覚え書き1
ハプスブルクはもともとスイス北東部のチューリッヒの近く、アールガウを中心にスイス各地に散在する所領を持つ貴族で、名前の由来となったハプスブルクもアールガウにあった城の名前である。
ハプスブルクの当主ルードルフ二世は、レンツブルク家とベルンなどを建設した名門ツェーリンゲン家の断絶を利用し、神聖ローマ帝国内のシュタウフェン家に忠誠を誓い、その庇護の下で勢力を拡大していった。
この老ルードルフ二世には二人の息子がいた。兄は「賢い」と渾名されるアルブレヒトで、弟は「無口」と渾名されたルードルフ三世である。
1232年に老ルードルフが亡くなり、二人の息子に所領が分割される。
兄アルブレヒトはキーブルク家のハイルヴィヒと結婚し、アルザスやアールガウなどのハプスブルク本家の所領を得るのであるが、聖地エルサレムへ出征し、亡くなる。
一方の弟のルードルフ三世は、ラウフェンベルク家を名乗り、スイス内のゼンバハやヴィルザウを獲得していた。
アルブレヒトのあとを継いだのは22才のルードルフ四世であった。彼もシュタウフェン家に忠誠を誓い、勢力を拡大していった。
キーブルク家が1264年に断絶した時には、その所領を狙うサヴォア家を出し抜き、その所領を受け継ぐとキーブルク家を相続したアンナをラウフェンベルク家のルードルフ三世の息子エーベルハルトに嫁がせて、後見としてアールガウの所領を自分に売却させ、アルザスから中央スイスに至るまとまった領土を得る。
しかし、こうして大きな勢力を持つ存在となっていたことは、神聖ローマ帝国内ではほとんど知られておらず、依然、ただの田舎貴族と考えられていた。
1278年に大空位時代が終わり、皇帝選挙が行われた際、この弱小貴族で与しやすいと考えられていたことで、当時、皇帝選挙の最有力候補であったボヘミアの王オットカールを出し抜いて、ルードルフ四世が皇帝に選出された理由であった。
by Schweizer_Musik | 2005-12-15 10:15 | 原稿書きの合間に
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