音楽挺身隊のことなど考えたこと
音楽は政治と無関係なのかどうか、難しいことだ。
このちょっと前に、山田耕筰の音楽を聞いてそのCDのレビューを書いたことで、いくつかの反応があり、第二次世界大戦の時の我が国の音楽挺身隊のことなどが出てきて、ふとフルトヴェングラーのことなど思い出してしまった。
フルトヴェングラーはナチス・ドイツにとどまったがために、戦後ナチスよばわりされてしまった。戦犯として彼を裁くというのは、あまりに無理がある。戦争中、その国にいて仕事をした人間が、戦勝国に味方しなかったと言って非難するのは、ただ戦勝国のエゴイズムではないか?
大東亜共栄圏を夢見るように、政府が宣伝し、多くの人々が「遅れた」アジア人たちを指導するために、大東亜共栄圏を建設するためにアジア各地に出かけていった。学校の先生として、会社を設立するために・・・。それがその国の人々を蹂躙することになっていたとは、おそらく行った人達は誰も気付いていなかった。
いや、気付いていても、それを指摘することは地位を投げ出し、「非国民」として家族、親類にまで非難が及ぶことを覚悟して行わなくてはならなかった。そしてそれをしなかったと言って今日非難することができるだろうか。
ではどうして他国へ亡命しなかったのかと言う人もいる。亡命という手段を自分の身に置き換えて考えれば、そのことの重さがどれほどのものかわかるのではないだろうか。
戦争をしていた人は軍人だから、その軍人が悪いのだと、単純に非難をするのは更に無理があるのも当然だと思う。

先年、私のクラスのある学生が、フルトヴェングラーをナチスだと非難したことがあった。はっきり言って今時の若い学生が、このような誤った知識をどこから仕入れたのかわからず、私はショックを受けた。アメリカなどの行った一方的なプロパガンダが今時信じている者がいようとは、想像すらできないが、こうした幼稚な理解が未だにあることを思えば、戦犯というものが一体どういうものか、冷静に考えてみる必要があるようだ。

私は現在進行形で見ているわけではないが、内容だけはよく知っているテレビのドラマで「私は貝になりたい」(確か映画にもなったし、所ジョージのリメイクもあったとか聞くが私は見ていない)のような物語から学ぶ必要が、ここにもあるのかも知れないと思う。
少なくとも、音楽家は政治家から利用されている。その点で、山田耕筰はノーテンキにそうだったのかも知れない。そこに苦悩しつつ、ユダヤ人の仲間を命がけで救っていったフルトヴェングラーと戦後追放されて、失意の内に亡くなったウィレム・メンゲルベルクの悲劇と、私は交錯させてしまう。

音楽挺身隊というものと、当時の最大の人気、実力を誇った山田耕筰がそうした軍国主義の中で奉られたことは、果たして「軽率」だと今日の平和ボケした私たちが非難できるのだろうか?
せめて出来ることは、正しい知識と理解で、これを繰り返さないように過去から学ぶという態度であろうと思う。これは今の中国が言っている「歴史認識」とか言う話とは別物だ。彼らの歴史に対する態度はあまりに酷いと思う。ただ我々には中国を非難できないと、歴史わ更に自国に都合が良いように改ざんして恥じないようでは、他国を侵略したと言って我が国を非難しつつも、軍事費を世界一増強している現在、どこを今度は侵略するのですかと訊ねたくなる。
ただ、私はこんな非難合戦は飽き飽きしている。音楽はもっと違う精神世界でありたいと思うのだが、これが過去の多くの音楽家たちの過ちのもとなのではないかと考えてちょっと恐ろしくなってしまった。

自戒の思いを込めながら。そして、誰かを一方的に非難する愚を、何とか避けることを心して生きていきたいと思う、今日この頃である。
by Schweizer_Musik | 2005-06-12 22:05 | 音楽時事
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