シューベルトの弦楽五重奏曲をカザルス他のプラード音楽祭ライブで聞く
作曲者 : SCHUBERT, Franz Peter 1797-1828 オーストリア
曲名  : 弦楽五重奏曲 ハ長調 Op.163 D.956 (1828)
演奏者 : シャーンドル・ヴェーグ(vn), シャーンドル・ツェルディ(vn), ゲオルグ・ヤンツェル(va), パブロ・パウ・カザルス(vc), パウル・サボ(vc)
CD番号 : PHILIPS/25CD-923



この数日、ショパンの編曲でピアノのパートを写すだけの作業に入ると、もっぱらこのCDを聞きながら作業をしていた。全くはかどらないけれど(笑)、おかげで退屈な作業が幸せな時間となった。
ああ、なんて良い音楽なのだろう。どうしてシューベルトはこんな音楽が書けたのだろう。1828年。ベートーヴェンが亡くなった翌年。シューベルトのあまりに早すぎる晩年にたどり着いたものは、部分的には20世紀の音楽を予告するかのような先取りした響きを持っている。しかし、それでいてどこまでも伸びやかな歌が、決して途切れることなく続いていくのだ。
ハイドンが亡くなってまだ20年も経っていないというのに、この音楽は全く違う技法と響き、伴奏の用法などを持っている。どうやって思いついたのだろう。聞きながら、シューベルトの凄さを痛切に思った。
この名作を演奏する面々はカザルスを慕って集まった先鋭揃いである。そしてこの演奏を生きたものにしているのはやはりカザルスその人の力によるものであろう。
これよりも上手い演奏なら五万とあるだろう。しかし、これほど感動させる演奏は、残念ながら滅多にない…。音楽をする者の志の差とでも言うのだろうか。この演奏は、あまりにも深く、そして広大で、私ごときが言葉で書き表すことのできる限度を遙かに超えている。
超がつく名曲の、超がつく名演。これを聞かずしてシューベルトを語る無かれである。
第2楽章を聞きながら、作業の手が何度止まってしまったか。上手いだけの演奏ではただの退屈な音楽になる。ここには巨人たちの深遠な語らいがある。この段階では、もうアンサンブルがどうのとか言うのも違和感を感じてしまう。これが本物の音楽なのだと、普段自分がしている程度のものとはあまりに違いすぎて、もう比べる気にもならない。
実は、この大阪に来て、最初にこの曲のアルバン・ベルク四重奏団とハインリッヒ・シフによる素晴らしい演奏を聞いている。その後この演奏を聞いて、あまりの違いにただただ驚いてしまった次第である。アルバン・ベルク四重奏団の演奏が悪いわけではない。あれは実に立派な演奏だった。だが、カザルスたちの演奏は次元が違うのだ。そう言うしかない。
第1楽章(これだけで15分あまりもある!!)を、そして第2楽章(13分もある!!信じられない!)を全く退屈なんてすることなく、BGM的に聞いていても、いつのまにか世界が変わってしまう魔法をこの数日、何度体験したことだろう。スケルツォのトリオが死の幻想のように深き淵を行くのも恐ろしいところ。これをこんなに実感させる演奏も珍しいが、スケルツォの快活な音楽の背景にある死の幻想。これぞシューベルトの典型であろう。
終楽章のロシア民謡のような始まり方は意表をついているけれど、どこか最後のピアノ・ソナタの終楽章と共通の世界を持っているように思う。これをチェロが二本という低音に偏ったバランスでやるのだから、軽妙な楽想が重厚なサウンドで色づけされることになり、この音楽の独特の世界が生まれるという次第なのだ。だから、二本のチェロは大切で、この曲の演奏では決定的な意味を持つとも言えよう。

だから、カザルスがそのパートにいることで、これは奇跡のような録音となったのである。実演で聞くことの出来た幸せな人たちが羨ましいが、これを録音として残してくれたスタッフにも感謝。人類の宝だと思う。
2011年の大阪での夏休みは、この曲、この演奏と共にずっと思い出すに違いない。何度も聞いた演奏であったが、この夏、深くこの曲と演奏を体験し、私は素晴らしい時間を持つことが出来た。音楽をやっていて、本当に良かった。今はそう思っている。(7月30日記)

写真はまだまだ続くよどこまでも…ということでベルニナ線の旅から。アルプ・グリュムの駅を出てしばらくして現れる峠の湖水を撮ったもの。
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by schweizer_musik | 2011-08-14 21:28 | CD試聴記
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