フジ子ヘミングの奏楽堂での演奏会の放送を見て
テレビをつけたらフジ子ヘミングの演奏をNHKがやっていて、今聞いているところ。リストのコンソレーション、続いてショパンの「革命」を弾いている。
彼女の数奇な運命には、私も日本人らしくつい同情してしまうところがある。ドラマにもなったし、その物語が影響されてか、クラシック音楽とあまり縁のなかった多くの人達をコンサート会場に足を運ばせた。
それは、彼女の持つそうした話題性とは別にどこかにあるカリスマ性も原因としてあげることができると思う。

私は何度かCDで、そしてテレビで彼女の演奏を聞いているが、あまり共感できずにいた。それは、彼女の数奇な人生に惹かれると同時に、その人生を彼女の演奏に重ねて聞いていたからであるように思う。そのドラマ、彼女の半生を音楽に重ねて、純粋にショパンを、リストを聞けないのが気になるからだった。
しかし、多くのフジ子ヘミングのファンは、そうした彼女のドラマチックな人生を重ねて聞いているのではないだろうか。
申し訳ないが、ピアノのテクニックはかなり緩んでいるし、テクニカルな曲を遅めのテンポで弱音を中心に演奏するのは、可能な技術とのバランスをとったからであろうと思う。速いテンポで切れ味鋭くいかなければならない所でのフジ子ヘミングの演奏は、その全く逆を行っている。切れ味鋭く演奏するのは、彼女には無理だ。
しかし、だからと言ってフジ子ヘミングのその芸術の価値は全く減ずることはない。不思議な魅力があるのだ。
彼女のコンサートのチケットは発売から十数分で完売し、なかなか手に入らないそうだし、CDもクラシックのアーティストとしては信じられないことに100万枚を越えたそうだ。カラヤンの「アダージョ」や三大テナー以来の話である。

今日、奏楽堂での録画を見て、彼女の演奏はテクニックでねじ伏せるものではなく、ややぎこちないものの、音楽そのものをストレートに表現しようとしていることに気が付いた。しかし、私にはテクニックの弱点が気に掛かって仕方がないのだが、一方で太い音色でユニークな個性あるタッチも彼女の強みだと思った。

私は、フジ子ヘミングの人気において、ドラマの影響は一時的なものになるだろうと思っていた。しかし、彼女の人気は本物だった。ドラマの影響だけなら、こんなに長く彼女の演奏が支持されるわけがない。

何故彼女の演奏が人を惹きつけるのか。そろそろ本気が考えなくてはならない時に来ているのではないだろうか。彼女の演奏から得られる「何か」は、コンクールなどで切れ味鋭く演奏する若いピアニストたちから、失われた「何か」であるようだ。
この「何か」を若い演奏家たちは、フジ子ヘミングの演奏を聞いて考えてみると良い。ふとそんなことを考えてしまった。

彼女はピアニストとして売れっ子であるが、そんなにたくさんの収入はいらないと、ギャラの大半をユニセフなどに寄付しているそうだ。彼女の半生を知る私たちは、それが偽善でないことを知っている。
by Schweizer_Musik | 2005-10-31 00:43 | 音楽時事
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