シェックのヴァイオリン協奏曲をゲイヤーの演奏で
作曲者 : SCHOECK, Othmar 1886-1957 スイス
曲名  : ヴァイオリン協奏曲 変ロ長調 Op.21「幻想曲風」(1911-12)
演奏者 : シュテフィ・ゲイヤー(vn), フォルクマール・アンドレーエ指揮 チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団
CD番号 : Jecklin/JD 715-2
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セガンティーニ作「冬景色」(1890)

三枝成彰氏によるとシェックって時代遅れの作曲家だったらしい。私はこの遅れてきたロマン主義の作曲家をそう言って切って捨てるのはいかがなものかと思っている。
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スイス・音楽史探訪(未刊) より 第一章 (五)スイスの作曲家オトマール・シェック

 作曲家、オトマール・シェックは、四森林州湖畔の町ブルンネンに、一八八六年九月一日生まれました。十四才でチューリッヒ音楽院に行くため、この地を離れはしましたが、シェックは終生、このスイスの田舎町を愛していたと言われます。
 ブルンネンは、ルツェルンから、ザンクト・ゴットハルト峠に向かう途中、迫る山肌と四森林州湖に挟まれた山の町です。ウルミトシュトックという山とフロンアルプベルクという山に挟まれ、ちょっとだけ開けたところがブルンネンの町であります。駅から十分ほども歩けば湖畔にでることが出来ます。シェックのヴァイオリン協奏曲をゲイヤーの演奏で_c0042908_1120648.jpg
 湖畔には小さな船着き場があり、ここから湖水を行き来する船に乗れば、スイス誕生の地である、リュトリまで、ほんの十数分で行くことができます。途中、注意をしていれば、シラーの碑文が湖水の中から突き出た岩に書かれてあるのに気がつくことでしょう。リュトリにつけば、少し登っていけば三州同盟の誓い地、リュトリの野に着きます。
 また、この国鉄の駅から湖畔の船着き場への途中にあったホテル・ヴァイセス・レースリ(白鳥亭)は、ワーグナーに会うために、ルードヴィッヒ王がはるばるバイエルンからこの地に赴いた際に宿泊したホテルとして有名でしたが、二〇〇五年三月に訪れた時には見つけることができませんでした。時間も遅かったので、見落としたのかも知れません。かつてルードウィヒ王が泊まった部屋に、私たちも王と同じように泊まることができたのですが・・・。
 さて、チューリッヒ音楽院を卒業したシェックは、シュトゥットガルトに赴き、当地の作曲家マックス・レーガーに勧められて、ライプツィッヒの王立音楽院で更に学んでいます。しかし、このドイツでキャリアを始めることなくシェックは、祖国スイスで音楽活動を始めることを選びます。ラフなどの時代なら、ドイツのとどまって活動をすることもあったのですが、世紀が変わって、スイスにおける音楽家もそれなりに仕事として成り立つようになっていたことを物語っています。
 スイスに帰ったシェックは、まずザンクトガレンのオーケストラの指揮をしながら、作曲家としての一歩を刻んでいます。
 この頃、恐らくは一九〇四年頃のことです。シェックはコンスタンツの音楽愛好家に、当時ウンターゼーの湖畔に住んでいた若い作家ヘッセを紹介されます。二人とも将来を嘱望されながらもまだ無名の若者でありました。ヘッセとシェックは即座にお互いの才能を認め合い、親交を結びます。やがて、このサークルにベルン交響楽団の指揮者として名をなすフリッツ・ブルンが加わるのでした。
 一九三六年に、ヘッセがチューリッヒの「新展望」に書いた「オトマール・シェックの思い出から」という文章の中で、彼はシェックを「音楽の世界の門番、宝の番人」であると称し、お互いに訪れた家で、あるいは居酒屋のボロボロのピアノに向かって、モーツァルトの「フィガロの結婚」や「魔笛」、あるいはロッシーニの「セビリアの理髪師」、ヨハン・シュトラウスの「こうもり」といった作品を、オーケストレーションまで示唆しながら、全てのパートを歌ってみせたと書いています。シェックの音楽は、ヘッセを大いに感動させ、その感謝の印にと、ロマンチックなオペラの台本を書いて送ったとヘッセが書いています。しかし、残念ながらシェックはこの台本に作曲することは無かったようです。
 ですが、シェックがヘッセの詩につけた歌曲は多数残されています。例えば、一九二九年に作った「十の歌曲」作品番号四四の歌曲集は傑作として名高いもので、フィッシャー=ディースカウなどが愛唱した作品でした。スイスの名ピアニスト、カール・エンゲルと録音をグラモフォンに残しているのでご存知の方も多いのではないでしょうか。
 もちろんシェックは、アイヒェンドルフやゲーテ、レーナウといったロマン派の詩人たちの詩にも数多く曲を付けています。
 室内楽の伴奏を伴った代表作「エレジー」「ノットゥルノ」、オーケストラの伴奏による「生きしまま葬られ」等の連作歌曲集は、シェックの本領を発揮した作品と言えます。「連作は私の大形式である。連作歌曲だけが声楽における大形式を可能にした」とシェックは語っています。シェックの、四〇〇曲におよぶ歌曲は、質量共にヴォルフ以降の最も偉大なドイツ・リート作家と呼ぶにふさわしいものであります。
 続いて、八曲残された歌劇について。
 一九一一年から一六年にかけて書かれた「エルヴィンとエルミーレ」は、彼の初めてのオペラで、最初の成功を収めた作品です。ゲーテの原作によるその作品は、若いシェックの名をスイスのみならず、ヨーロッパ中に知らしめたのでした。
 続いて書かれたオペラ第二作となる「ヴィーナス」は、見事なオーケストレーションと甘美な響きで大きな成功をおさめました。ヘッセは、当時人気の作品だったこのオペラを見て、その情熱的で官能的な衝動から逃れられないオペラを「真に高貴なものに達していない」と書き残していますが、実はこのあたりに、シェックを理解するキーワードがあると考えられます。
 シェックの音楽の根本には性的なコンプレックスが常に横たわっており、そこから様々なテーマが生まれていると言われることが多いのですが、「ヴィーナス」以降、こうした傾向は更に鮮明となっていき、重厚な衣を纏っていくこととなるのです。
 一九二五年に完成した歌劇「ペンセシレア」は、シェックの頂点とも言える傑作でしょう。トロイアの物語に登場する女傑ペンセシレアを主人公とするこの作品は、いかにもシェックらしいテーマで書かれた作品と申せましょう。そして彼の筆は最高のスコアに結実します。近代的な和声と、ワーグナーばりの大規模なオーケストレーションは、重厚で実に緊張感にあふれた世界を描き出し、今日でも、度々取り上げられるシェックの傑作であります。何種類かの録音もあり、アルブレヒトが指揮をしたザルツブルク音楽祭でのライブ録音が、オルフェオ・レーベルから出ているので、手に入りやすいことでしょう。
 続くバルザックの原作による歌劇「マッシミラ・ドニ」は一九三七年にドレスデンで初演された作品です。前作で、ワーグナーばりの濃密な和声法と重厚な管弦楽法によって大成功をおさめたシェックでしたが、ナチス・ドイツにおいて賞賛を得、それに次第にとりこまれていく時代の作品でもあります。
 シェック自身はナチスに対しては決して共感を抱いていなかったと言われますが、歌劇や歌曲のことごとくがドイツ語で書かれたシェックの音楽は、ナチスにとってどうしても自分たちの側に取り込んでしまいたいものでありました。すでに、ヒンデミット事件に顕されるように、多少なりともアバンギャルドの作曲家たちは「退廃芸術」の烙印をおされ、ことごとく亡命させられるか殺されるかしていました。だから、それに代わる「アレマン人の作曲家」がナチスには必要だったのです。
 数々のシェックの作品がドイツで歌われ、演奏され、その功績により色々な賞をシェックは受けています。大戦末期に書かれた最後の歌劇「デュランテ城」は大戦中でありながらも、ベルリン国立歌劇場でシェック自身の監修によって録音が行われていますが、この一事だけでも、外国人でありながらもシェックがいかに大切に扱われていたかがうかがわれます。アイヒェンドルフの小説を原作として、フランス革命の時代の、貴族と民衆との対立を軸に展開するこの作品は、シェックの最後の歌劇となりました。恐らくは、この作品が上演されていた頃が、シェックの成功の頂点であったのではないでしょうか。しかし戦後になって、状況は一変します。

 破壊と殺戮の時代が終わり、平和がやってくると、それまで押さえつけられていた新しい世代が跳梁し、世界は若いエネルギーによる大きな変化を体験することとなります。音楽界ではブーレーズやシュトックハウゼン、メシアンなどが活動を本格化させていく中、スイスではリーバーマンなどの前衛的・実験的な作風の作曲家が高い評価を受けるようになります。
 しかし、こうした変化の中で、シェックの音楽は時代遅れと受け取られるようになり、急速に居場所を失っていったのでした。そして、前衛音楽に対抗するかのようにシェックは、ロマン主義的傾向を強めていきます。現代的な手法と折り合いをつけようと努力した若き日の成果を精算し、あえてロマン主義の生き残りとして孤高を守ろうとしているようでもあります。
 晩年のシェックの作品を聞くと、円熟の極みにありながらも不思議な孤独感に彩られた世界が現れているように私には思われます。
 スイス・イェックリン・レーベルではシェックの歌曲全集を出すなど、活発なその音楽の普及が行われていますが、それらのシリーズの中には、ヘッセを驚嘆させたというシェック自身のピアノの演奏を聞くことができます。当時のチューリッヒ歌劇場の歌手たちと、自作の歌曲を録音しているのですが、その中には、スイス東部の美しい町ダヴォス出身の名テノール、エルンスト・ヘフリガーなどの名前を見いだすことができます。
 また、フィッシャー=ディースカウなどシェックの歌曲を愛するリート歌手の努力によって、シェックの歌曲は歌い継がれ、今日、オアフ・ベーアやシェーファーといった現代の歌手たちが積極的に取り上げていることは、心強い限りです。

 ところで、歌曲だけでシューベルトを語ることができないように、声楽作品だけでシェックを語ることはできません。器楽作品の中にもシェックらしい傑作がいくつもありますが、その中からヴァイオリン協奏曲について述べてみましょう。
 シュテフィ・ゲイヤーというハンガリー生まれで、チューリッヒで亡くなった今世紀前半の女流ヴァイオリニストは、バルトークがヴァイオリン協奏曲第一番を献呈したことでも知られている。二十世紀前半に活躍したスイスの大作曲家ブルクハルトも、彼女にヴァイオリン協奏曲を捧げており、彼女との関わりの中で出来た音楽は、他にもいくつか残されています。
 一九一〇年に作られた、シェックのヴァイオリン協奏曲「幻想曲風」は、シェックの彼女への片思いの産物として生まれました。献呈はもちろんシュテフィ・ゲイヤー。当時、シェックは彼女に片思いであったようです。彼女に会うためにはるばるハンガリーまで行った作曲家は、そこで彼女に会えず(演奏旅行中だったそうだが)すごすごとスイスに戻り、結局は振られてしまいます。
 相当屈折していたのか、それとも彼女が初演を、何らかの理由で担当できなかったのか、定かではありませんが、献呈をうけたゲイヤーでなく、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団のコンサート・マスターのウィレム・ド・ベールが初演のソリストを務めています。その時の指揮者は重鎮フォルクマール・アンドレーエ。オーケストラは当然、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団でありました。
 この作品のスコアのタイトルの上には「シュテフィ・ゲイヤーのために」と確かに記されており、作曲家の悲しい思い出を刻んでいるのです。当のゲイヤーがソロを弾いて、シェックの友人でもあった名指揮者フォルクマール・アンドレーエとチューリッヒ・トーンハレ管弦楽団による一九四七年二月六日のライブ録音が、CDに復刻されていますが、その録音で聞くゲイヤーは、やや線は細いものの大変美しい演奏を繰り広げています。すでに六〇才になんなんとする頃の演奏でありますが、音程は正確で、ボウイングも実にスムーズなものでした。
 叙情的な第一楽章。ヴァイオリンのアルペジオがためらいがちに始まるとすぐ、聞き手はシェックの濃密なメランコリーの世界に引き込まれてしまいます。和声的な色彩の艶やかさもこの曲の大きな特徴と言えるでしょう。転調の妙とともに、ロマン派後期の爛熟した響きの最後の輝きを放っていると言えるでしょう。
 第二楽章はグラーヴェで書かれ、響きの多彩さは技巧の限りを尽くし、これを聞いていると、ヘッセの小説「春の嵐」はシェックがモデルかも? と信じてしまいそうです。オーケストラの響きの中にシェックが求めていた、深い憂愁が余すことなく表現されているからです。
 実際、交響的な充実感が要求されるオーケストラパートはもとより、ソロの名技性を目的とした作品とは異なる近代的な協奏作品としてこの曲は書かれています。第二楽章からア・タッカで続く終楽章のアレグロ・コン・スピリートは拍子抜けするほど楽天的に始まるのですが、この快活さが次第に憂愁に結実し、シェックの屈折した深い世界へと、私たちはいつの間にか連れて行かれているという具合になっているのです。

 この名曲を捧げられたゲイヤーは一九五六年一二月一一日にチューリッヒで亡くなっています。彼女に深い思いを捧げた作曲家、オトマール・シェックは彼女に遅れること四ヶ月、一九五七年三月八日に彼女と同じチューリッヒで七十一年のその偉大な生涯を終えています。
by Schweizer_Musik | 2009-02-25 11:20 | CD試聴記
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