クーゼによるヴェーゼンドンクの歌…名唱だ!!
作曲者 : WAGNER, Richard 1813-1883 独
曲名  : ヴェーゼンドンクの5つの歌 (モットル編曲)
演奏者 : ハンネ=ローレ・クーゼ(sop), ヴァーツラフ・ノイマン指揮 ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
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この曲集は、リヒャルト・シュトラウスの最後の四つの歌とともに、ドイツの二人の誇大妄想的大作曲家(失礼!)の残した珠玉の名作と思う。
この曲を書いたスイスのチューリッヒの家は今は残されていないものの、ヴェーゼンドンク邸は博物館として残されている。
これについて書いた私の未発表の一文を次に長々と引用することにしよう。
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写真はチューリッヒの起源ともなったリンデンホーフから見たリマト川沿いの町並み。遠くに見える立派な建物が、何人ものノーベル賞受賞者を輩出したチューリッヒ大学。正面の教会の塔はチューリッヒで一番高い建物で、その隣の建物には音楽書専門の図書館がある。チューリッヒ市民なら誰でも利用可である。
こんなうらやましい環境で音楽ができる人たちもいるのだ。我が国もがんばってほしいものだけれど…。右端に中央図書館が写っている。
なだらかな丘陵はチューリッヒャーベルクと呼ばれるが、ここはブラームスが住んで、毎日散策したところ。川沿いに右手に歩いていくと、チューリッヒ音楽院がある…。

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(九)ヴェーゼンドンク夫人とワーグナー

 一八四八年二月のパリでの革命騒ぎは、ヨーロッパ中に飛び火し、三月にはドイツでも変革の波が押し寄せて来ます。ドイツ国民会議によるドイツ統一の試みに対し、翌一八四九年に市民がバリケードを作って蜂起したのです。当時ドレスデンに住んでいたシューマン夫妻もまたこの革命騒ぎに危うく巻き込まれるところでしたが、妻クララの機転で辛くも危機を逃れたのでした。
 当時、このドレスデンにもう一人、大音楽家が住んでいました。リヒャルト・ワーグナーです。彼は、この革命に積極的に参加したのですが、蜂起が失敗に終わり、彼には逮捕状が出され「お尋ね者」となってしまいます。
 ドレスデンを逃れたワーグナーは、以前から彼を支援していたワイマールのリストのもとにひとまず身を隠します。この頃のリストはワイマールの宮廷楽長として様々な歌劇の上演を行うなど、ピアニスト、作曲家としてだけでなく幅広い演奏活動に身を投じていました。
 ワーグナーのタンホイザーもここの歌劇場のレパートリーとして上演されており、リストはワーグナーを高く評価していたのでした。手紙のやりとりも以前から頻繁に行われていたようで、ワーグナーからリストへの借金の申し込みもそうしたやりとりに含まれていました。リストの娘がワーグナーに妻となるのはこの後二十年近くたってからの話ですから、このワイマール滞在はそのこととは全く関係がありません。念のため。
 しかし、ワイマールも決して安全とは言えず、リストが資金援助する形でワーグナーはスイスの大都市、チューリッヒへと逃げ延びたのでした。
 もともと目的地はスイスではなくパリでした。パリで出来たばかりの新作「ローエングリン」で一旗あげようと考えていたのです。ですからワーグナーはチューリッヒに着いてまもなく、妻のミンナをチューリッヒに残して、歌劇「ローエングリン」を持ってフランスのパリへと出かけていきます。ワーグナーはパリでの勝利を信じて自信満々でしたが、当時のパリは作曲家マイアベーアの全盛の時。彼は今日ではほとんど顧みられることのない作曲家ではありますが、当時のパリの音楽界を牛耳っていた大物でした。
 そしてここにワーグナーがやって来ます。マイアベーアは音楽家、聴衆への気配りで権謀術数の渦巻くパリの音楽界に君臨していたのですが、そんなことをワーグナーに求めても無駄な話です。自信たっぷりのワーグナーは、パリの人々こそ自分にひれ伏すべきだと振る舞い、パリの人々の反発を買ってしまいます。更に、パリでのワーグナーの支援者だったロッツォ夫人ともトラブルの末、決裂してしまい、失意の中、ワーグナーはチューリッヒにいる妻ミンナの元に帰ったのです。
 
 このパリでの失敗が余程くやしかったのか、ワーグナーは自身の芸術の信条などを、この時期に集中して書き記しています。なかでも彼の歌劇に対する理念をまとめた「オペラとドラマ」は、ワーグナー研究においても重要な文献であると言われています。そして、ワーグナーの意志はどうだったかはわかりませんが、彼はスイスからドイツに帰ることも、パリに向かうことも出来ないままに十年近くの日々をここに送ることとなったのです。
 一八五一年の音楽シーズンに、ワーグナーは三回にわたる予約演奏会をチューリッヒで行います。自作とかねてより尊敬していたベートーヴェンの作品をプログラムに据えたもので、オーケストラは歌劇場のオーケストラでありました。プログラムの中では特に「タンホイザー」序曲が大きな反響を巻き起こし、女性たちの熱狂ぶりは大変なものであったと言われています。c0042908_13121434.jpg写真は現在のチューリッヒ歌劇場の正面の姿。
 一八五三年には楽劇「ニーベルングの指輪」の劇詩が完成し、二月、チューリッヒのホテル・オウ・ラックの大広間で、ワーグナー自身がこの劇詩を朗読して聞かせています。そして郊外の瀟洒なアパートであるエッシャー・ハウスの三階で作曲に入ったのでした。
 エッシャー・ハウスの壁の小さな碑文には「一八五三年から一八五七年の間ここにワーグナーが住んでいた」と書かれています。今も住んでおられる方がいますので(博物館ではないので)やたらのぞき込んで行ったりするのは控えましょう。しかし中庭の柳の木など、今もワーグナーが住んでいた当時の面影を残した風情は十分味わえます。
 ちなみに、このアパルトマンの別の部屋にはあの「アルプスの少女ハイジ」の作者、ヨハンナ・シュピーリが一八八六年から亡くなるまでの十五年の間、住んでいたそうです。

 さて、ワーグナーに心酔するチューリッヒ市民は次第に増えて行きます。その中に富裕なチューリッヒの銀行家オットー・ヴェーゼンドンクとその妻マチルデ・ヴェーゼンドンクがいました。
 夫妻はワーグナーの音楽に深く心打たれ、ヴェーゼンドンクは、三夜にわたる全ワーグナー作品による音楽会を後援したのでした。当時、妻のマチルデは二十四歳。深くワーグナーに心酔した彼女は、何かにつけてエッシャー・ハウスのワーグナー宅を訪れるようになります。彼女への思いと恩人への義理との間で、悩んだワーグナーはショッペンハウエルに傾倒し、「トリスタンとイゾルテ」の構想が芽生えていきます。

 一八五七年四月。この年、オットー・ヴェーゼンドンク氏の新居がチューリッヒ郊外の緑の丘リートベルクに完成します。兼ねてからワーグナーが静かに作曲に打ち込める環境を欲しがっているという話を聞かされていたオットーは、ワーグナーが作曲に打ち込めるようにと、新居の隣の屋敷を提供しようと提案し、ワーグナーが引っ越してくることとなります。
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写真はヴェーゼンドンク邸の全景。広大な敷地を有し、現在は公園として開放されています。
 一八五七年六月二七日に、チューリッヒのヴェーゼンドング家の隣の家で仕事を開始したワーグナーは、作曲中だった大作「ニーベルングの指輪」四部作の「ジークフリート」を中断して、「トリスタンとイゾルテ」にとりかかります。一八五七年の九月には、台本が完成。九月十九日の夜、彼女のその台本を読んで聞かせ、心の中に秘められた思いをうち明けたのでありました。そしてすぐに作曲を開始。まず前奏曲を作曲し、一幕はその年の暮れに出来上がりました。

 並行して彼は、マチルデ夫人から贈られた五つの詩に作曲しています。「ヴェーゼンドンクの五つの歌」として知られる歌曲集は、楽劇を聞くがごとき充実感があります。マチルデに贈った時は、一曲をのぞいてピアノ伴奏の形でしたが、後に全曲を、弟子のモットルがオーケストレーションを施し、管弦楽の伴奏で聞かれるようになりました。よく聞くと、この曲のあちらこちらに、「トリスタンとイゾルテ」のフレーズが隠れていることに気がつきます。第三曲の「温室」は「トリスタンとイゾルテ」の第三幕の場面でオーケストラがうめき声のように執拗に繰り返すフレーズが伴奏に使われていますし、第五曲の「夢」にはトリスタンとイゾルテ」の第二幕、愛の場面でのフレーズの反映が聞かれます。この作品は、大作楽劇「トリスタンとイゾルテ」の子供ではありますが、決して未熟な子どもではなく、独自の世界を表現している名曲なのです。c0042908_12595413.jpg右の写真はその舞台となったヴェーゼンドンク邸の裏にあるワーグナーが住んだ場所に現在建っている建物。現在はリトベルク博物館の職員の社宅?として使用されているそうです。
 さて、二人の恋愛は翌年の夏にはうわさとなり、厳格なプロテスタントの町チューリッヒでスキャンダルとなってしまいます。オットーもワーグナーの妻ミンナもこのダブル・不倫に気付き始め、ミンナは大立ち回りの末、ドレスデンに移り、ワーグナーはヴェネチアに逃れることとなります。この三角関係のもつれは尾を引き、ワーグナーは、なかなかチューリッヒに帰れないまま、ヴェネチアでまたしても政治問題に口を出し、オーストリア皇室とイタリア自由解放の戦いの間に入り込んだあげく、ルツェルンへと逃れたのでした。
 そして、一八五九年の三月二十九日より九月七日まで、ルツェルンのホテル・シュヴァイツァーホーフ(今も営業してます)に身を寄せたのであります。そしてワーグナーは、ここで楽劇「トリスタンとイゾルテ」を完成。八月はじめ、出版社に楽譜は送られたのでした。
 この年、ルツェルンのワーグナーの所を訪ねたヴェーゼンドンク夫妻にワーグナーは出来上がった、「トリスタンとイゾルテ」をピアノで弾いて聞かせたと記録には残っています。しかし、マチルデとワーグナーの恋愛はすでに終わっていたようです。
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写真は音楽祭が開催される新しいホールの三階ロビーから見た対岸の風景で、正面にワーグナーがトリスタンを書いたホテル・シュヴァイツァーホーフが見えています)
c0042908_133814.jpg リートベルクのヴェーゼンドング邸は、今ではヨーロッパ以外の工芸品などを展示する博物館となって残っています。写真左はその旧ヴェーゼンドンク邸、現在はリトベルク博物館の内部の展示の様子です。アジアなどの民族的な工芸品などを収集し展示していて、かなりの量ですから、見て回るだけでもちょっとした時間がかかります。
c0042908_1352773.jpgそれよりも、窓からの風景や内部の装飾の素晴らしさに、ヴェーゼンドンクのお金持ちのレベルがどれだけのものだったか知れると思います。
写真左の階段のところはちょっとしたホールになっていて、夏などはサロン・コンサートなども開かれるそうで、津田さんもここで演奏したことがあるとかうかがったことがあります。
裏手にはワーグナーが住んだという家もありますが、改築されていて、ワーグナーの頃のものとは異なる建物となっているようです。しかし、付近の林や、チューリッヒ湖からチューリッヒャー・ベルクの丘に続く眺めは、おそらくはワーグナーが住んでいた頃とあまり変わっていないのではないでしょうか。
 ぜひ一度、チューリッヒの郊外線の列車に揺られて出かけてみられてはいかがでしょう。

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(チューリッヒの起源となったローマの砦跡のリンデンホーフの夕景)
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クーゼの歌は、実に美しい!!しみじみとした歌いぶりで高音までムラのない発声で、音程もきれいに決まっていて危なげがない。オケは全盛期と言うべきかわからないが、ヴァーツラフ・ノイマン指揮のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団である。ノイマンがこんなに声楽との合わせ物が上手いとは思わなかった。「ルサルカ」などの名演からも当然と言えば当然なのかも知れないが、いや素晴らしい歌との共演ぶりである。
1曲目の「天使」から魅了されてしまい、もう5回目のアンコール(こうなるとアンコールとは言わないのだろうな…)をお願いした。
第3曲の「温室」でのトリスタンの第3幕のような動機が出てくるのは、編曲者のフェリックス・モットルも意識したはずで、まさにあの音響が鳴り響く。そしてゲヴァントハウス管の響きはいかにもオペラという印象で、ドラマチックに盛り上がる。
私が好きなのは、第5曲の「夢」なのだが、これもトリスタンの第2幕に使われた動機が現れるが、小さな「トリスタンとイゾルデ」がこの5曲であり、エッセンスのように思われる。
そうしたことをクーゼの歌は痛感させてくれる。まさに名唱であり、名演だ。東独を中心に活動した演奏家だそうで、さらに色々と聞いてみたいと思うが、この録音はまさに素晴らしいアンソロジーとなっている。
ナクソスに入っておられる方は、ぜひ一度いかが?
by Schweizer_Musik | 2009-03-25 11:33 | ナクソスのHPで聞いた録音
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