ショスタコーヴィチの交響曲第9番をフリッチャイの指揮で聞く
作曲者 : SHOSTAKOVICH, Dmitry 1906-1975 露
曲名  : 交響曲 第9番 変ホ長調 Op.70 (1945)
演奏者 : フェレンツ・フリッチャイ指揮 ベルリンRIAS交響楽団
CD番号 : EMI/7243 5 75109 2



明日と水曜に補講があり、その次の日から通常の授業がはじまる。しばらくあれこれ調べごとをしたり、作曲したりの時間が続いたけれど、これから学生相手の時間がまた始まる。こう書くと嫌がっているように受け取る向きもあるかも知れないが、私はこれもまた楽しみなのである。若い人たちの間にいることで、自分も新しいことに挑戦するパワーがもらえるからである。

先日書いたホルンと管弦楽のためのシンフォニエッタが、ショスタコーヴィチの第9に似ていると言われて、そんなことはないと思っていたが、聞いてみて、ここまで暗くはないと自分でも確信が持てた。
曰く付きの「第九」である。ベートーヴェンの第9をしのぐような大作を「勝手に」期待したソ連当局の逆鱗に触れるほど軽い内容(そんなことはないのだけれど…)で、ショスタコーヴィチの交響曲の中でも第1番とともに異彩を放つ作品である。
大体、我が国の困った隣人たちもおしなべて全体主義の国で、建前が何事にも優先され、国のメンツが追い求められる。そんなメンツの期待を39才のショスタコーヴィチに押し付ける共産主義者というか、スターリンの傲慢さは、社会の矛盾そのもののように思う。
こうした芸術を自らの権力誇示のために使うのは、どうも全体主義の国の得意技らしく、ナチスでもそうだった…。我が国の隣人の内の小さな方は、それどころではなさそうであるが、自由な表現、芸術活動が著しく制限されていることは違いない。
その制限の中で、ショスタコーヴィチが孤軍奮闘、徹底抗戦している様がこの曲のように私には考えられるのだが、違っているだろうか?
終楽章の馬鹿騒ぎは、いかにも茶化しているなぁなどと思う。第1番と似て非なる点はこのアイロニーの苦さが曲の底流をなしているということだと思う。第1番ではずっと素直に自らの趣くままに幸福な音楽が出来上がっていた。いや決して幸福と言い切れないけれど、でも第9では…。
学生だった頃に書き上げた第1番から、命の危険をも乗り越え、なんとかロスラヴェッツのような目に遭わず、山あり谷ありの音楽人生であっただろうが、うまく生きてきた彼は、私のような暢気な人生などの何倍、何十倍の経験を経てこの音楽に至っているのだ。
このスタイルでの書法は、プロコフィエフなどと共通するところではあるが、より苦い味わいが強い。
それをフリッチャイが、実に音楽的にやっている。私はフリッチャイのショスタコーヴィチはこれしか知らないのだが、他にもおっているのだろうか。素晴らしい出来映えで、録音も1954年にしては水準以上の出来映えで、モノラルながら実に聞きやすい。
暗いショスタコーヴィチなら、14番あたりということになろうが、それは冬枯れの季節に陰鬱な気分で聞くと更に効果的!!だけれど、それはもう数ヶ月待ってからにしよう。

写真はエンゲルベルクの牧歌的風景。良いところでしょ?
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by Schweizer_Musik | 2010-10-03 20:24 | CD試聴記
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