武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考
武満徹の初期の傑作「弦楽のためのレクイエム」を考えてみたい。
この素晴らしい作品は、最初東京交響楽団の委嘱で作曲され、1957年6月20日第87回定期演奏会において初演された。

武満徹は、自らの作曲について次のように語っている。

「私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。」

「私は音を組立て構築するという仕事にはさして興味をもたない。私は余分を削って確かな一つの音に到りたいと思う。」

弦楽のためのレクイエムは「音楽以前」などと酷評にさらされた。ベートーヴェンやブラームスを奉る音楽界は、この不思議な倍音を重ねて得られる厳しさが理解できなかったのだ。
しかし、その深さ、厳しさを20世紀の大作曲家ストラヴィンスキーは聞き逃さなかった。1959年に来日したストラヴィンスキーは、NHKのアーカイブで日本の作曲家たちの作品を聞き、この当時全く相手にもされていなかった作品を聞いて「厳しい、実に厳しい。このような曲をあんな小柄な男が書くとは!」と絶賛した。この話が世界に伝わって、武満は世界中に名前が知れ渡ったのだった。

この弦楽のためのレクイエムについて、武満は「はじまりもおわりもさだかではない。人間とこの世界をつらぬいている音の河の流れの或る部分を。偶然にとりだしたもの」
と語っているが、西洋的なものでない、東洋的な輪廻転生とどこかで繋がっているのではとも思ったりもする。
しかし、そうした武満自身の意図はわかるものの、音楽は西洋的な形式概念でほぼ出来ている。
大きく三部に分かれ、それぞれが前半と後半に分かれる複合三部形式としてとらえられる。第3部の再現部は、型どおりに繰り返されるのは、二十世紀半ばに書かれた作品としては、極めて伝統的で、ウェーベルンなどのたゆまない変奏と変容による作曲法よりも古典的であると言えよう。

作品は次の主題から派生して紡ぎ出される。このテーマを動機aと呼ぶことにするが、このメロディーが作品ではなんども繰り返される。
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_6283066.jpg

このちょっととらえどころのないメロディーのフレーズの終わりに三連符の蠢く重厚な響きが対置する。そしてこの動機から次の印象的なフレーズが立ち現れるのだが、まず冒頭部分を背景の音も含めて、もう一度提示しておく。
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_753388.jpg

これが繰り返され、最初の頂点で動機bが提示され、
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_7104630.jpg

静まりながらこれがより明確に繰り返され、Lourd(重く)と指定されたカデンツ(終止)が入り、第1部の前半が終わる。
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_1594393.jpg


続いて第1部の後半である。ここで次の印象的なメロディーがヴァイオリンに出現する。テンポを落とし、艶っぽさすら感じさせるこのメロディーは大変印象深い。
このメロディーの動機は、動機bが変容して出来たものであることは、誰もが気付くことだろう。
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_7512074.jpg

ゼクエンツで出来ていて、伝統的な作りにかなり近いものである。これが縮小されて繰り返された後、テンポを最初に戻して、動機bがダイナミック・レンジを大きく広げて戻ってくる。
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_8371262.jpg

そして、第1部後半の頂点が形成される。ここではヴァイオリンに冒頭の主題が回帰しているのだが、ほとんどそれは聞こえず、より高いオクターブ・ユニゾンの高らかなメロディーにマスクされている。これが静まり、やがて動機bが控えめに(あるいは遠くで)響き(実際にはビオラのソロで)第1部を終える。
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_1517816.jpg


続く第2部は、古典的な三部形式の作品とは異なり、冒頭のメロディーの回帰から始まる。
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_16151422.jpg

和音もほとんど同じでこれが小さなエピソードを挟んで繰り返されて前半が終わる。
続いて、全く今までとは異質に聞こえる、この作品の中で唯一動的なフレーズ動機dが表れる。
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_18251692.jpg

この動機dは、冒頭のテーマの伴奏部分にあった三連符のフレーズに関連していると考えられるが、よく見ると第1部前半の終止の直前でのフレーズの音の構造そのままであることに気が付くだろう。
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_1945191.jpg

動機bがこれに続いて回帰し、更に第1部後半の動機cが挿入される。
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_18585258.jpg

これに動機dのちょっとした変奏がついて、
武満徹の「弦楽のためのレクイエム」考_c0042908_20264487.jpg

動機d - 動機c - 動機dが1セットとなって、そのまま繰り返されて第2部を終える。

第3部は最初の第1部がそのまま繰り返されて終わる。型どおりの際限があるあたりは、武満徹もまだ古典的な様式の枠内で模索していたのだろうと考えても、大きくはずれてはいないだろう。しかし、一つ一つの響きの厳しさ、突き詰めたような厳しさはどうだろう。真似でない、音と真剣に向かい合った結果としてのこの音の厳しさが、あの独特の美しい武満サウンドを形成していくのだ。その原点がこの曲の中にある。

この音楽の演奏は、若杉弘氏が指揮した東京都交響楽団の演奏が圧倒的である。若い武満の音楽をこれほど室内楽的な緊張感で演奏したものは、そうないだろう。
by Schweizer_Musik | 2006-02-24 20:44 | 授業のための覚え書き
<< バーバーの弦楽のためのアダージョ考 モーツァルトの生前の評価 >>