ショスタコーヴィチの交響曲第15番
ショスタコーヴィチの最後の交響曲は、不思議な作品で、様々な引用がされている。有名なものではロッシーニのウィリアム・テル序曲のスイス軍の行進の音楽が出てくるし、自作の引用も甚だしい。第1交響曲や第4交響曲、第10交響曲、あるいはおそらくチェロ協奏曲も…。
日本初演は確かロジェストヴェンスキーが大阪フェスティバル・ホールで振ったのが最初だそうで、その時の模様だったかが(記憶が定かではないのだが)テレビで放映され、私はそれを見た記憶がある。曲の紹介で「ウィリアム・テルが出てきますよ」という言葉が印象的で、そればっかり追いかけて聞いたのだった。まだ高校生で「革命」とヴァイオリン協奏曲を知っていた位だった。だから、自作の引用などがわかるはずもなく、ただ漠然と聞いていたが、かすかにやたらと打楽器が使われているなぁと思ったことも憶えている。
何種類かのCDを聞いてみて思ったのだが、この曲を難解な音楽とするのは間違いではないかと思い始めた。もっと天真爛漫な心が発散する光のようなものであると…。
第1楽章冒頭のフルートが演奏するテーマが、何とも人を食ったものだ。
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これ続いて、ファゴットがテーマの整理を行った後、いきなり「ウィリアム・テル」が鳴り響く。
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こうした音楽作品の引用は、20世紀には数多く行われた。例えばベリオのシンフォニアの第3部ではマーラーの「復活」の第3楽章をベースに無数の作品が引用されて出来ているが、このショスタコーヴィチの場合は、ベリオのようなパッチワークのような方法とまた異なるのは言を待たない。
息子でありこの作品の初演の指揮をしたマキシム・ショスタコーヴィチの言葉は重要だ。「これは、父が幼い頃、初めて好きになったメロディーなのです」と語るそれから考えれば、冒頭の人を食ったようなメロディーはおもちゃと戯れる様子を思い浮かべることもできるだろう。しかし、何とも可愛くない子供だ(笑)。
第2楽章は金管によるコラール風の音楽とチェロの独奏のダイアローグではじまる。
金管合奏の荘重な音楽は、明らかに葬送を暗示しているが、半音階を多用したメロディーは荘重さと悲劇性を表しているが、その主調はヘ短調であり、交響曲第1番での調であるあたりにこの音楽の本音が隠されているのかも知れない。
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続くチェロの独奏は最低音から最高音域まで使う、実に幅広い音域を持つメロディーであるが、その中心となるのは最高音域で、チェロのハイポジションによるか細く、哀れなメロディーが続く。この後、テンポを更に落として葬送の音楽をトロンボーンが歌い始める。
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これに続いてヴァイオリンのソロが入り再び葬送の音楽がトゥッティで鳴り響くという次第であるが、一種のロンドのような構成とも言えよう。
この葬送という性格を強調するか、逆にシンフォニックな構成を優先するかによって随分テンポのとりかたが違う。バルシャイのように速いテンポで音楽の構造を明確にする方法も一つの見識であると思うが、一方でハイティンクやケーゲルのように葬送の音楽であることを強く打ち出す遅めのテンポをとる方法もある。解釈の問題であろうが、作られて数年にしてこうもテンポが大きく異なる解釈が生まれるほどに、この音楽はなかなかに奥が深いのだ。
第3楽章へはほとんど休みなく演奏される。再び人を食ったようなメロディーが出てくるのだが、今度はちょっと自虐的な響きを含んでいる。これは、長調と短調を合わせて作るショスタコーヴィチ独特(というほどでもないのだが)の手法によっている。テーマだけ紹介しておこう。
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2小節ほどの長さを持つフレーズが前半と後半が反逆行の形となりシンメトリックな構造で出来ていることに留意するべきだ。この作品そのものがそうしたシンメトリカルな構造を全体としてもっているからである。この短い第3楽章のテーマがそういう構造を持っていることこそ、象徴的なことに思えてならない。
独奏ヴァイオリンによるメロディーは第1楽章の第1主題からとられているのだが、すでにグロテスクなまでにデフォルメされていて、最初のたわいもない音楽は苦悩をすでに何度も体験してきた風に聞こえてくる。
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そしてウィリアム・テルの行進曲のリズムを使ったファンファーレの後、クラリネットに現れるこのメロディーは、第1楽章の遠い反映であることは明白である。
終楽章はまるで打楽器奏者のための音楽であるとともに、ワーグナーの引用ではじまるそれは、数多くの打楽器の使用以上に印象的である。
冒頭にはワーグナーの「指輪」の「運命の動機」が出てきて、「ジークフリートの葬送行進曲」と似た展開を経て、「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲の冒頭の動機が弦に出てくるという寸法である。
作曲法的には、11音列による後半のパッサカリアの充実した書法に心惹かれる。何しろ分析していて、この楽章の面白さは絶大である。これはまたいつか…。

この作品をどうとらえるか、議論はつきない。私はショスタコーヴィチが自分の生涯を振り返りながら書いた作品に思える。と同時に、初心に帰り、器楽による交響曲に戻り、第1番や第4番などの節目となった作品を振り返った作品だと思う。引用は暗示的でそこから受け取るメッセージは多種多様であるが、それはショスタコーヴィチの音楽そのものの有り様であると思う。
演奏は、ケーゲル指揮のものが好きだが、ライブツィヒ放送交響楽団の技量が今ひとつで、ソロをとる部分でちょっと聞きづらい。その点、オーマンディやハイティンクの録音は実に美しい。バルシャイのケルン放送交響楽団との全集の演奏は速めのテンポで引き締まった第2楽章が評価の分かれ目であろうが、私は評価しない。コンドラシンは情緒と構成感のバランスがとても良いが、第2楽章はあっさりしすぎているように思う。大変立派な演奏なのだが、好みの問題だ。
ザンデルリンクも大変立派な演奏だが、テンポが遅すぎて聞いていて集中力が途切れそうになる。逆に私の体力が充実していたら、このテンポについて45分あまりを聞き通せるのかも知れないが、現状では無理だ。重すぎる。
ムラヴィンスキーの録音もキリリとしまったテンポでコンドラシンの演奏と同じスタンスで曲に対しているようだ。ただ、私の持っているCDが1976年5月26日のライブ録音(BMG/74321 25192 2)で、やや会場ノイズが大きすぎるのと、第2楽章のテンポが走りすぎるのが不満。第3楽章はすこぶる良いのだが、終楽章もスケール不足だ。彼はこの音楽をよくとらえきっていないように思う。
by Schweizer_Musik | 2006-07-26 19:57 | CD試聴記
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