昔、レコード芸術誌で読んだ記事だったと思うが、あるピアニストを迎えて、ヴェルテ・ミニヨンの自動ピアノの試聴を行ったところ、そのピアニストが「これはパハマンのタッチではない」と言って怒り出したという話があった。いや、パハマンだったか、ローゼンタールだったかもう定かではないが、微妙なタッチの変化が全くない自動ピアノの音を非音楽的と断じたそのピアニストの耳は、実に鋭いものだと思った。
果たして、私はコンピューターを使うし、その同じようなニュアンスで延々と繰り返す音に違和感を感じなくなっていることに、最近とても恐怖を感じている。言葉の揺らぎ、ニュアンスの微妙な変化を私たちの耳は長い長い間、聞き分けてきたのだ。それが、退化しているのではないかと危機感を感じている。 オーケストラの音をコンピューターで出すことができる。かなりリアルになってきたとは言え、本物には全くかなわないことは事実だ。だからシンセサイザー風の音にアレンジし、同じニュアンスのパターンを延々と繰り返して「トランス・ミュージック」などと言い訳して人に聞かせるのが、流行ったりもする。 「トランス・ミュージック」は、音楽の能力がない者でも、なんとなくセンスだけでくっつけたりはがしたりしてでっち上げられるので、作曲初心者に大人気だったこともある。しかし、パーカッションのフレーズが明らかにコピー&ペーストで出来ていて、立派な出で立ちのわりには(そういう連中ほど、パッケージに凝る傾向がある)中身がお粗末で、聞いてものの15秒もしないうちに、私はその音楽に対して興味を失ってしまう。 しかし、そうした音の単調さ、不自然さを耳がとらえていないことに私は危険を感じている。 生の楽器が、精魂込めて歌い上げるフレーズと、ただコンピューターに打ち込んだ音(かなり良いものになっていることは間違いないし、下手くそな演奏なら、ちゃんと打ち込んだ音の方がずっと良かったりもする)が並列において聞かされて、その不自然さを耳が感じ取れなくなってきているのではないかという恐怖感である。 こんなことを書いているが、コンピューターで絶対できないのは、人が歌うように言葉を使って歌うことだ。人の声はあらゆる楽器の中で、隔絶した地位を占めている。楽器の音はバランスや音域、配置を工夫してやらないと、うまくバランスがとれないことがある。メロディーを楽器で演奏する場合、伴奏にまわる声部の配置は細心の注意をもって書かねば、きれいな伴奏でもメロディーは全く聞こえないなんてことが起こりうるのだ。 逆に、人の声はそんな配慮は無用だ。ヘルデン・テノールの前では大オーケストラであっても音は聞こえてくるだろう。もちろん、無理をさせないためにも、ある程度の配慮は必要であるが…。 ポピュラーのコーラスではメロディーの上にハモリの声部をもってくることがよくある。クラシックの音楽ではめったにやらないが、こうしたアレンジでもメロディーの声部は聞こえてくる。人の声の特徴、個性を私たちの耳は聞き分けているのだ。 昔、ヤマハのジュニア・オリジナル・コンサートであるよくできる生徒に歌曲を作らせたことがあった。ヤマハでは「なかよしソング」などといって、童謡と歌謡曲の会いの子のような中途半端な歌を作らせていたが、本格的な歌曲は、ほとんどやっていなかった。 歌曲を、当時のスタッフは誰もまじめに考えていなかったのだ。確かに文学的な素養も必要だし、声楽についての基礎的な知識も必要だ。誰に、どういう声域と声質を持つ人に歌ってもらうのかなどという基本的なことも教えなくてはならないし、詩を選ぶのも大変だった。 それをコンサートの候補曲として出した時、本部のスタッフからかなりの反発を受けた。しかし私はロストロポーヴィッチの講評で、歌曲がないことなどを指摘されていたことがあってこれをやることに確信を持っていた。 作曲の学生はどうも歌曲については不熱心で、反応が今ひとつなのは残念だ。そのうち、そういう音楽も書かせたいと思う。弦楽四重奏でフーガについて簡単に教えたら、一週間で書いてきた優秀な弟子がいるので、彼女に少したきつけてみようか、などと勝手なことを思ってみたりしている。
by Schweizer_Musik
| 2006-09-06 04:08
| 原稿書きの合間に
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