宝塚線の事故について思う
大阪に帰っていたこともあり、宝塚線の列車事故は地方ニュースでも見ていた。マスコミはJRバッシングに移っているようだ。企業体質を問うというのはもちろん当然のなりゆきだろう。しかし、そんなことをやっても事故は防げない。運転手の資質を最初問うような報道が多くあったが、当の運転手が死亡しているとわかり、その方向には進まなかった。死んだ者を追求しても自己責任は問えないと判断したようだ。

日本では常に「責任者出てこい」式のやり方で、「ちゃんとやっていれば事故は起きなかった」式の責任追及をして終わる。この事故で社長が罰せられてもどうなるものでもない。大切なのは同じ過ちを起こさないという姿勢だ。もちろん被害者と当事者であるJRの間には民事的な問題が横たわっている。それはそれに関わる人達の問題であり、より良くそれが解決されるよう、社会は見守るという姿勢でありたいし、被害者となった人たちとそれに関わる人達の心の傷が一日も早く癒され、安らかで平安な日々が戻ることを心から待ち望む。
しかし、それは事故を再発させないということとは別物である。

人間はミスをおかす生き物である。それを忘れてはいけない。ミスを責める姿勢が今回の事故を生み出したということも、少しずつ見えてきている。ミスをおかす生き物にミスのない生き方を求めること自体が無理難題なのだ。そしてここに事故を引き起こす体質が生まれる。
航空機事故の場合、パイロットの資質を問うばかりであれば、今日のような安全な乗り物は生まれなかっただろう。先日の羽田での管制ミスも、そうしたことが起こることを想定した仕組みを作っておかなくてはならなかったのに、それが出来ていなかった、言い換えれば「ミスを犯す人間」という生き物にミスを犯させない仕組みが出来ていなかったということである。
ヒューマン・エラーが起っても事故につながらない仕組みをどう作るかこそ大切で、その為には責任をあえて問わないほどの決意が社会にはいるのではないか。責任を問われて地位を追われるからこそ、情報を隠し、事故の再発を防止できなかったとしたら、我々は今回の悲劇から何も学んでいないことになる。幸いにして事故に繋がらなかった羽田の管制ミスもまた、厳しく学ぶ必要がある。(残念なことにこちらを熱心に報道する姿勢は多くのマスコミに欠けているのは、全く情けない話だ。これこそ日本のマスコミが堕落している証左である!)

ミスをいち早く報告すれば罰せられないという姿勢が出来ていないところに、JRの深い問題がある。勤務評定に響くとそれを「○にする(無かったひとにする)」というようなことが、この宝塚線でも行われていたことは早くから報じられていた。日勤教育なる懲罰でミスをさせない「教育(見せしめ)」ではミスは防げない。逆にミスを増やすだけなのだ。
今まで運転手などを処罰されてばかりで、こうした事故で企業の責任か問われたことは無い(ホテル・ニュージャパンは別だが)。日本の構造改革はここからではどうですか、小泉さん?
by Schweizer_Musik | 2005-05-07 08:24 | 日々の出来事
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