど耳にすることがなかったので、何か聞こうかとYURIKAMOMEさんやドクター円海山さんのところなどを巡り、おかかダイアリーで、カヴリーロフの話があり、今年のルツェルン音楽祭(イースター音楽祭の方)でのライブがmp3で全7曲ダウンロードできるというので、聞いてみた。
不思議な演奏だ。どこまでも個性的で、他のどの演奏とも違う。楽譜をとりだして来てみたが、なるほどこういう読み方もあるのかと思った次第。
第1番の冒頭から衝撃的なほど個性的。そしてそれが恣意的でなく、真剣に真っ正面からショパンの音楽に向かった結果である点も、強く印象に刻み込まれた。何と言っても私はショパンのノクターンが苦手で、感動したことがほとんどないのだ。特に第1番は冒頭のなんとも言えない美しさに対して、副主題などが退屈に感じられて、大体途中で聞くのをやめてしまうものなのだが…。再現にはいるところの歌わせ方など、絶妙で息を呑む思いであった。
いや、第1番だけでも充分なほどお腹一杯になってしまったのだが、もっと聞きたいという興味に勝てず、続いて第4番を聞く。
この作品の2声の対話を、これほど見事に再現してみせた演奏が今まであっただろうか。昔、チャイコフスキーなどで聞かせた直情的な演奏は片鱗さえもなくなっている。かつてはバリバリ弾くピアニストで、ショパンのエチュードなんて情感のかけらも感じられず、これだからロシアのピアニストは…などと思ったものだが、全く別人がここにいる。
グラモフォンで録音したプロコフィエフのピアノ・ソナタはそうした中でもかなり優秀な演奏で、これならばまぁいいかなどと思っていたものだが、いやはや、彼はとんでもない巨匠として帰ってきた。
第5番の歌わせ方はちょっと抵抗を感じずにはいられないところもあるが、それでも彼は自分の読んだショパンの楽譜に実に正直で、一貫している。そしてそこに確信のようなものまで聞こえてくる。「え、こんな音あったっけ」と楽譜を見直す私は、今まで何を読んでいたのかとつくづく浅はかな自分を恥じ入るばかりである。
第10番変イ長調はもっと優しい抒情で包んでほしい気がする。テンポが少し速いテンポの第1テーマに対して、普通は少し速いテンポになる中間部が逆にゆっくりと歌うことで対比が薄まり、やや音楽が平板に聞こえるが、これはどうなのか、私の中でまだ深まっていない。
続く第13番ハ短調は名演だ。これと第15番ヘ短調は息もつけないほどだった。冒頭のバスをスタッカートでコンバスのピツィカートのようにやるとは思いつかなかった。この2曲はノクターンと言うにはとんでもなくスケールの大きい作品として知られるが、ガヴリーロフはこのような作品になればなるほど腕の冴えを聞かせるようだ。
遺作の第20番嬰ハ短調は、全くこんな演奏が可能だとは愚かなことに私は夢想だにしていなかった。感傷的になりすぎて、ちょっと聞いているこちらが恥ずかしくなるほどのこともあるが、このガヴリーロフの壮絶とも言える解釈には言葉もない。
興味をお持ちになられた方はぜひお聞きになって下さい。
by Schweizer_Musik | 2006-12-31 18:47 | 音楽時事
「風祭」
新作がようやく出来上がる。
曲名は「風祭」。
「風」二題の第1楽章がこの作品で、前回作った作品「風の記憶」が第2楽章である。
一応、前作と今回の作品を2作連続した作品であり、まぁお年玉が出るお正月ももうすぐということで、再び公開することといたします。やっぱり連続して聞いてほしい曲なので。
「風祭」は久しぶりに苦労した作品であるが、それはオスティナート作法を使用した、はじめての作品であることもある。苦労したから良い曲になったとは言えそうもないのは私の能力の問題であろうが、まぁ不肖の子供ほど可愛いというから、お許しあれ。
前半に笙の響きを使ったけれど、雅楽をイメージしたものではなく竹林の響きを想像したものとして考えてもらえばと思う。
次第に風が集まり、何処からか吹き来て、そして何処へか去っていく…。祭りとしたのは別に秋祭りとかをイメージしたものではないが、笙の和音の中からマリンバが別の拍子で叩くリズム(聞き取りにくいかも知れないが、別の拍子感の中にある)は確かに祭りをイメージしたものだが、聞いてもらえばわかるようにそれは単なるエピソードとして考えもらえれば良い。

一昨日までははじめのゆったりとした部分から速い部分へつなぐ部分は出来ていなかった。そこのハーモニーはちょっと前、パルテノン多摩でのプロコフィエフの本番の後の帰りの小田急の列車の中で思いついたものだ。
それから色々切ったり貼ったり、直したり、消したりとしてここまで来た。
昨日、年賀状をプリントするためのインクが無いことに気が付き、それを買いに出かけたのだが、その時に最後の終わり方を思いつき、そして昨日から再び軌道にのって走り始め、今日の朝、5時前から書き始めて、お昼過ぎに完成した次第である。

2楽章はほぼ続けて(アタッカで)演奏されることを前提としているが、それぞれを別々に演奏してもかまわない。
第1楽章では打楽器奏者はマリンバを担当し、第2楽章ではグロッケンに持ち替える。
この作品は、私が尊敬する指揮者ダニエル・シュヴァイツァー氏に献呈したい。(全くの押し掛け献呈でご迷惑だろうが…)

第1楽章「風祭」
第2楽章「風の記憶」
1月7日までの期間限定で公開いたします。

ところで、シュヴァイツァー氏チューリッヒ交響楽団の音楽監督の職を離れ、新しい活動を始められたそうだ。私は彼が指揮したCDをいくつも聞いている。トーンハレでの演奏会も聞いた。無理をせず、落ち着いたテンポで作品そのものに語らせていく見事さは、派手な演奏ばかり聞かされる昨今においては、本格派の指揮者として心から尊敬に値するものと思う。
ポール・ミュラーのシンフォニアの演奏や、奥様のピアニスト津田理子さんをソリストとしたマルタンのバラード、あるいはラヴェルの「マ・メール・ロワ」の素晴らしい演奏、更にオルガンとシンフォニー・オーケストラの共演した数々のCDなど、見事なものである。
こうした録音をともに成してきたチューリッヒ交響楽団との活動にピリオドを打って新しい道を歩み始めたシュヴァイツァー氏への尊敬と心からのエールのつもりだ。
彼が時間があると散歩するというリトベルクの林の小径を私もかつて歩いた。まだ春浅き日であったこともあり、木々に緑の葉はなく、風が通っていた。私の故郷の風の音、そしてマッターホルンを美しく眺めることのできるゴルナーグラートの展望台で聞いた風の音、故郷の岩湧山の山頂の芒の原に聞こえた風の音、それらが前奏にこめた響きの全てであった。
スイスのお天気カメラを見ていると雪がずいぶん積もっているようだ。でもいつもより少ない気がするのだが、これも地球温暖化の影響なのだろうか?
風についての作品はこれで終わり。完成としたい。年末は作曲に向かう日々で充実した毎日だった。やはり書きたいものを書くのは気持ちが良い。これからもそうして行こうと思い始めている。もう頼まれたままに書く年でもあるまい…。
(2006年12月30日17時45分追記)


すみません、第1楽章のコーダは改訂の予定です。できたら再公開します。今しばらくお待ち下さい。

2006年12月31日早朝より改訂を進め、今終えたところ。これをもって決定稿とする。以後、あまり見直さないようにしよう。見直すと書き直したくなる。私はブルックナーではないので…。
9時50分追記

2007年1月12日追記
公開期間を過ぎましたので、削除いたしました。
by Schweizer_Musik | 2006-12-30 13:59 | 日々の出来事
井上道義がーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督に!
井上道義氏が故岩城宏之氏の後任として、オーケストラ・アンサンブル金沢の音楽監督に決定したそうである。1998年に京都市響の音楽監督をおりてからは、新日フィルの首席客演指揮者以外これといったポストに就いていなかった井上道義氏であったが、その実力に相応しいポストに就任することを、心から祝いたい。
私が大学生の頃、若く颯爽とした井上道義の指揮を何度か聞いた。確か2つの不完全な日フィルとなった頃の新日フィルの方の演奏会だったと思う。あまりに古い話なので細かなことは忘れてしまったが…。
あの頃は長髪で、いかにも時代の寵児らしい風貌であったが、その彼ももう還暦を迎える歳となっているのだ。私も歳をとったはずである。

何年か前、新日フィルとマーラー・チクルスをやっていて、それがとても評判が良かったが、不思議とポストに恵まれていなかったので、まずは良かったと思う。岩城宏之氏のように現代の作曲家たちを大切にしてもらいたいと思う。
by Schweizer_Musik | 2006-12-27 21:31 | 音楽時事
季節はずれの冷や汁
テレビで宮崎の郷土料理をやっていて、懐かしい冷や汁が出てきた。夏になるとたまに私も作るが、冬の今、これが紹介されるとは驚いた。私のレシピ(これも宮崎のヤマハの講師さんから教わったものなのだが)とはちょっと違ったけれど、家庭料理だけに様々なパターンが存在するものと思われ、ちょっとした違いなど大したことではないと思う。
簡単な料理なのだが、結構奥深いものがあるのが冷や汁で、炒り子で作るもの、鯛などの焼き魚で作るものなどがあり、それぞれに味が違う。
今日見た番組ではアジの干物でやっていたが、それをすりつぶさないで、そのまま使っていることと、だし汁が多く、あれではみそ汁ではないかと思った点がちょっと私の知っているレシピと違う点であった。

私のは安上がりの炒り子で作るものが多い。鯛で作ったりするとかなり濃厚な味でなかなか良いのだが、いつもはちょっと…。で炒り子の場合わ少しだけ紹介してみよう。

炒り子は頭と内臓をとって少しフライパンで炒める。そしてミルで細かく砕いておく。続いて煎り胡麻をすり潰して、炒り子を入れ、更に味噌(本来は麦味噌らしい。私は田舎味噌でやっている…というより、我が実家で作っている味噌である)を入れ、すり鉢の中で混ぜる。
これをよく混ぜてからガス・レンジですり鉢をひっくり返して軽く焙って味噌に焦げ目をつける。
これに冷たい出し汁を入れて混ぜる。ここに豆腐を手で細かくして入れると基本的には出来上がりである。

ドンブリにご飯をいれ、塩をして少ししんなりさせたキュウリ(もちろん水洗いしておく)と大葉を切ってのせ、先に作った冷や汁をかけて頂くもので、炒り子で作るとちょっと苦み走った味になる。鯛だと濃厚な味わいがあるし、アゴを使っても良い。(私はアゴを使えと教えられた)
アジの干物だとどんなものだろう。一度試してみたい気がする。

というわけで、酔い覚ましにハイティンクがベルリン・フィルを指揮したマーラーの交響曲第4番を見ながら(スカパー!のおかげでこも見ることができる、ありがたい話だ)書いた。
ちなみに、山形の方にもよく似た料理があるそうだが、私は東北地方には行ったことがないので、食べたことがない。
by Schweizer_Musik | 2006-12-27 17:03 | 日々の出来事
ピアニスト松村英臣が芸術祭優秀賞受賞!
私が応援しているピアニスト松村英臣氏が、私も聞くことができたベートーヴェンのソナタの演奏会で、文化庁の芸術祭優秀賞という栄冠を得たことを報告しないでおくわけにはいかない。
あの日は、学校を終えて出かけたので、ちょっと遅れてしまったのだが、素晴らしい演奏会だった。特にハンマークラヴィーアの演奏は心技体が一点に高まった、希有の領域に達していたと思う。
ニュースでもいくつか出ているが、内容は特に変わらないので、一つだけここにあげておこう。
asahi-comの「文化庁芸術祭、9件が大賞に 二期会など」
大阪を中心に活躍しているピアニストなので、東京方面では、ほとんど演奏を聞くことができないのが残念だし、私も大阪では夜出歩くことが不可能(両親が高齢のため)なので、滅多に行くことができなくなっているので、このコンサートは久しぶりのものだった。挨拶くらいはと思ったのだが、遅く実家に着くと家に入れないという事態に陥るため、サッサと帰ってしまったが、こうした中堅のピアニストが東京では売れないというのも、変な話だ。
彼の応援ページは私が運営しているのだが、よろしければどうぞ!
ピアニスト松村英臣のページ

朝、四時半に起きて作曲をしていたが、なんとか困った事態は回避できた。しかし、どうも面白くない。破棄すべきかまた迷ってしまい、ウィスキーを呑む。おかげで全く作曲できなくなってしまった(当たり前だ!)。
午後は、ゆったり寝て過ごす。
by Schweizer_Musik | 2006-12-27 15:49 | 音楽時事
再び一日、作曲中!
作曲が遅々として進まない。今までこれで良いと思っていたところに不満が続出して、結局一週間かかって作った部分を削除。
まぁ、これも作曲である。最初に書いたスローな前奏のクォリティが高く、その後がもうアホみたいにつまらんのだ・・・。ああいやだいやだ。とこうして一日が終わろうとしている。ふと書いた音がすごくきれいで、それが前奏だけではもったいない気がしてきてひっぱろうとしたのが失敗だった。あいまいにいろんな物を集めたのも失敗の原因だ。とまぁ愚痴を書き連ねてみたらすっきりした(笑)。明日はうまく行くだろう。
by Schweizer_Musik | 2006-12-26 21:27 | 日々の出来事
今日も一日作曲。
一日、作曲にあてる。このところ曲を書くのが趣味なのだ!
なんとか笙の響きの後の動きが少しずつ加わっていくところが形になってきた。静止から流動へ、少しずつ変化する中に風が集い、様々な動きが発展に発展を重ね、繰り返し、どこかミニマル・ミュージックのような興奮を少しだけ作り出す…。
色々とやらなくてはならないことが頭の中で点滅しては消えていく。イメージだけは果てしなく広がっていくのだが、音にするのは厳しい…。
深追いしてはならないようだ。この位にして今日は終わろう!CDを購入しながらたまっていく一方だ。中には仕事で聞かなくてはならない吹奏楽もあるが、これは聞いているだけで疲れる。どうも私は向いていない気がしてきた。

今、「のだめ」を娘が見ている。ベートーヴェンの第7番をやっている。この曲をもってきたのはなかなか良い選曲だと思う。続いてガーシュウィンのラプソディー・イン・ブルーがかかっているがこれはテーマのようだ。ちょっとアンバランスな感じ。でもここにモーツァルトでは古典的でありすぎるということなのかもしれない。
しかし、大きなホール(どこ?)での撮影で、エキストラをよく集めたものだ。まぁ、結構クラシックの聴衆が生まれたというのに、CD業界は不況のようである。愚かな企業が先を見ないでポピュラー音楽と同じように目先の利益を追い求めて、音楽ソフトの価値を潰した結果だ。
新しい音楽を育てない限り、日本の音楽界の再生はあり得ない。需要に応えて生産されるポップスは除くのだが…。

しかし、作曲などで忙しく、学校はもう休みに入って一週間も経つというのに、全く休みらしい日はない。しかし、音符を書くのがこんなに楽しいのは、大学卒業して以来である。どんどん音が浮かんでくる…。絶好調!!


12月26日朝5:00追記
> 需要に応えて生産されるポップスは除くのだが…。
全てのポップスがこうしたものとは言えないのは当然のこと。誤解なきようお願いします。
by Schweizer_Musik | 2006-12-25 22:10 | 日々の出来事
M-1を見ていた
漫才のM-1を見ていた。大阪出身の血が騒ぐとでもいうのだろうか…。そんなことはないのだが、とりあえず見ていた。チュートリアルの優勝は凄い物があったが、新しい才能というかスタイルが出て来るのを見聞きするのは、どんな形であれ楽しく嬉しいものだ。一方で加藤茶が入院していたが、ようやく退院するとの話も出てきた。

音楽界でも何人かの巨匠が引退、あるいは残念にも亡くなられ、確実に世代交代が進んでいるように思う。芸能、あるいは芸術の世界は、点数や客観的な評価というものが存在せず、またいつ辞めるか、いつ晩節に入ったのかについての判断が難しいと思う。だから実績が幅を効かせるのだが、それだけ新しい人が出にくく、世代交代は亡くなった時ということも多い。ある巨匠が高齢で亡くなった後を引き継いだ人がもう80才にならんという老齢であったという話も笑えないほど現実的である。
こんな業界は政治の世界くらいであろう。若い人は実績を積み上げようと努力し、中堅と認められるのは40代半ばを過ぎてからというのが一般的だ。

これに対してコンクールは新しい血を迎える良い機会であるはずなのだが、これも機能不全となっている場合が多いのもまた情けない事実である。そもそも点数のつけようがない部分があるのを、無理矢理点数をつけるのだから、そこに情実が紛れ込みやすいのは自明のことであり、これを組織的に防ぐシステムを持たないコンクールはたかが知れている。

M-1で一位になったチュートリアルはM-1史上はじめての完全一位なのだそうだが、それを聞いて、あのブーニン騒動を思い出した。ショパン・コンクールの後の天才騒ぎとその急速な凋落は、明らかに未熟なマスコミにも大いに責任はあった。が、それだけレパートリーを深め、磨き上げることなく、コンクールで一位となり、鳴り物入りで世界中を席巻してしまったブーニン自身の問題でもあった。
チュートリアルはブーニンではないし、彼らとブーニンは生きている世界が違いすぎるので、同じようなことはないかも知れない。しかし、ブームだからと言ってネタをさんざん吐き出させてポイというメディアは、芸をどう磨かせ、育てるのだろう。メディアが文化の妨げになる要因になっていないか、考えてみなくてはならないと思う今日この頃である。

しかし、騒々しいM-1の放送が終わって、NHKでのノーリントンのモーツァルトを聞いている。彼のモーツァルトはどうも…だが、今日は久しぶりに最後まで聞く。私は彼のモーツァルトは今ひとつ。それにベートーヴェンは更に…。(ごめんなさい…個人の好みなのでご容赦を)でも今日は何故か新鮮に響いた。
by Schweizer_Musik | 2006-12-24 22:28 | 日々の出来事
パルテノン多摩に行ってきた
パルテノン多摩のサクソフォン・フェスティバルに行ってきた。例のプロコフィエフの本番(2・7曲だけの抜粋だが)である。かなりアクロバットな部分があるだけにさすがにヒヤヒヤする場面も多かったが、よくがんばっていたと思う。
久しぶりに藤沢で乗り換えて小田急で多摩センターへと向かったのだが、さすがに遠かった。私は自分のアレンジの本番ギリギリに会場に入り、本番が終わると同時に出てきた。こんな奴は私一人だっただろう。サクソフォンをやっている人ならともかく、そうでないのなら、あまり長居するのはどうかなと思った。それほど同族性のあるイベントだった。全くの門外漢の私は退散する方が良いと思った次第。
久しぶりだから藤沢で降りてみた。二年ぶりくらいだろうか。ついでにタワー・レコードでクレオ・レーンの歌った「月に憑かれたピエロ」を買ってきた。私がレコードを集め始めた頃に出て、一世を風靡したものだ。レーンはミュージカル歌手であり、またジャズ歌手である。確かイギリス出身だったと思うが、この頃バーバラ・ストライザンドが「クラシカル・バーバラ」を出すなど(ああ、あのCDはどこへ行ったのだろう。久留米に住んでいた頃何度も聞いたのに…)ポピュラーの歌手がクラシックに接近を試みていた時代である。平原綾香のような接近の仕方ではなく、多くは真っ正面からクラシック・アルバムを作っていた。ストライザンドのドビュッシーの確か「夕暮れ」だったと思うが、ドキドキする色っぽさと気怠さは、格別の味わいであった。あれは廃盤のままのようだ。
このシェーンベルクも長く廃盤だった。英語版ではあるが、そうしたハンデを全く感じさせない迫真の歌唱である。音程の良さも恐ろしいほどで、朗唱というより、楽々と歌いきってしまったというのが正直な感想。それも、ミュージカルのように第1幕、第2幕、第3幕というように一人芝居を演じている感じなのだ。全く凄い。
共演者たちの達者な人たちが揃っている。が、もっと積極的であってもよさそうだ。表現が小さい。もっと大きな抑揚が欲しいと思う。
しかし、クレオ・レーンの素晴らしい歌唱によってこの一枚は永遠の名盤となった。この機会を逃すと、手に入らなくなること間違いなさそうだ。タワー・レコードの企画でようやくCD化されたものであるからだ。世界初CD化という文字が躍っている。
これが売れるものかどうかはわからない。でも「クラシカル・バーバラ」やクレオ・レーン(彼女のCDもあまり出ていないのはどうしてだろう!)いつでも聞ける、あるいは手に入るものにしておいてもらいたいものである。

ドクター円海山さんが話題にしておられたロジェストヴェンスキー盤のプロコフィエフの交響曲・協奏曲全集とペンデレツキのチェロ協奏曲全集(作曲者の指揮、名手アルト・ノラスのチェロによる)を購入。計6000円あまり。安すぎるように思うが…。
by Schweizer_Musik | 2006-12-24 21:16 | CD試聴記