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モレの「夢の中へ」を聞く
c0042908_2340673.jpg作曲者 : MORET, Norbert 1921-1998 スイス
曲名  : 夢の中へ "En rêve" (1988)
演奏者 : アンネ=ゾフィー・ムター(vn), 小澤征爾指揮 ボストン交響楽団
CD番号 : Grammophon/POCG1479

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by Schweizer_Musik | 2012-01-31 23:39 | CD試聴記
シュトラウスの二重協奏曲を聞く
c0042908_2040976.jpg作曲者 : STRAUSS, Richard 1864-1949 独
曲名  : 二重協奏曲 (ハープをもつ弦楽オーケストラとクラリネットとバスーンのための) Av.147 (1947)
演奏者 : ディミトリ・アシュケナージ(cl), キム・ウォーカー(fg), ウラディーミル・アシュケナージ指揮 ベルリン放送交響楽団
CD番号 : DECCA/POCL-1317

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by Schweizer_Musik | 2012-01-31 21:03 | CD試聴記
ザウアーのピアノ・ソナタ第1番を聞く
c0042908_23352217.jpg作曲者 : SAUER, Emil von 1862-1942 独
曲名  : ピアノ・ソナタ 第1番 ニ長調 (1903)
演奏者 : オレグ・マルシェフ(pf)
CD番号 : Danacord/DACOCD533

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by Schweizer_Musik | 2012-01-30 23:56 | CD試聴記
ザウアーのピアノ協奏曲第2番を聞く
c0042908_2251521.jpg作曲者 : SAUER, Emil von 1862-1942 独
曲名  : ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 (1900刊)
演奏者 : オレグ・マルシェフ(pf), ジェームズ・ロッホラン指揮 オーフス交響楽団
CD番号 : Danacord/DACOCD596

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by Schweizer_Musik | 2012-01-30 23:19 | CD試聴記
授業のための覚え書き -5- 新古典主義 (2)
1919年から1920年にかけて、スイスのレマン湖畔のモルジュでストラヴィンスキーによって書かれたバレエ音楽「プルチネルラ」は、ディアギレフのロシア・バレエ団のための作品で、1917年のスカルラッティの作品によるヴィンセント・トマッシーニ(TOMMASINI, Vincento 1878-1950 伊)が書いたバレエ「上機嫌な貴婦人たち」、1918年のロッシーニ作品によるレスビーギ編曲による「風変わりな店」に続く作品として依頼されたものであった。
もともとはペルゴレージの作品をもとにハープ入りの大管弦楽で編曲するよう依頼されていたのであるが、ストラヴィンスキーは、コンパクトな二管編成に弦パートのそれぞれに独奏が入る合奏協奏曲の形式で書き上げたのであった。
この時のペルゴレージなどの作品からの選曲はディアギレフとその振り付け師でもあったレオニード・マシーンによるものであった。
打楽器すら使われない小編成で書かれたことに(歌い手が三人この他に必要とされる)、ディアギレフは驚いたそうだが、結局彼はこれを受け入れ、ピカソの舞台装置によって、1920年5月にパリで初演。大変な好評をもって迎えられたという。
さて、この曲が重要なのは、ストラヴィンスキーがただの編曲ではなく、作品の和声やリズムをはじめとして多くの部分を現代風に改変して編曲をし、合奏協奏曲風の新たな作品となっている点であった。したがって、この作品に関して、ストラヴィンスキーは単に編曲としてのクレジットではなく、作曲者としてクレジットされることが今日では一般的となっている。
バレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の定番のレパートリーとして、この作品は数多く再演され、ストラヴィンスキーの成功作の1つとなり、イタリア組曲と題したバイオリンとピアノのデュオ作品や、室内管弦楽のみの組曲版なども作られて、ストラヴィンスキーはなかなか商魂たくましいところを見せたりもしているが、いずれにせよこの曲が与えたインパクトは大きかった。ブゾーニなどが提唱した新古典主義の考え方そのものだったのである。

1900年代には、まだ新古典主義などというものは、水面下で準備されていた状態で、まだ一般的に誰も信じていなかった。しかし、大戦後の世界で、物資が欠乏し、恐慌へと向かう狂乱の20年代を席巻したのが、この新古典主義だったのである。
当時のフランスで名教師として出発したナディア・ブーランジェ(BOULANGER, Nadia 1887-1979 仏)は、このストラヴィンスキーの新古典主義を擁護した。彼女のもとにはアメリカから数多くの若い作曲家たちが留学して来ていた。アーロン・コープランド(COPLAND, Aaron 1900-1990 米)、エリオット・カーター(CARTER, Elliott 1908- 米 100歳を越えてなお作曲している怪物…)といった戦前、戦後のアメリカの音楽の象徴とも言うべき作曲家たちがこの新古典主義の洗礼を受けて巣立っていったのであった。
こういった、大らかな作風は、アメリカのアカデミックな音楽の基本的な流れとなっていったし、ここから、レナード・バーンスタインが生まれたのである。
更に言えば、あのモダン・タンゴのアストル・ピアソラ(PIAZZOLLA, Astor 1921-1992 アルゼンチン)ももその一人であったことも申し添えておこう。
また、この作品が、合奏協奏曲の形をとったことで、以降、管弦楽のための協奏曲などが生まれることとなったのであるし、ネオ・バロックの様式もエルネスト・ブロッホ(BLOCH, Ernest 1880-1959 瑞西→米)やフランク・マルタン(MARTIN, Frank 1890-1974 スイス)など、多くの作曲家たちに受け入れられて行ったことも忘れてはならない。
それは、パウル・ヒンデミット(HINDEMITH, Paul 1895-1963 独)において顕著であった。彼の7曲ある「室内音楽」のシリーズは、明らかにこのストラヴィンスキーの影響の上に出来ているからである。
ヒンデミットは表現主義から出発し、やがて新古典主義の洗礼を受けてこうした合奏協奏曲的な室内楽作品を数多く作曲しているが、古も的な枠組みに彼独特の音構造の感覚が大変特徴的となっている。

一方、1917年、まだ戦争中のこと、パリでエリック・サティ(SATIE, Erik 1866-1925 仏)の「バラード」がバレエ・リュスによって初演され、大変な物議を醸したことがあったが、その時、サティの側について論戦をはった若い作曲家たちがまとまった。もともとはソプラノ歌手のジャーヌ・バトリ(Jane Bathori)が企画したコンサートで偶然集まった六人であったが、詩人ジャン・コクトーが印象派に代わる新しい芸術の必要性を説き、作曲家アンリ・コレ(COLLET, Henri 1885-1951 スペイン)が1920年1月に「コメディア」誌に「ロシア5人組、フランス6人組、そしてエリック・サティ」と書いて、6人組の名を広めることとなったのだった。
作曲家という個性をぶつける職業の者が集まって共同作業をするというのは無理があり、この時も数年で結局彼らはバラバラになり、6人組としての成果はごくわずかであった。
しかし、彼らの名前がこの6人組という名前とともに有名となったことは違いなく、印象派の消滅に力を貸したとも言えるが、そのためにとった明快な古典的な技法は、新古典主義と通じるものがあった。
特に、フランシス・プーランク(POULENC, Francis 1899-1963 仏)とミヨー(MILHAUD, Darius 1892-1974 仏)は、印象派以後のフランスを象徴する存在であった。彼らの音楽は軽快でメロディーに溢れ、古典的な均衡の上に成り立つものであったからである。
彼らの多くが、その新古典主義音楽の器に、その頃新大陸から伝わってきて一大ブームとなりつつあったタンゴやラグタイム、ブルースといった当時、ジャズと分類されていた音楽を積極的に取り入れて作品を作ったことである。
ジャズの影響についてはまた今度…。

写真は引き続きブルンネン。
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by Schweizer_Musik | 2012-01-30 11:16 | 授業のための覚え書き
授業のための覚え書き -4- 新古典主義 (1)
新古典主義とは、美術の世界では18世紀後半に起こった古代ギリシャ、古代ローマの様式への回帰運動のことを指すが、音楽では20世紀初頭、ストラヴィンスキー等による古典音楽への回帰運動を指す。それは単なる懐古趣味などではなく、古典的な形式美へ帰依しようとする思想運動なのである。
ただ、これはロマン派の時代からずっとヨーロッパの音楽の底流に流れ続けていた古典への帰依の心が戦間期に表面に出て来たと考えるべきかも知れない。そしてその多くの部分はロマン派の作曲家、特にメンデルスゾーンとブラームスに負うところが大きい。

そもそも、ロマン派の音楽は、それまでの自作自演が原則であった音楽界から、それぞれ演奏だけする人たちと作曲だけする人という分業化が進んだ時代でもあった。その過程で、古い時代の偉大な音楽の再発見がブームとなり、あまり顧みられることの無かったバッハなどが神格化されていった時代でもあった。
ネーゲリらの楽譜出版が1つのブームにさえなろうとしていた時代。それは、王侯貴族に替わって台頭しはじめた、新しい階級である資本家たちの好みにも合致し、バッハから古典派の作曲家、特にベートーヴェンなどの数多くの作品の出版がこの頃に行われた時代でもある。
その時代に生を受けたメンデルスゾーンやブラームスが、前世紀の音楽に対して強いあこがれを持っていたとしても、違和感はない。
メンデルスゾーンは、バッハの音楽の復活、なかでもマタイ受難曲の復活演奏が有名であるし、古典派に近い、簡潔な形式美が彼の芸術の特徴でもあった。更にブラームスはヘンデルやバッハ、ベートーヴェン、シューベルトと前世代の音楽に帰依し、そうした整った形式美を理想として作曲をしていて、フーガやパッサカリアといった古い形式で書くこともしばしばであった。

ハイペリオンというCDレーベルが系統的にロマン派の協奏曲シリーズを出している。それらは19世紀から20世紀初頭にかけて累々と書かれ続けたロマン派の協奏曲の膨大な作品群を俯瞰する、大変意義深い企画であるが、聞き続けるとやや胃もたれを起こしそうな音楽ばかりであることに、ちょっと辟易としてくる。
それは、多くが短調で書かれ、苦悩と絶望の深淵をこれでもかと描いている。モーツァルトやハイドンの音楽が持っていた愉悦やユーモアはすっかり失われ、重厚長大な音楽が立派なものと言わんばかりの状況であった。
試しにヘンゼルト(HENSELT, Adolf von 1814-1889 独)のピアノ協奏曲 ヘ短調 Op.16 (1844)や、リトルフ(LITOLFF, Henrry Charles 1818-1891 仏)の交響的協奏曲 第4番 ニ短調 Op.102 (1851-52)などを聞くと良い。そこにある誇大妄想的な深刻ぶった音楽に、当時の閉塞感が合わさってくることであろう。
実際に、20世紀初頭にもまだこうした音楽が作られていて、シャルヴェンカ(SCHARWENKA, Franz Xaver 1850-1924 独)のピアノ協奏曲 第4番 ヘ短調 Op.82 (1908)や、ストヨフスキ(STOJOWSKI, Sigismond Denis Antoni Jordan de 1870-1946 ポーランド→米)のピアノ協奏曲 第1番 嬰ヘ短調 Op.3 (1893)などを聞くと、当時の聴衆の音楽的な嗜好が分かる。
ラフマニノフの協奏曲などが好まれるのは当然だったのだ。

しかし、一方でレーガーは、ブラームスの伝統の上に、パッサカリアやフーガ、バロックの影響下にある様々な作品を大量に書き連ねていた。彼も見た目(聞いた感じ)は明らかな後期ロマン派であるのだが、新古典主義を準備した一人としてあげるのにやぶさかではない。ただ彼の末端肥大症の、複雑化の極致に至った対位法が繰り出すオルガン作品は、薬にもしたくないけれど、クラリネット五重奏曲など、簡潔にして優美な音楽も晩年には書いているし、モーツァルトやベートーヴェンの主題による変奏曲なども有名で、その世代の音楽への親近感はあったのではないだろうか。

こんな中で、ブゾーニはモーツァルトへの回帰やバッハへの回帰を呼びかけ、その校訂と演奏で名をあげた。彼は番号制のオペラを復活させ、音楽に愉悦と軽快さを取り戻そうとした。彼は揺るぎない信念でこれを推し進め、フルートのためのディヴェルティメントやクラリネットのためのコンチェルティーノなどの作品を書いている。
後期ロマン派からの決別を意図していることは、これを聞くとはっきりとわかる。そして新しい時代がやって来ていることも…。

この動きに敏感だったのが、ドビュッシー(DEBUSSY, Claude 1862-1918 仏)だった。彼は晩年になって、6曲からなる連作のソナタを書く計画をたてた。6曲というセットも古典の時代のそれに倣ったもので、印象主義から新古典主義への移行を彼自身が率先して推進しようとしていたのである。

これは、言うなればロマン派音楽の残りかすである印象主義とドイツ表現主義に対する、決別の宣言のようなものだったのだ。新古典主義音楽というのが、思想運動であるというのはこの点にある。

1914年から1918年にかけてヨーロッパ全土を巻き込んだ第一次世界大戦は、特にドイツ、フランスの国土を極端に疲弊させ、多くの音楽家、演奏家も命を失い、戦争が終わっても、以前のような大管弦楽の作品を書いても、演奏の機会は滅多に訪れることはないという時代へと移った。
そこにスペイン風邪の猛威が追い打ちをかけ、大管弦楽作品が書かれなくなったというより、書けなくなった。
一方で、新大陸からジャズが入って来て、ヨーロッパはその影響を受けることとなる。こうして、新しい音楽運動である新古典主義は次の段階へと移る。

この稿は更に続く…

写真は早朝のブルンネンの波止場。
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by Schweizer_Musik | 2012-01-29 21:18 | 授業のための覚え書き
授業のための覚え書き -3- セリエリズムと新古典主義
1つの調性は大体7つ程度の音から出来ている。これに派生音を入れると、調性は曖昧になってしまい、果ては調性感が失われることとなる。試しに、ピアノで右手を白鍵、左手を黒鍵において、できるだけ細かい音をなんでも良いから弾いてみると良い。すると、即席で調性を感じない響きが生まれ出てくるはずだ。
7つの音を同時に鳴らしたら?配置の仕方によって結構きれいに響くのだけれど、調性感は曖昧になっていくことは否めない。さらにその間の派生音も入れると、もうかなり大変な音響になってしまう。
マーラーの絶筆となった交響曲第10番のアダージェットのクライマックスで、12個の音に一個だけ足りない11個の音が積み重ねられてフォルテで鳴り響くが、はじめて聞いた高校生の時のあのショックにも似た感動は、今も忘れられない。
完全な混濁、一種のカオスは、プロコフィエフの「ロメオとジュリエット」にも出てくる。こちらは、12個の音か敷き詰められ、恐ろしい深淵がぱっくり空いているかのようで、やはり強い印象を残す。
こうした試みは、近代においてだけでなく、古くはバッハなどでも出て来ているのだけれど、それらはあくまで調性の範疇を越えない形での使用である。モーツァルトの40番交響曲の終楽章、展開部への移行部での12の音の連なりは、ただただ、減七の和音の連続がもたらしたもので、モーツァルトは無調や12音技法などとは心にも思っていなかったことであろう。
しかし、そうした実例があることは、ミヨーなどが指摘しているとおりであるが、それは調性音楽の持つ、自由度故と考えるべきであろう。

世に言う12音技法は、長7度の中に含まれる12個の音を平等に使用することで、古典的な調性感とは異なる新たな「調性」とも言うべき基本理念を獲得した技法であるが、ヨーゼフ・マティアス・ハウアー(HAUER, Josef Matthias 1883-1959 オーストリア)によって最初に作られ、それに影響を受ける形でシェーンベルクなどが更に別の技法へと進化させたものである。
ハウアーの技法は、彼自ら呼ぶところのトローペ(Trope)という理論に基づくもので、1919年に書かれたノモスOp.19 というピアノ作品によって発表された。一方、シェーンベルクは1921年に発表した5つのピアノ曲の最後の「ワルツ」でこの12音技法を使用した。但し、これらの発表以前の1916年に、ロシアのニコライ・オブーホフがインヴォカシオンという2曲のピアノ曲で12音技法を使ったというが、私はそれを聞いたことも(楽譜を)見たこともないので、言及は控えたい。
12音への過程で、様々な紆余曲折があったのであるが、その最も大きな事件は、お互いに協力し合いながらやっていたバウアーとシェーンベルクが袂を分かつこととなったことであろう。
ハウアーは「音楽家は芸術的な表現を志向するのではなく12音のそれぞれが持つ霊的な真実を代弁することにのみ尽力すべき」と主張し、シェーンベルクやアドルノたちと別れてしまうのであった。
以降、色々と非難合戦が行われたようであるが、ハウアーは第二次大戦の中でもウィーンに留まるものの、作品を発表する機会が失われたままとなって、次第に忘れ去られて行く。
一方で、シェーンベルクはアメリカで活躍したことで、忘却を逃れていた。そして12音技法は、ウェーベルンなどを経て、次の世代へと受け継がれて行ったのである。

煩雑さを避けるために、ここではシェーンベルクの12音技法について説明する。しかし、部分的にトローペの考え方がこの12音の音列の作り方などに影響を残していて、そうしたところにも注目しておきたいものである。

12音は音楽理論なので、音符のわからない人にはちょっと難しいものであるが、1つの12個の異なる音からなる音列が出来れば、それを半音ずつずらしていくと、12個の音列が自動的に出来ていくことはご理解いただけるだろうか?(original)
その音列の音程関係を上下を逆にすると、もう1つの音列ができ、これを半音ずつずらしていけばまた12個の音列ができる。これを反行型という(Inverse)。
さらにそれぞれを後ろから読めば12個×2の24の音列ができる(Reverse)。こうしてできた48個の音列だけを使って曲を書くと12音の作品が出来上がるのである。
最近、私は12音の曲を1曲だけだけれど作ったので、その音列表を以下に掲示する。(曲の楽譜は出版者との契約でここに載せることはできないので、ご容赦を)
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この音列は古典的な調性を感じないように作ってあるけれど、調性を感じるように作ることも可能である。以前に私が作った木管五重奏曲から、「悲歌」を例にあげておこう。上の音列ではないので、ご注意を。また、ベルクのヴァイオリン協奏曲も例にあげて良いだろう。
私の作品では音列そのものが3度の連結で出来ているため、上行と下降で長3和音、短3和音ができるようにしてある。12音が機械的で無味乾燥な音楽だという誤解に対する私のささやかな抗議をここにこめたつもりである。
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シェーンベルクが提唱した12音技法は、1つの音列から派生した48の音列のみを使用して1つの作品を作り上げるのが原則である。したがって多楽章形式の作品(ソナタ、組曲など)でも、たった1つの音列から派生した48の音列を使って作曲をする。これによって、作品は常に一定の音程関係で出来上がっていくので、曲の構造的なまとまりは完璧なものになる。

この新しい技法は瞬く間に新古典主義の新しモノ好きたちの注目の的となった。それでも皆がこれを使うようになったのは、戦後になってからである。そしてそれは音列に留まらず、音価(リズム)や音色、ディナーミクに至まで、様々な順列と組み合わせで書かれることとなる。

これはウェーベルンの音色旋律(バッハの音楽の捧げ物からの六声のリチェルカーレの編曲、あるいは交響曲Op.21など)の概念を拡大していくことから始まったと言える。そして、ウェーベルンは戦後の音楽の1つの指針とさえなったのである。

メシアンの4つのリズムの練習曲 (1949-50) の第2曲「音価と強度のモード」においてそれは提案され、大きな反響を得るに至った。トータル・セリエルという1つの技法は、ダルムシュタットに集う、若い作曲家たちの心を奪った。

以上

写真はブルンネンの波止場。
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by Schweizer_Musik | 2012-01-29 14:36 | 授業のための覚え書き
授業のための覚え書き -2- 表現主義
第2回は表現主義。

調性を失ったことで、音楽はメロディーを失う危機に直面する。聞いて憶え、ハミングできるメロディーは、様々な情緒、感情を伝えるものとして最適だったが、これが失われることで、たちまち音楽の何を聞かせるのか、何を楽しみに聞くのかが曖昧となってしまった。
このことは、現在にまでつきまとう、大変な課題でもある。

調性を放棄したシェーンベルクは、それに代わるものを必要としていた。器楽作品はほとんどがミニアチュールであった。無調では長い作品に聴衆が耐えられないと考えたことも一因であろうが、まだ聴衆に無調の音楽を延々と聞く体勢は出来ていなかった。
ここに、ドイツ表現主義という新しい芸術運動が重なる。
画家ファン・ゴッホの影響を受けた若い画家たちから広まった表現主義(または表現派)は、感情を直接作品の中に反映させることで、強い印象を与えるものである。
その昔の、シュトルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)の時代も経験したドイツらしい新しい試みでもあった。それはドビュッシーなどの印象主義(Impressionism)に対してExpressionismと大きく異なり、一種のアンチ・テーゼとして起こった。ココシュカやカディンスキー(彼はシェーンベルクのピアノの演奏風景を絵画に残している)、エゴン・シーレといった画家たちがこの表現主義の画家たちとして知られるが、音楽ではシェーンベルクやパウル・ヒンデミットなどがこの表現主義の範疇に入る作曲家たちである。

シェーンベルクの傑作「月に憑かれたピエロ」Op.21 (アルベール・ジロー詩)(1912)は、この表現主義の生んだ傑作中の傑作であろう。この作品は、20世紀初頭に生まれた作品の中でも大きな影響を与えた。
(ちなみにシェーンベルクの名前はOのウムラウトが入るのだが、ユダヤ系ゆえに1934年にナチスの台頭から新大陸へとわたった彼は、アメリカに帰化。アメリカになじもうとoeで表し、名前もアーノルド・ショウンバーグと名乗っていたそうである)

「月に憑かれたピエロ」ではシュプレッヒシュティンメ(Sprechstimme / Sprechgesang : 「話し声」/話すように歌うこと)という新しい技法が登場する。音程、リズムが指定されているものの、音符に斜線が入り、ピッチについては完全でなくても良い。それよりも、話すように歌うことを要求していて、ベルクの歌劇「ヴォツェック」やクルト・ワイルの「三文オペラ」などにこの技法は応用されている。シェーンベルクも後に「ワルシャワの生き残り」Op.46 (1947)でこれを使っている。
これは、歌曲の伝統からというよりも、詩の朗読に音楽をつけることから生まれたと考える方がより自然だろう。
ストラヴィンスキーの兵士の物語 (1918)をはじめ、リヒャルト・シュトラウスのエノック・アーデン "Enoch Arden" Op.38 (1897) (テニスン詩/シュトロートマン独訳) や海辺の城 ""Das Schlob Am Meere"" Av.92 (1899) (L.ウーラント詩)といった曲をはじめ、グリーグのメロドラマ「ベルグリョート "Bergliot"」(朗読と管弦楽のための) Op.42 (1870-71/1885改訂) (B.ビョルンソン詩)などが有名である。我が国の作曲家の作品でも菅原明朗の「笛吹き女 "La joueuse de flute"」(深尾須磨子 : 詩) (1931)などが思い起こされる。

この朗読を、より音楽の方に近づけて、作曲者の意図のもとに朗読させるのが、このシュプレッヒシュティンメの目的でもある。その意味ではオペラのレチタティーヴォの延長にあるとも言えるだろう。バロックの時代のデクラマシオンに起源を求めてもよいかも知れない。
我が国の伝統的な平家物語のような語り芸を思い起こせば、これが突飛なわけではなく、極めて伝統的な世界に属していることがわかるだろう。成立の過程は全く異なるが、意図としては同じだと言っても良い。
このシュブレッヒシュティンメを室内楽で伴奏する。編成はfl(picco) - cl(bs-cl) - vn(va) - vc - pfで、指揮者を含めて7名で演奏するように書かれているが、全三部、21曲からなるこの作品で、全員で演奏するのは最後の曲だけで、他の20曲は様々な編成で出来ている。

この作品の主人公はそれでも常に「歌い手」であり、それは男性である「道化師」である。そしてそれは「英雄」でもある。このパラドックス(矛盾)こそがこの曲の最も大きな特徴を成している。歌い手はあくまで女声だからだ。
形式は、歌曲の形式ではなく、カノンやロンド、パッサカリアなどの古典の形式を採用し、器楽的、かつ新古典主義的様相を呈している。これと強烈な感情表現がもう一つのパラドックスを生む。
レチタティーヴォ風の語りが、オペラなどの劇作品を想起させるが、形はあくまで歌曲集となっている。それは3幕からなるものとなりうるものでありながらそうでいというパラドックスがここにも仕掛けられている。それは、古典派の時代の歌劇の所謂ズボン役のように女性が男性の役をやっていることで、より明確になる。
こうしたパラドックスの上に成立しているからこそ、聞く者はここに強烈な印象を受けるのである。
これは、キャバレーの音楽の影響もあるのかも知れない。シェーンベルクはいくつかの魅力的なキャバレー・ソングを書いているが、そうしたステージを想定していたのかも知れないと、聞きながらよく思う。(ちなみに、キャバレーとはフランスにおいては歌は小さな芝居を見せるためのステージがあるレストランやナイト・クラブを指す。シャンソニエもその1つ。ドイツでは文学的なバラエティー・ショーのことであり、そうしたものを上演する場所やその作品を指したりする言葉だそうだ。)

1912年。あの「春の祭典」ぐらいで大騒ぎをする当時のヨーロッパの聴衆にとってこの音楽は、理解不能だったことは容易に想像がつく。しかし、ラヴェルとストラヴィンスキーは、レマン湖畔のストラヴィンスキーの家で、この出来たての問題作のスコアを二人して研究し、ラヴェルは「マラルメの詩による3つの歌」(1913)、ストラヴィンスキーは「日本の抒情歌による3つの歌曲」(1912-13) に結実させた。
二人はsop - fl2 - cl2 (ラヴェルの第3曲のみ一人はbs-clに持ち替え) - vn2 - va - vc - pfという編成で書き、この研究の成果を残した。
その後、この作品は、ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル 〜 主のない槌」(1952-54) (R.シャール詩)にも影響を与えている(編成はm-sop - fl - va - g - vib - xylo - perc)。

表現主義の作品としては他にヒンデミットの初期の作品から「3つの歌曲」Op.9をあげておく。そしてドイツ表現主義は第一次世界大戦後しばらくして、形式主義や、即物主義へと変化していき、ヒンデミットも実用音楽を提唱するなど、即物主義への流れを加速していったのだった。その過程でジャズをとりいれたりしているのだが、それはまたいつか…。
今回はこの辺で。

写真はチューリッヒからブルンネンへと向かう車窓の風景。春がようやく谷にも湖にもやってきた、のどかで暖かな空気が満ちていた。
この鎌倉にも早く来ないかな…。
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by Schweizer_Musik | 2012-01-29 12:09 | 授業のための覚え書き
授業のための覚え書き -1- キュビズムと無調
シラバス作りの過程で、色々とメモをとったりしているので、それをまとめたものを書いておこうと思う。ここに書いておけば、無くさないので…(笑)。

第1回は「キュビズムと無調」

キュビスム(仏: Cubisme; 英: Cubism「キュビズム、キュービズム」)は、ルネサンス以来の「単一焦点による遠近法」(具象絵画における一点透視図法)に対して、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収める技法で、パブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックが創始者である。
1907年、ピカソの「アビニョンの娘たち」という絵が、この技法の最初であると言われている。

一方、音楽におけるルネッサンス以来の調性の存在は、19世紀に幾度となく小さな実験のような作品で否定されてはきたが、完全にその存在を否定した音楽は弦楽四重奏曲第2番の終楽章とアルノルト・シェーンベルクの「架空の庭園の書」という歌曲集によって否定され、以降、この技法の実験的な作品が次々と作られていく。

興味深いのは、この遠近法の否定と調性のムスティスラフ・ロストロポーヴィッチ創造とその否定が、ほぼ同時期に偶然にせよ始まった点である。

調性は、絵画における一種の遠近法のようなものである。中心点(単一焦点)=主調を設定し、そこから出発し、そしてそこに戻るという基本的な約束事でバロックからロマン派に至る400年の音楽の発達の歴史があったのである。

絵画でもそうした試みはそれ以前にもあったに違いないが、音楽では19世紀にリヒャルト・ワーグナー、フランツ・リストなどのよって様々な試みが行われている。

最も古い例は、バロックの有名なジャン=フェリ・ルベル (REBEL, Jean-Fery 1666-1747 仏)の「四大元素」(1723刊)であろう。
もう少し、緩やかな例としてはアントニオ・ヴィヴァルディの有名な協奏曲集「和声と創意への試み」Op.8 (1724出版) の中の第3番の第2楽章もその例にあてはまる。(「四季」として親しまれている「秋」の第2楽章)
しかし、これらの例は、ただ混沌を表現したかったり、憂愁を表現するのに思い切った和声を選んだに過ぎず、ルベルもヴィヴァルディも調性をどうこうしようという意図は毛頭なかった。
ロマン派の時代へと進むと、個性的な表現を求めて、調性を拡大し、極端な半音階主義へと進む人たちが現れる。
ショパンにもそうした例がいくつかあるが、最も有名名のはピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 Op.35「葬送行進曲付き」(1837-39)の第1楽章冒頭とスケルツォ 第3番 嬰ハ短調 Op.39 (1839)などがそうした試みの初期の好例であろう。

フランツ・リストもピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 S.124 (1849/1853,56改訂)やピアノ協奏曲 第2番 イ長調 S.125 (1839/1846-61改訂)の冒頭で調性を限りなく拡大し、新たな地平を切り開こうとした。
そして、調性のないバガテル "Bagatelle ohne Tonart (Bagatelle sans tonalite)" S.216a (1885)が書かれる。ただ、リストはこれを発表せず、亡くなった後、遺品の中から発見されたという経緯を見れば、調性を拡大させる中から調性が崩壊していったに過ぎず、彼がこの方向へと進むべきと考えていたかは甚だ疑問であるし、影響は限定的だったと考えるのが妥当だと思う。

しかし、リヒャルト・ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」(1857-59) の前奏曲のインパクトは計り知れないものをもたらした。
調性が曖昧なまま、全曲にわたって主調の主和音に1度も終止しない音楽が生まれたのである。トリスタンとイゾルテの決してこの世では成就しない愛をワーグナーは半音階を屈指し、主和音に結局1度も解決することのない音楽を書くことで、それを完璧に表現したのであった。
この音楽のその後の音楽界に与えたインパクトは計り知れないものがあり、音楽史は「トリスタン」以前と以後に分けられるほどであるのだ。
実際、トリスタン以前をロマン派前期、そしてトリスタン以後をロマン派後期と考えるのが妥当だと私は考えている。

この半音階主義が拡大し用いられる中で、アルノルト・シェーンベルクのシュテファン・ゲオルゲの「架空庭園の書」よりの15の詩 Op.15 (1908-09)が生まれたのである。
これ以前のシェーンベルクは、「淨められた夜」や弦楽四重奏曲第2番などで、この半音階主義を極限まで広げてみせたのであったが、まだ調性を捨て去るまでいは至らなかった。
だが、この歌曲集で、彼は最終的に調性と決別し、新しい音楽の創造へと出発したのであった。

この事実でもわかるように、無調は後期ロマン派の音楽の正当な後継者として生まれ出たということである。そしてシェーンベルクの弟子たちの中でも、アルバン・ベルクとアントン・ウェーベルンがこれを引き継いだのである。
しかし、二人は全く異なる個性を持っていた。ベルクはあくまで伝統的な世界にあったのに対して、ウェーベルンの耳には未来の音が聞こえていたようである。
この点については、12音技法についての回に譲ることとしたい。

以上

これはもう少し連載する予定。
写真はブルックの町で見かけた風景から…。
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by Schweizer_Musik | 2012-01-29 08:49 | 授業のための覚え書き
タンスマンの七重奏曲を聞く
c0042908_352443.jpg作曲者 : TANSMAN, Alexandre 1897-1986 ポーランド→仏
曲名  : 七重奏曲 "Septuor" (1930)
演奏者 : アルミン・ジョルダン指揮 パリ室内アンサンブル【クララ・ノヴァコヴァ(fl), ジャン=ルイ・カペッツァーリ(ob), フィリップ・クーパー(cl), アンリ・レスコーレ(fg), パスカル・クラロー(trp), ヨエル・ソールタニアン(va), ヒュー・マッケンジー(vc)】
CD番号 : GALLO/CD 729

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by Schweizer_Musik | 2012-01-29 03:11 | CD試聴記