須賀田礒太郎の音楽を聞く
須賀田礒太郎の音楽をナクソス・ミュージック・ライブラリーで聞く。そのあまりの面白さに、一日スコアを書いていた疲れも吹っ飛んでしまった。私の住む神奈川にも縁の深い作曲家ということであるが、神奈川フィルの演奏というのも嬉しい話である。
戦前の作曲界というものは、その多くが闇の中で、知られていない作品、作曲家も多いのだが、こんな才能が埋もれていたとは、全く私は知らなかった。昨年あたり須賀田礒太郎をテーマとしたコンサートをやっていたのは知っていたのだが、忙しさにかまけて行っていない。恥ずかしいことだ。
で、今回聞いて、この作曲家が早坂文推などに繋がる系図に属していることをまず感じた。ドビュッシーやストラヴィンスキーなどから多くを学んでいる点もうかがえる。
それらから、日本の雅楽、舞楽などのスタイルと融合させながら須賀田自身のスタイルを形成していったものと思われる。
彼が皇紀2600年のコンクールに入選した作品「交響的序曲」を聞いてみて、緻密な構成力に驚いたが、オーケストレーションがとても上手いのには全く頭が下がる。4度構成のハーモニーや、ポリ・コードらしき響き、合成音階らしきメロディー、いずれをとっても当時の最先端を彼が歩いていたことは間違いなさそうで、伊福部昭や早坂文推などと同列に語るべき才能であったことだけは確かである。
これをyurikamomeさんの「うちのオケ」が復活して演奏会をしているのだから、素晴らしいことだ。ぜひ交響詩「横浜」など、もっとたくさん彼の作品を聞いてみたいし、楽譜を詳細に調べてみたいものである。
1952年に亡くなったということで、早坂文推などと同じ頃に亡くなっているのは象徴的に思われる。実験工房などの前衛音楽が第一線に躍り出た時代、芥川也寸志や團伊玖麿、あるいは黛敏郎といった若い才能に脚光が当たる中、彼は地方にあって、作曲はしていたものの、演奏されることなく埋もれてわずか45年の生涯を閉じたのだった。
戦前はいくつかの賞をとり、作曲界でもある程度知られていたとは言え、戦後、その中心で活動することなく終わったことが、彼の作品を埋もれさせたのであろうか?
しかし、その発見を耳にすることができた。ありがたいことである。私の関心のある雅楽や舞楽をとりいれた1940年作の「双龍交流之舞」を聞きながら、この才能を偲ぼう。
by Schweizer_Musik | 2007-06-30 21:55 | ナクソスのHPで聞いた録音
<< 今日は… チャイコフスキー・コンクールで... >>