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ストラヴィンスキーの七重奏曲について…
c0042908_22303518.jpgこうした曲について調べてみようと思う時は、まずは音楽之友社の「名曲解説全集」を読んでみたりするのだけれど、これに関しては全く参考にならないのは残念だ。
この独特の作品が12音主義で書かれているということは色んなところで説明されているけれど、正確には6音の主題とその変容による、新古典主義の精神による作品である。
また色々とこの作品について書かれたものを読んでいても、この作品の分析をしたものはほとんどないことに気がつく。先の本でもそうであった。確かに参考にはなったけれど…。

さて、この作品は冒頭の4度跳躍しあと順次進行でそのまま6つの音を並べたものがこの曲の基本音列となるのだが、厳密な12音音列ならあり得ない、はじめの同じA音が重なっているのだ。
自由に音列を並べたもので、それはイ調という調性をベースにしている。それも音列だけを後生大事に使いまくるのではなく、テーマにのみ使われているのだ。その他の声部は自由に書かれている。一体どこが12音なのだと、これを12音による作品と書いている人に聞きたいぐらいだ。
実際に音列について書かれているものはなく(あるのかも知れないが、今回そうした解説、分析には出会えなかった…)6音(A-E-D-C-H-A)という音列とその反行型である(A-D-E-Fis-Gis-A)という音列を第1楽章で拡大のカノンの技法により提示するところは12音技法的ではあるが、A音を重ねて使い、イ調という調性感と同居させる独特のスタイルであることには変わりはない。
むしろ、新古典主義的な作曲法にセリエルな技法を加えてみたというところが、真実に最も近いのではないかと思うほどである。主題を展開しているところでセリエルな論理が作曲において優先する場面に遭遇する。が、かなり緩いもので、ちょっと考え方を借りてみたというところではないか。
第2楽章のパッサカリアは主題と9つの変奏で出来ているが、主題は冒頭の音列を展開させたものであるのは言うまでもない。しかし、音の選び方はかなり自由で、多少音列を考慮しつつメロディー・メイクしているものの、内声は自由な書法で出来ている。
これはセリエルなものであっても新ウィーン楽派のそれとは異なる独特の世界である。指揮者のアンセルメはこれでもストラヴィンスキーのセリエルへの接近が許せず、二人は絶交してしまうのだけれど、私には少々大人げないものに見えてくる。
(これはちょっと脱線…)
第3楽章(ストラヴィンスキーは第2楽章の延長としてスコアには3楽章とは記載しなかったけれど)ジークは、5度の反行カノンではじまる作品であるが、最初の音列を発展させ8音からなるスケールで書かれている。
フーガと名曲解説全集で説明しているけれど、私にはフーガとはとても思えなかった。ストラヴィンスキーがこの曲のセリエルな技法について語ったものが今回見あたらず、よく分からないけれど、スコアから分かる範囲ではこれはフーガではなく、3つの部分からなるカノン的技法による作品と私は考える。
タッシの演奏を参考として聞きながら、この作品のスコアと向き合った今日の午後は楽しい時間だった。
タッシの演奏はとても良いし、スコアは謎解きをするみたいに面白かったし、天気もよくなっていった。
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夕方、ようやく日差しが戻り、写真はその残照である。ほんの1〜2分の間だったけれど、息を呑む美しさだった。写真でその何十分の1しかとらえられていないのが残念!だけど、スイスのありきたりの写真より、この夕暮れの写真の方が今日は相応しいように思う。
by Schweizer_Musik | 2008-06-30 22:31 | CD試聴記
トスカニーニ・ラスト・コンサートより…
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トスカニーニは極度の近眼であったために、常に暗譜で指揮をしていたが、1954年4月4日、ついにその記憶に問題を生じ、指揮棒を置くこととなったのは有名な話であるが、そのコンサートのLPを持っていた。
ナクソスを徘徊していて、その音源を見つけて、朝から仕事をサボって聞いていたのだけれど、ステレオだったんだ…。そんなことも忘れているのだから、何をどう聞いたのか、かなり怪しいようである。
ローエングリンの第1幕への前奏曲は実に美しい演奏だ。1954年当時のステレオ・ライブ録音なのだから、多くを望むのは無理!テープ・ヒスはかなり多く、最初は聞くのを止めようかと思ったほどだ。静かな曲だから尚更である。でも、しばらくするとそれほどでなくなるのは、耳が慣れて来たからだろうか?人間の耳って凄いなぁと思う。そして金のあかして集めた腕利き集団=スーパー・オーケストラであるNBC交響楽団の真骨頂を耳にすることとなる。
2曲目はSiegfried Idyll, Op. 103とある。ジークフリート牧歌に作品番号なんてついていたかしらと怪訝に思いながら、演奏時間を見ると08:43とある。速い!!いくらなんでも速すぎる。抜粋かと思い聞き始めるとなんのことはない楽劇「ジークフリート」から「森のささやき」がはじまったではないか。
ナクソス・ミュージック・ライブラリーはこうした問題を孕んでいるので、やはり注意が必要である。サイトを作っている人達が専門の知識を持っているとは限らないし、また人間がやることに完璧はないからだ。
ともかく、これもスケールの大きい、とても良い演奏だ。
続く「神々の黄昏」から「ジークフリートのラインへの旅」が大熱演で、トスカニーニがこれを最後に引退するなんて信じられない名演である。
ステレオの定位が安定しない場面があったりして、問題はあるものの、彼の8Hスタジオの乾燥した甲高い響きからすれば、どれだけ気持ちよく聞けることか…。

そして問題のタンホイザー序曲である。この曲の途中でトスカニーニは記憶を失い、一時指揮を止めてしまう。ライブ中継をしていたNBC放送はすぐさまブラームスの交響曲第一番の録音に切り替えたそうだが、そうしたことが起こることを想定していたほど、トスカニーニはそれ以前から不安定だったということではないかと想像してみる。
確かにこのタンホイザーで、はじめから少し不安定な歌い回しで「アレッ?」と思うところはある。優秀な団員ばかりなので、ボロはほとんど出していないけれど、ホルンから弦、そして盛り上がって金管に巡礼の主題が移ったところで、少しだけつっかえているのだ。一人ではない、何人かでつっかえている…。指揮に何かの異常を来していたのだろう。
指揮を止めたという300小節過ぎのところも、上手に繋いであるので知っていれば「あっ」と思うけれど、知らなければ通り過ぎてしまうだろう。
そう言えば、アルトゥール・シュナーベルの演奏でモーツァルトのピアノ協奏曲第23番の終楽章。完全にストップした録音をLPで持っていた。バラバラと変な音をピアノが弾きはじめ、ついにオケもストップする。
やがて指揮者とピアニストが話し合う囁き声がかすかに聞こえると、少し前からやりなおして終わるというものだった。
コンチェルトでは経験したことはないけれど、何度か止まってしまう場面に遭遇したことがある。生身の人間がやることなのだ。間違いの無い演奏でないと困るというのであれば、CDを聞いていればよろしい。もちろんプロとしてあってはならないことではあるが、それだけで評価したり問題視するのはあまりに狭量というべきだろう。
ともかく、トスカニーニは停止した後、記憶をなんとか取り戻し、最後まで演奏した後、もう一曲「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲を演奏してこのコンサートを終えたのだった。そして指揮台には二度と登ることはなかった(と言われている)。
この「タンホイザー」序曲〜ヴェーヌスベルクの音楽の演奏、そして最後の「ニュルンベルクのマイスタージンガー」の前奏曲の演奏が世紀の名演だと今日聞いてつくづく思ったのは、楽員たちの尋常でない集中力の賜物であるからだ。20年近くにわたって共に音楽をして来たオケのメンバーが指揮者をフォローし、いつもの演奏にするために懸命に努めているからではないだろうか?
実は、このタンホイザーを聞いて、久しぶりにこの曲で感動した。ヴェーヌスベルクの音楽がこんなに良い音楽だとは思っていなかった。NBC交響楽団の弦て、こんなにきれいだったんだ…。今更の感想ですみません!
ブルーノ・ワルターが晩年にコロンビア交響楽団とこの曲を録音しているけれど、あれ以来の感動であった。
たっぷりとエロスの世界を聞き、タンホイザーの深い深い罪を体験したところで、ニュルンベルクのマイスタージンガーに移る。
冒頭から金管と弦が微妙に合っていない…。ただ数小節の間にそうしたテンポの齟齬は修正されていることに気付くと、この演奏がコンマスと団員のフォローに結果に他ならないことがよくわかる。素晴らしい演奏であることには変わりない。しかし、トスカニーニは自分の指命を全う出来なかったということを恥じたのではないだろうか。そして引退に時を悟ったのだ。
カール・ベームのように、どこまでがカール・ベームで、どこからがゲルハルト・ヘッツェルなのか分からなくなった晩年のような姿は、トスカニーニには許せなかったのだろう。
だが、皮肉なことにそれ故にこの演奏はトスカニーニが残した演奏の全ての中でも異彩を放つ名演となったことは間違いない。そしてそれがステレオで残された。ありがたいことである。今この録音をナクソス・ミュージック・ライブラリーで聞いてみてつくづく幸せをかみしめている。
CDをどうして買わなかったのだろう…。

写真はグリゾン州のディアヴォレッツァという山頂からピッツ・ベルニナという山の方を見る外人さん(そんなことはわかっているって…笑)。
by Schweizer_Musik | 2008-06-30 11:11 | ナクソスのHPで聞いた録音
ラヴェルのピアノ協奏曲の演奏あれこれ…
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ラヴェルの2曲あるピアノ協奏曲は、名曲中の名曲であるから、多くのピアニストが取り組み、多くの名演が生まれている。
両手のためのト長調の曲に限っても、アース、アルゲリッチ、ミケランジェリ(EMIへのスタジオ録音盤)と言ったところが私の学生時代の愛聴盤だった。いまもこれを越える演奏が出てきていないなどと言うつもりはない。私がこれらに抱く思いは、若かりし頃、何度も何度も聞き返した想い出とともにあるからだ。
だから優秀な演奏ならばまだまだ他にもたくさんあると思う。
マルティノンの全集に含まれていたチッコリーニとの演奏は、ちょっと個性的。第一楽章の第一主題を抑え気味に演奏するピアニストが多い中、冒頭からオケと対決するかのような元気なピアノでちょっと驚かされるけれど、聞き進む内にこれが第二主題との対比となり、それぞれの場面を細かくテンポを変えながら、性格の変化を克明に描いていく、頭脳的な名演であることに気付くという具合。
これは大変な名演で、最初にあげた三枚のLPから新しく一歩わ踏み出せたのはこの演奏に巡り会ってからだった。

アリシア・デ・ラローチャの2つの録音は絶対にあげておかなくてはならない名演だ。1972年にローレンス・フォスター指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団との演奏は、フォスターの指揮が冒頭、ちょっとだけテンポが安定しないという問題があるものの、ピアノは完璧だった。曲が進むうちに、フォスターの指揮も安定を見せ始め、第2楽章でラローチャのしみじみとした音色をたっぷり聞いた後に、オケが静かに寄り添ってくる辺りの美しさは、あのミケランジェリのスタジオ録音に迫るものだ。木管の高音を使いまくっているので、ちょっとでも油断すると甲高い音色でそれまで培ってきた雰囲気をぶちこわしかねないところで、オケの実力がモノを言う場面である。
対して新盤のレナード・スラトキン指揮セントルイス交響楽団と共演した盤では完成され尽くした演奏で、録音がデジタルになり、オケが良く、更に指揮が良いという三拍子揃った名演となっている。難を言えば、整いすぎていることぐらいで、これで文句をつけるとしたら、言いがかりに近い…と思う。
しかし、残念なことにこの演奏、今は廃盤なのか、手に入れるのはかなり難しそうである。

一つ、思い出したのは、ヴラド・ペルルミュテールの歴史的名盤とされたヤッシャ・ホーレンシュタイン指揮コンセール・コロンヌ管弦楽団との1955年頃の録音である。いつの録音なのかは、私にはよくわからないけれど、この演奏、オケが若干非力な点を除けば、かなりいける。ラヴェル直伝ということになっているが、それは1920年代中頃にラヴェルの前で彼のピアノ作品を演奏し、その解釈について細かな教えを受けたことによる。
それは、1997年にラヴェルの著作権が消滅し、楽譜が安く多くの出版社から出るという時、その楽譜のチェックに編集に関わった人達の皆々がペルルミュテールの演奏を参考にしたということだけでもわかる。
まさにラヴェル演奏の教科書がペルルミュテールだった。そのペルルミュテールの演奏する協奏曲はどこかしみじみとして味わい深いものである。協奏曲は正規盤としてはヴォックスに録音したこれだけではないたろうか?パリ管などと元気な内に良い録音をしておけばどれだけよかっただろう…。

でも、やはりこの曲の名盤としてサンソン・フランソワをあげておかなくてははならないだろう。
クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団とのこのフランソワの録音は多くの評論家が第1に推す名盤だ。
だけど、私はこの演奏のフランソワは気まぐれすぎてついて行けない。ここまで崩さなくても…。それでも私は、指揮がクリュイタンスと今は亡きバリ音楽院管弦楽団ということだけで捨てきれないでいる。
名盤ならば、コルトーやマルグリット・ロンといった録音もあげられるだろうが、鑑賞の対象としてはかなり厳しいものとなって。ここからラヴェルの細やかなオーケストレーションの技を楽しむなんて、至難の業であろう。後に人々に与えた影響という点でも大きな役割を果たしたことは間違いないけれど…。ただいにしえの濃い味わいなどを求めるのであればどうぞ。

ここまで来れば、最初にあげた名演を聞き返さないで置くのはどうかと思う。私をこの曲に夢中にさせた最初の演奏はミケランジェリだった。グラチス指揮フィルハーモニア管弦楽団と共演した1958年のスタジオ録音は未だに他の追随を許さない孤高の名演だと思う。先にも述べたが、第2楽章の長いピアノ・ソロの後にフワリとオケがピアノに沿っていく辺りの艶やかさはこの演奏が最高だ。第一楽章から即興的な弾き崩しはなく、精密なタッチと精密なペダリングの技術に基づいた正攻法の演奏であり、気分次第でどうにでも転ぶような代物とは次元の違う出来映えだ。
今聞き返しながら、輝かしいタッチに再び驚いている。何度も何度も聞いた演奏なのに…。
さすがにテープ・ノイズが増えたなぁと思うけれど、そんなことなど気にならなくなってしまう。まさに世紀の名演である。グラチスという職人を指揮に迎えた腕利き集団のフィルハーモニア管弦楽団もまた完璧!
なお、ミケランジェリにはチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルという豪華な共演によるステレオ・ライブがある。ただこの時のミケランジェリは余程調子が悪かったのか、このスタジオ録音からは想像もつかないほど崩れていて、彼の名誉のためにも残すべきものとは思えない。大体、ミケランジェリのライブ録音は亡くなってから堰を切ったように出て来るけれど、酷いものが多く気の毒な思いでいる。
大阪フェスティバル・ホールで聞いた彼は、並ぶ者のいない孤高のピアニストだった。ただひたすら感動し、その時の音楽を未だに思い出す私としては、こんなミケランジェリではなかったと言うしかない。

指揮者という点ではポール・パレーがフランス国立放送管弦楽団と二人のピアニストとの録音を残していて、どちらも味わい深い名演として長く記憶されるべきもの。
まず、イヴォンヌ・ルフェブールとの1970年の録音は、柔らかな表現に特徴があるが、立体的でないというか奥行きが足りないというか、演奏が若干平板に聞こえる点が惜しいところである。ミケランジェリのような粒建ちの良い音というより、もっと流麗で少しぼやけたような…。ポール・パレー指揮のオケもちょっと危ないところ(笑)もあり、完成度という点では"?"がつく。
ポール・パレーと共演して録音を残しているもう一人のピアニスト、モニク・アースの方がより音楽が立体的で、聴き応えがある。これは録音のせいでもあるのかも知れない。こちらの方は1965年の録音。ポール・パレーの指揮には若々しさが感じられるし、アースのピアノはとても力強い。これはアースの方を第1にあげるべきだろう。
アンサンブルもこちらの方がずっと安定している。

パスカル・ロジェとジャン=イヴ・テイボーデという二人にイケメン?ピアニストと録音しているシャルル・デュトワもこの作品が得意だったのか、それともレコード会社の意向に沿っただけなのかはわからないけれど、優れた演奏であることには変わらない。解釈がとてもよく似ているのは指揮者のせいなのだろうか?

もう一枚、最初にあげたのがアルゲリッチとアバドのものである。これは2種類あるが、新しい1984年録音の方をとりあげよう。古い方が見つからなかっただけ…なのだけれど、実は古い方により私としては思い入れがある。(いっぱい聞いたから…ただそれだけなのだけれど…)
しかし、このアルゲリッチのピンと張り詰めた始まり方は若かりし日に聞いたアルゲリッチそのものである。まさにじゃじゃ馬!元気いっぱいの演奏からラヴェルのダンディズムが浮かんできそうである。
終楽章を聞いて興奮しない者はいないだろう。

他には、ツィメルマンとブーレーズによるグラモフォン盤。ブーレーズの指揮にもう少し色気があれば…と思うけれど、ツィメルマンのペダリングの見事さ、そしてそれを支えるタッチ…。音色の変化の多彩さを作り出すそれは見事だ。
更にナクソスにあるティオリエのピアノ、アントニ・ヴィト指揮ポーランド国立放送管弦楽団による演奏も平均して完成度の高い録音だと思う。若干清潔すぎる気がしないでもないけれど、オケとピアノ共々とてもよくやっている。(一度ご賞味あれ!)

日本人の演奏では、伊藤恵さんのピアノ、ジャン・フルネ指揮東京都交響楽団も忘れてはならないだろう。ほのかなフランスの香りがフワリと部屋中に広がっていくような品の良さ…艶やかさ…。
さて、まだまだあと20種類ほどの演奏を持っているけれど、いい加減にしておこう…。

上の写真はスイスの中央部のレッチェンタールの朝の風景。黄色い標識はハイカーの大切な情報源。見るとスイスの風が頬をなでていくような気がする…。
by Schweizer_Musik | 2008-06-29 20:59 | CD試聴記
日本人の宗教観…
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私が進学した高校は、日本で唯一の神道の高校であった。おかげて日本人の信仰心というものに早く気付かせていただくことができたと感謝している。そうした授業が必修で3年間あり、伊勢神宮に禊ぎの「実習」なるものまであった。
カトリック系の学校にチャペルがあるように、私の通った高校には神社があった。だからと言って、政治的な何かや新興宗教とは全く異なる高校なので、誤解無きよう…。

日本人の宗教心というのは実に自然で、寛容である。お正月には神社へ初詣。お葬式はお寺さんに来て頂き、結婚式は神前(あるいはキリスト教徒でもないのにチャペルで牧師さんに行ってもらったり…)で行う。
これを外国人に話すと、絶対に理解してもらえない…。
クリスマスを盛大に祝う日本人のほとんどは、キリスト教徒ではない。
私たちは四季のある自然の豊かな国に生まれた。だから私たちの心の奥底には八百万の神、自然に生かされている幸せな民族故の信仰がある。だから厳しい自然環境の地で、それと戦わざるを得なかった西洋や中東の民族が一神教を信じるのとは基本的に異なると私は思う。

もちろん私は思想家でもないので、深く突っ込んでこれを語るつもりもない。が、西洋の音楽の多くはこの宗教と深く結びついて存在している。
昨日、散々聞いて感動したマーラーの交響曲第2番「復活」の第4楽章の「原光」は神の光であり、その神の元へと帰る姿と考えて良い。そして第5楽章は「最後の審判の日が近づいた」(マーラー自身の解題より)と震えるような大音響から始まり、やがて天上の聖者たちの歌が人々に「復活」を告げるのだ。
これを意識せずとも音楽は聞けるだろうが、知っていた方がより深く理解できる。特に聖書と結びついたものは聖書そのものを知っているのといないのとでは、かなり違う。
例えば受難曲。大バッハに限らず、数多くの受難曲が作曲されているが、聖書についての知識なしで、それを聞いて感動することは、恐らく無理だろう。朝比奈隆氏はベートーヴェンなどでもこの聖書の理解がないとわからないはずだとおっしゃっていたそうだけれど、それは一理どころか、大変重要なことをおっしゃっていたのではないかと思う。

ならば、仏教的なタイトルをつけたらどうかという案を私に言った者がいた。残念ながらそれは1950年代か60年代に黛敏郎氏から広瀬量平氏に至る中で散々やられてしまった。私の大好きな作曲家である松下真一氏もこうしたテーマで書かれている。
しかし、神道と仏教が同時にあって、全く違和感の無い民族である我々だから、キリスト教もすんなりと受け入れたのかも知れない。また私も海外に出かけ、教会などで感動できるのもそのおかげなのかも知れない。
基本的に寛容で八百万(やおよろず)の神なのだ。宮崎アニメの「もののけ姫」もこうした視点からとらえると面白いと思う。「となりのトトロ」などもそうだ。

いや話かまた脱線してしまった。
我々の持つ宗教性は一体どうなったのか、あるいはどうなるのか…。戦後六十年あまり経ち、アメリカナイズされ続けている我が国で、この一点がとても歪な姿になって来ているように思えてならない。
アメリカが悪いとかそんな問題ではなく、心の問題がなおざりになっているように思えるのだ。
政治の話なんてする気はないし、できるとも思っていないが…私のように素朴な平和主義者でさえ、人の心にある宗教心をもう少し大切にした方が良いと思う今日この頃…。

昼間に歩いていてお社を見たら、ちょっと立ち寄り、頭を下げるのは実に気持ちが良い。ハハハ…何だ、そんな程度のことなのかと、笑われそうだけれど…。

上の写真は心から愛するスイスの村、ミューレンの朝の風景。ラウターブルンネンブライトホルンに朝日が当たったところ…。これが部屋のベランダから見られるのだ…。
by Schweizer_Musik | 2008-06-29 20:54 | 授業のための覚え書き
学校のオケの演奏会を聞きに行ってきた
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杉並公会堂大ホールで行われた"ピアノコンチェルトvol.2"というコンサートに行って来た。
桐朋学園の卒業生のグループであるY.P.A(Young Pianist Association)という団体が主催で、我が校のオーケストラ(SHOBI シンフォニーオーケストラが共演でである。私の授業をとっている(あるいはとっていた)者も何人かいることもあり、行ってみようと思った次第。
指揮は横島勝人先生でコンマスは舘市正克先生、そして弦の各セクションのトップにはそれぞれ先生方が座り、学生、卒業生などかトゥッティに座っている。管はほぼ在校生で構成されているが、まずまずのサウンドで満足した。
曲は、最初がモーツァルトのピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466で松田恵里さんという方がソリストであった。きれいな音で演奏されていた。第2楽章でちょっと危ないところがあったりしたものの、最後までよくきれいにまとめていた。
2曲目はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番ハ短調。小川英子さんという方がソリストだった。なかなかの好演でオケもとてもよく鳴っていた。ちょっと低音が大きいというか膨らみすぎに感じたけれど、ロシア物ということで、合っていたと思う。
ソロはオケのトゥッティに対して若干馬力が足りないなと思うことがあったのは惜しいけれど(終楽章のコーダあたりではもう埋もれ気味で、ソロが聞こえなくなっていた)、それでもこの水準の演奏を聞かせるとは…。なかなかすばらしいピアニストであると思う。
3曲目はベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」で、遠藤綾美さんという方がソリストだった。
大曲であり、傑作中の傑作であるから、これを満足いくように演奏することは至難である。それに真っ正面から挑んだことをまず讃えたい。大きな流れでとらえて、オケに圧倒されることなく終楽章まで実に堂々としていた。テクニックの細かな部分でまだ若さが出ているのは今後の課題として、実に立派な演奏であった。
オケもとてもよくやっていた。ベートーヴェンはホルンが活躍するのだけれど、それをよく学生がこなしていて感心した。最後で管楽器だけ答礼させていたのは当然だろう。

雨が降っていて、風邪気味の私としては行くのを止めようかどうしようかと迷ったのだけれど、行ってよかった。次の機会にはyurikamomeさんなどにもお声をかけさせていただこう。

写真は雨の日はスイスの写真にしようと思う。これも腐るほどある…。
上の写真はルツェルンのイエズス教会。ここでトスカニーニがヴェルディのレクイエムを指揮した…。中にあるオルガンは名工メッツラーの作で、涙が出るほど美しい音色を聞かせるもの。そしてその教会の中の美しさ!!

ついでながら、この写真は1992年のもので、向こうに見えるカペレ橋は悲劇的な火災で焼失する前の姿です…。
電話で話したIさん。これは正真正銘、私が撮った写真です。まっ、誰が撮ってもこんな写真になるのが「スイス」なのですけれど…。
by Schweizer_Musik | 2008-06-29 20:50 | 日々の出来事
フリッチャイのロシアものをまとめて聞く
c0042908_2057114.jpg今まで聞いたチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」の演奏で、最も良かったのは様々な大名演を思いつつ、やはりフリッチャイ指揮ベルリン放送交響楽団による晩年のグラモフォンへのステレオ録音をあげることとなる。
こうした、どれが一番などということが単なるお遊び程度のものでしかないことは承知していても、聞き比べてどれが一番良いかなどということをやり出すと、意外にはまるのも事実で、様々な演奏を手軽に聞き比べることができるようになったおかげだと思う。
そのおかげで、評論家も耳年増を相手に苦戦しなくてはならなくなったワケで、昔の名曲・名盤選びのようなことが、色んな素人評論家のホーム・ページで繰り広げられる事態となっているのだ。
まぁ、評論家でもない私には関係のないことであるが、音楽がそれだけ色々な人に深く楽しまれる時代になったことに隔世の感がある。

さてフリッチャイに戻ろう。私は彼の「悲愴」は確か3種類ほど持っている。その中でもこの1959年のステレオ盤はステレオのプレデンスもよく(若干ステレオを強調しすぎているかも知れないが)、細部までオケのデティールをよくとらえている。解像度もとてもよくミキシングされているようで、聞きやすい。
しかし、この演奏で聞かせるフリッチャイの集中力は凄いもので、冒頭から緩急自在、音楽は自然と呼吸し、それぞれの場面を深く印象的に描いていく。
第3楽章もいきり立たず、余裕綽々たるテンポで、オケの力で最終的に大円段へと持ち込む。これこそ横綱相撲であろう。
フリッチャイの深いブレスで歌い上げる終楽章は、これぞ「悲愴」である。病魔に冒され、晩年は壮絶なまでの闘病生活の中、こうした名演をいくつも残したのである。

十年あまり前だったか、フリッチャイの録音がまとまってグラモフォンから出た時、十枚買うと特典CDをプレゼントとかいう企画があり、私はそれが欲しくて、ほとんどのCDを買いまくった記憶がある。
その時に特典盤としてもらったCDにはプロコフィエフの古典交響曲があったと思う。でも手にしてしまうと興味が無くなるというのは、私の幼児性の現れらしい…(笑)が、その演奏が先日購入したセットに入っていて、ちょっと悔しく思った。
それはともかく、この古典交響曲もまた素晴らしい演奏なのだ。1954年のモノラル録音で、最新録音のような解像度を期待してはいけないけれど、無理のないテンポからくり出される生き生きとした表現…。最近のやたら速いテンポでギリギリと締め付けられるような演奏に比べて、この格調の高さはどうだ!
この冷静で品格の高さ、それでいてオケが気持ちよく鳴り響く…これこそがフリッチャイの魅力のような気がする。
更に聞き進めることにしよう。

当時のコンマス、ルドルフ・シュルツをソリストとしたリムスキー=コルサコフの「シェエラザード」はモノラルでなければ…とため息がでるような名演。残念ながらキリル・コンドラシンとロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団、そして名コンマスのヘルマン・クレバースのソロという鉄壁の名演には及ばないけれど、録音さえ良ければこれはそれを脅かす存在だったことは間違いない。
大体、フリッチャイの演奏はバルトーク以外、あまり良く言われないのはどうしてなのだろう?私にはちょっと理解できない。
第1楽章からコンマスのルドルフ・シュルツの演奏が素晴らしい。フリッチャイの指揮は緩急自在で、音楽に合わせて自然と呼吸するスタイルは第2楽章などのソリスティックな部分で生きてくる。メンバーの演奏水準の高さが説得力を与えている。
ノイズなどが多くのっていることもあり、時々気になるのだけれど、1956年9月の録音ということで、まぁ許すことにしよう。
第3楽章の「王子と王女」など、暖かくって優しくって…なんともハートウォームな良い感じなのだなぁ。そして終楽章の「バグダッドの祭、海、青銅の騎士の立つ岩での難破、終曲」の圧倒的な緊迫感!シュルツのヴァイオリン・ソロは録音時55歳だったと思うけれど、まさに油ののりきった演奏と言うべきだ。そしてオケの鉄壁のアンサンブル。テンポの細かな動きにピタリと付いていくオケは、いかに優れたコンマスと団員が集中して取り組んでいるかを物語る。
すでにコンドラシン盤を持っている人に、改めて買いなさいと言う気はないけれど、フリッチャイってどういう人?って聞き返す方にはぜひお薦め!
ああ!楽しい夕べであった。
by Schweizer_Musik | 2008-06-28 20:57 | CD試聴記
ベーム指揮によるシュトラウスの最後の4つの歌、アルプス交響曲
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あのシュナイト指揮神奈川フィルの名演を聞いて後、封印していたシュトラウスの最後の4つの歌を、リーザ・デラ・カーザのソプラノ、カール・ベーム指揮ウィーン・フィルによる1953年に録音された演奏で聞いた。
書かれて後四年。作曲者の死によってもう一つ書かれようとしていた歌曲は世に生まれ出ることはなかったが、4曲のこの世のものとは思えない美しい歌はかろうじて残されることとなった。
聞きながら、この曲が書かれたスイスのベルリナ地方を再びこの夏訪れることにしようと考えはじめている。ミューレン行きをやめればいいのだ。
それとも詩人のヘッセのお墓に、そしてその近くに眠るブルーノ・ワルター一家のお墓に花を手向けて来るのも良いかも。
それならばルガーノに行かなくては…。

そんなことはともかく、やっとあのシュナイトの魔法から放たれたようである。何と言ってもそれまで楽しんでいた名演の数々を消し去ってしまうほどなのだから、罪作りな名指揮者である。
あれあれまた脱線…。デラ・カーザの歌はさすがに上手い。そしてベームの指揮するウィーン・フィルは神奈川フィルほどではないが(至って本気ですよ、私は!)なかなか美しい。弦の響きが若干古風で、石田氏率いる神奈川フィルの美しい響きにはかなわない。(ここまで来たら贔屓の贔屓倒し…かな)
曲順は初演の時のもので、第1曲が「眠りにつくとき」、第2曲が「九月」。第3曲「春」。そして最後がアイヒェンドルフの詩で「夕映えに」というものだ。第1曲から第3曲がヘッセの詩であることは現在の曲順と同じなのだが、この曲順もまた良いと思う。大体この作品群が「最後の4つの歌」というタイトルになったのも誰がつけたものかわからないし、作曲者はこのベーム盤の曲順を望んでいたのに、何故出版の段階で曲順が変わったのか、不明なのである。出版商のエルンスト・ロートという人が曲順をこうしたという話が「名曲解説全集」に載っているけれど…。
私は作曲者の意志を尊重すべきではと思う。その意志がこのベーム盤の曲順であるのならば…であるけれど。

c0042908_1731409.jpgこれを聞いてからベームのセットからアルプス交響曲を聞く。モノラルながら驚異的な解像度で、1957年、モノラル末期のグラモフォンの録音技術の水準が高いものとなってきていたことが分かる。
このスペクタクルな曲については、カラヤンやブロムシュテット、ケンペなど名演がひしめき合っているが、私が音楽を聞き始めた頃以降の録音が大半で、古くはこのベームの録音と作曲者の自演のもの位しか録音がなかったように思うが、どうだったのだろう?
ところで、このベームが指揮しているオーケストラはドレスデン・シュターツカペレ。東ドイツの最高のオーケストラであるし、ベームとも縁の深いオケであると同時に、リヒャルト・シュトラウスとも様々な縁のあるオケということで、あのケンペの「全集」などでもこのオケがあってあの名演が生まれたと言ってよい。
だから、このベームの録音はモノラルというデメリットはあるものの、演奏の素晴らしさは折り紙付きと言ってもよいだろう。
ただ、トラックの変わり目で音が瞬間途切れるのには閉口してしまった。ギャップレスの設定をしても、もともとの録音でふっとフェーダーが下がったような切れ方をしているのは、いかにも不自然である。
昔持っていたはずのヘリオドールのLPもこうだったのか、全く記憶がない。
ともかく「嵐」の場面のスペクタクルな表現にも欠けていないし、この録音がCD時代になっても未だに輝きを失っていないことに驚くしかない!
モノラルという以外は完璧!の演奏・録音だ。聞く機会があれば、ぜひ一聴をお薦めしたい。
by Schweizer_Musik | 2008-06-28 17:32 | CD試聴記
ドゥランテ、ダストルガ、ペルゴレージ…
c0042908_1333369.jpg明日は学校のオケが出演するコンチェルト大会(笑)に出かける予定。なので、今日のうちに仕事をいくつかやっつけておかないといけないのだが、風邪がなかなか直らず、どうもこれでは作曲なんて出来そうもなく、朝の内はいくらかジタバタしたものの、諦めてしまった。
何か音楽でも聞いて過ごそうと思い、取り出したのは先日購入したドイツ・ハルモニアムンディの記念ボックスである。
フランチェスコ・ドゥランテのマニフィカートが1枚目にある。これを聞いてみる。先日も聞いたので2回目となるが、このなんとも爽やかな響きの伸びやかな歌は何だ!古楽器演奏のデフォルメも感じることなく、心ゆくまでこの素朴で美しい音楽を楽しんだ。
トーマス・ヘンゲルブロックの指揮するフライブルク・バロック・オーケストラ、それにバルタザール・ノイマン合唱団とそのメンバー(おそらく…)のソロは何とも心地よい。
冒頭をまず聞いてみて魅了されない人がいたらお目にかかりたい!
合唱はさすが!ピッチがよく合っていて(当然だ!)オケとのアンサンブルもよくまとめられている。冒頭のメロディーが最後の曲で戻ってきて、またうれしくなってしまった。それほどメロディーに魅力が一杯詰まっているのだ。

昨日弦楽四重奏の授業で、スメタナ四重奏団の話をしていたら、彼らの誰もがスメタナ・カルテットの名を知らないのにちょっとショックを受けてしまった。もうそんなになるのかと月日の経つのが速くなったと思ったら、タカーチ四重奏団の名前も知らないことが判明。彼らの誰もが四重奏団の名前の一つも知らなかったのだ。…絶句。
吹奏楽を熱心にやっている高校や、吹奏楽の団体や、メジャーなオーケストラは知っているけれど、あるジャンルの音楽はロクに聞いていないのだ。
こう偏りがあるのも困ったことである。幅広く音楽を聞き、楽しんでほしいとも思うし、それらを聞くことで色んなことを学んでほしいと心から思わざるを得ない。
いずれにせよ、今弦楽四重奏をやっているのだから、もうちょっと聞いてくれても…と思う次第である。
いや、愚痴を書いている間に、フランチェスコ・ドゥランテのマニフィカートは終わり、ダストルガのスターバト・マーテルへと進んでいる。
「悲しみの聖母」と言えばペルゴレージと言いたくなる人もいるだろうけれど、このスターバト・マーテル(悲しみの聖母)というテキストに作曲した人はとても多くいるし、その多くが傑作であるので、これこそナンバー・ワンなんてとても言えそうもない。

ダストルガの父親はシチリアの男爵だったそうである。父がスペインの支配を終わらせるために活躍していた時に部下の裏切りで公開処刑されてしまうのだが、それを無理矢理見せられたダストルガ少年とその母は大変な苦しみを受けた(何という残酷なことをしたのだ!)。母はその場でショック死し、少年ダストルガも一時精神を病んでしまったそうである。
そんな彼だけに、このスターバト・マーテルへの思い入れが深かったのではないだろうか?
代表作として紹介されることも多いこのスターバト・マーテルを聞いて、ペルゴレージなどと同じような編成で、透明感のある、それでいて荘重さと威厳を感じる名作だと私も思った。
このダストルガの名作の後、そのスターバト・マーテルで有名なペルゴレージの「われ主に感謝せん」というモテットが収められている。これが冒頭のドゥランテのマニフィカートと同じような出だしで驚く。まぁ、バロック音楽全体がどれも似通っているなどと悪口を言う輩もあるけれど、それは言い過ぎであるけれど、こんなに似ている音楽とはちょっといいまかなぁ…。
ベルゴレージの明るく伸びやかなメロディーの魅力は素晴らしく。ヘンゲルブロック指揮の下、美しい演奏を繰り広げているフライブルクのアンサンブルと合唱団には全く脱帽である。
このセット、50枚も要らないよと言われるかも知れないけれど、こうしたCDをCD店の棚に並んでいる中から選んで買う人は、少ないだろう…。だからこそ、こうしたボックスで出会ったことに感謝!である。
まだまだ名作、名演が目白押し…。これは安い、良い買い物をしたものである。
by Schweizer_Musik | 2008-06-28 13:33 | CD試聴記
タッシによるストラヴィンスキーを聞く
c0042908_3572845.jpg今日は怒濤の金曜日である。くたびれ果てて帰ると、先日注文しておいたCDが届いていた。さすがにすぐに聞く気にはなれずそのまま寝てしまい、今、ごそごそ起き出して聞いたところである。
タッシによるストラヴィンスキーの室内楽曲集である。1970年代の録音で、確かLPで持っていたが、売り払ってしまったので、聞くことができなかったもの。
CDのメインは「兵士の物語」であるが、トリオ版のこれはあまり好きでないのでパス。パストラーレもバイオリンとピアノの二重奏にアレンジされている。もともとはソプラノとピアノのためのもので、1907年に書かれたものであった。
これがソプラノと木管アンサンブル(sop/ob/e-hr/cl/fg)のための版や室内アンサンブル(vn/ob/e-hr/cl/fg)のために版が存在し、更にヴァイオリンとピアノのための二重奏版もあるという具合で、私は作曲者自身のものだけでこんなに編成の異なる作品は他にあまり知らない。余程気に入っていたのではあるまいか?
ヴァイオリンの重音奏法がいかにもストラヴィンスキーらしくて面白かった。
クラリネットのための3つの小品は、昔LPで聞いたギイ・ドゥブリュの演奏に勝るものは未だに聞いたことがないけれど、このストルツマンの演奏は唯一それに迫るものだ。彼も若い頃はなかなか良い奏者だったとつくづく思う。どこからか、私の好きなクラリネット奏者でなくなっていったのは残念だけれど、この二十年ほど彼のCDは一枚も聞いていなかっただけに、ちょっとこり演奏は懐かしかった。
ペルゴレージの作品をもとにした「プルチネルラ」というバレエがあるが、これからストラヴィンスキーはヴァイオリンとチェロとピアノというトリオで演奏する「イタリア組曲」という作品を作り出している。それを更にチェロとピアノのための作品に書き直したのがこの曲というわけで、これまた3種類の版が存在するというややこしい事態になっている。
この他にもヴァイオリンとピアノのためのドゥシュキンと共同で編曲した版もあり(曲数が違うので更にややこしいのだけれど…)それは矢部達哉さんと若林顕氏の素晴らしい録音がSONY-Classicalにある。確か矢部さんのソロ・デビュー盤ではなかったか。ちょっときまじめだけれど、素晴らしいものだった。
こうして考えてみると、あの弦楽四重奏のための3つの小品(これは今日の弦楽四重奏についての授業でとりあげた作品である…)も管弦楽版をストラヴィンスキーは作っていて管弦楽のための4つのエチュードという曲になっている。
このあたり、ラヴェルと似ていて、管弦楽の名人ともなるとこうして一つの創造物が様々に変化をとげていくあたりがとても面白いと思う。

で、このCDを買ったメインの七重奏曲についてではあるが、これは別の機会にしよう。言わなくてはならないことがあまりに多過ぎるのだ。
私は何十年ぶりかに再会を心から楽しんでいる。とりあえずそれだけは申し上げておこう。紙ジャケ仕様の「タッシの時代」というシリーズの三枚目。これは持っていても良い名盤だと思うけれど、いかが?
by Schweizer_Musik | 2008-06-28 03:57 | CD試聴記
アディンセルの音楽を聞く
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モートン・グールドの音楽を聞いて、イギリスのライト・クラシックを久しぶりに聞きたくなり、アディンセルの映画音楽などを聞く。
ワルソー・コンチェルトを聞いた方は多いのではないだろうか?1941年公開(なんという年であろう!!)の"Dangerous Moonlight"というイギリス映画のために書かれたもので、第二次世界大戦中のポーランドで、アメリカ人ジャーナリストの女性が、ポーランド人の空軍パイロットでピアニストの男と恋に落ちる話なのだそうだ。
なるほどだから「ワルソー・コンチェルト」かぁと納得。日本未公開のこの映画について語った解説は私の知る限り(と言っても2〜3枚のレコードもしくはCDの日本語解説であるけれど…)なく、最近、ネットで調べて知った話だ。
まあ、別に映画そのものを見てみたいという気が起こるような筋立てではなさそうなので、音楽だけを聞くことにしておこう。
単一楽章の作品ながら、ロマン派のスタイルでよく書けている。映画が忘れられてもこれだけが残り、演奏されるのも当然だろう。
1950年の "The Smokey Mountains"という恐らくは映画のための音楽は、3楽章制のピアノ協奏曲にまとめられていて、ひょっとしたら柳の下の2匹目のナントカを狙ったのではと思わせるが、こちらの方が私は気軽に聞けてずっと好きだ。
ちょっとしたガーシュウィン風の部分もあったりして、オーケストレーションも(誰がしたのかは知らないが…多分本人…?)とても良くて、エスプリに満ちた音楽だ。
この辺りがイギリスのライト・クラシック。なかなか侮れないところである。
映画のための音楽なのかどうか知らないけれど、「ト調の音楽 "Tune in G"」なんてピアノとオケのために曲ながら、協奏曲のスタイルでなく、ピアノはただアルペジオを弾いたり、和音をかき鳴らしたりしているだけで、ちょっとだけカデンツァ風の部分をはさむものの、基本的にはオケの曲。でもこのメロディーの美しいこと!うっとりしてアンコールをお願いしたところだ。
若い頃に見た映画「チップス先生さようなら」とは違うのだけれど、1939年に制作された映画「チップス先生さようなら」のために書かれた音楽は、格調高く、素晴らしいスコアだと思う。
そう言えば、中学生の頃に文庫本でヒルトンのこの小説を何度も読んだ記憶が甦ってきた。私にとってイギリス文化入門の本だったと思い至る。
主題歌のコーラスは若干下手くそなのが、逆にリアリティを感じさせて良い。そう言えば、イギリスのグラナダTVの「シャーロック・ホームズの冒険」のシリーズの音楽を担当したゴワーズが主題曲に(ホームズはヴァイオリンを趣味で演奏するということから)ヴァイオリン・ソロを使っているが、プロの華麗な演奏でなく、(ちょっとよく弾ける素人の)ホームズが演奏しているような感じを出すために、ゴワーズの娘にヴァイオリンを演奏させて録音したのだそうだ。
こうした細部までのこだわりは、作り手として良い物を作るためにとても大切なことなのだろう。
まだまだ聞いたのでけれど、この件はこの辺で…。
写真は、済んでいるマンションの付属している公園の若葉…。朝の光に照らされて、なんとも美しいものだったので…。
by Schweizer_Musik | 2008-06-27 04:52