無調への道、1900年代から1910年代の前衛
二十世紀の扉を開いた作曲家は誰か?この空しい質問に答える必要はないだろうが、色々と言われてきている。ワーグナーのトリスタンとイゾルデの前奏曲でドッペル・ドミナントの第五音下方変異が調性崩壊のきっかけだったとは、いろんな本に書かれてあるが、百歩譲ってこの意見を採り入れたとしても、この調性崩壊のきざしが劇音楽の分野で起こったことは象徴的である。
機能感を失った和音の連結は、音楽(主題)の持続的な発展・展開には寄与しなくとも、情景描写にはうってつけだった。ローエングリンの第1幕への前奏曲やリングの中の"Waldesrauschen"(森のささやき)などを聞けばよくわかる。グリーグのペール・ギュントの「朝」でも良い。
和声の機能はこじつけられ、遠隔調への連結が好まれるようになり、属音が解決されないままに放置されるに至って、新しい考えがそれにとって代わろうとしていく。それがモードであった。
シェーンベルクにとって、調性を捨て去り、全てを破壊することが目的ではなかったはずだ。ミヨーの多調性音楽にしても、シェーンベルクのドデカフォニーにしても古典の音楽を常にその根拠に求められていた。曰くベートーヴェンはすでにこうした未来の響きを予告していた。私はそれを展開してみせたにすぎないと。例えばモーツァルトの交響曲第40番の終楽章。展開部への移行部で主題の変形がフォルテのユニゾンで奏でられるが、それが同じ音の繰り返しのない12音であるとか・・・。
そうした話は、私に言わせればこじつけであり、詭弁に等しいが、この根本には主題の背景の統一というものが意図されていたことだけは間違いがない。

実は、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンやシューベルト、ショパンなど、ほとんど全ての大作曲家たちの音楽の、その構成原理は基本的に同じものである。つまり主題の音列、あるいはリズムに同じ素材を用いて、性格の異なるテーマ、メロディーの背景を統一することで、全体のまとまりを得るように作られているのだ。バッハの平均率クラヴィーア曲集の前奏曲とフーガもそうした緊密な関連の上に出来上がったものであり、ベートーヴェンもモーツァルトもショパンも皆これを学んでいる。
これを、ドデカフォニーはシステム的に行ってしまうのだから、どんなに書いても全体は統一され、まとまるはずなのだ。ここにドデカフォニーの可能性があるというのがこれを担いでいた人達の期待であった。

話をもとへ戻そう。調性が崩壊していく過程は、新ウィーン楽派だけではなかった。マーラーも第10番の交響曲でほとんどクラスターといった響きを書いている。後半、第一主題が帰ってきた後、その前はごく普通の和音が重なっていくフレーズが、クラスターのような音塊となって積み重なっていくところは、異界をのぞき込んだ瞬間のような、ゾッとするような感覚を受ける。リッカルド・シャイーの演奏で聞くとこの衝撃が薄れ、どうしようもないほどきれい事に聞こえてしまう。マーラーはあんな音楽ではない!私はロジェストヴェンスキーの指揮で初めて聞いて以来、この演奏以外では満足できないようだ。あれは、ロジェストヴェンスキーの最高の演奏だった。
マーラーの命がもう少し長くあれば、この作品も完成されていたはずだ。そうしたらどんな音楽になったのだろう。恐ろしいような・・・。だからクックをはじめ多くの復元版が作られたのだろう。クック版は優れた復元版だと思うが、(これを評価できるほど、私はマーラーのこの作品のことに詳しくない)作曲家がトルソとして残したものは、トルソとして味わうのがよいのではないだろうか。他者が勝手に手を加えることは、同じ作曲に携わる者としては抵抗感が禁じ得ない。こうした作品を書くパイオニアと言うべき人達がいて、アンタイルやヴァレーズといった人々が活躍する素地が出来上がっていったのだろうが・・・。

フランスでの無調への試みは、ドビュッシーが映像第2集の「 葉ずえを渡る鐘の音」で全音音階の試みを行ったあたりから始まった。1909年から10年にかけての作曲された前奏曲集第一巻の「帆」でもドビュッシーは全音音階を使用している。この作品ではドビュッシーは一つの全音音階による部分に対して中間部で変ニ長調の部分を対置することで全音音階による機能感の欠如とそこからの発展していく力の欠如を補うという手を使っている。
全音音階は、オクターブを全て全音にするため、導音を無くしてしまう音階である。そしてこのことは和声の機能感からの解放を意味する。聞いていていかにもエレガントな調性との別れをドビュッシーは選んだものだ。
この傾向は1904年に書かれた「喜びの島」あたりで半音階への偏愛が聞かれ、すでにその予告が行われていたが、これらの作品で、決定的となった。そして前奏曲の第2巻で調性感は一層希薄となり、続く「練習曲集」で更に推し進められる。
しかし、ドビュッシーはあまりに急進的で不協和な響きに対しては許せなかったのではないだろうか。彼のエレガントな耳は明らかにそうした「不作法な音」に対して本能的な拒絶を命じていたと思われる。
ピアノ連弾作品である「白と黒で」なども調性感は希薄であっても、不協和は徹底的に排除し、美しい倍音を構成する響きを目指して作られている。
最期の年1915年に書かれた「フルートとヴィオラ,ハーブのためのソナタ」はその美しい響きの向こうに新しい時代の響きを聞くことができる名作だ。しかし、調性から彼は決別することはついぞ無かった。無調にかわってドビュッシーは古い教会旋法に近づいて行ったのだった。

こうした無調への試みは、アメリカにおいてずっと大胆に行われた。アイヴスの諸作を思い浮かべてもらえればよい。典型的な日曜作曲家であった彼は「ドレミのために飢えるのは嫌だ」と生業を別に持ち、休みに作曲をするというスタイルを続けた。だから、「売れなくては」という強迫観念がないためか(笑)作りが大胆なところが特徴と言えよう。例えばアイヴスのヴァイオリン・ソナタ第1番は1903年から10年にかけて書かれたが、調性に近い響きを持つことは持っているが、それを大切にしようなどとは微塵も考えていない。
1906年に書かれた「宵闇のセントラル・パーク」は驚異的である。静けさと宵闇の明るさを管弦楽でこれほど見事に表現した作曲家がこの作曲家以前にいただろうか。遠くから響いてくるクラクションの音、全体がピアニシモであることなど、極めてユニークな作品である。これが1906年の作品だとは、にわかに信じられない。

この稿続く・・・
by Schweizer_Musik | 2005-04-26 23:51 | 授業のための覚え書き
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