ミュラー=ブリュールとケルン室内管弦楽団によるハイドンの交響曲第41番
開けはなった窓から吹き込む風がとても気持ちよく、何を聞いてみようかと迷いながら、ヘルムート・ミュラー=ブリュールの指揮するケルン室内管弦楽団によるハイドンの交響曲第41番を聞いてみた。yurikamomeさんがレストロ・アモニコの演奏でとりあげておられたからで、そのCDがちょっと見つからなくてナクソスで間に合わせようという次第。
発想の面白さ、ユニークさはハイドンの独壇場で、この曲でも人を食ったようなテーマ設定で、冒頭からこれでどうなるのだろうと思わせられる。メロディーでもたせる音楽でなく、素材を提示し、それをどう発展させるかに興味を向かせる音楽作りは、第1楽章の冒頭から明確である。
ハイドンとモーツァルトの最も大きな違いは実はここにあるのだと私は考えている。モーツァルトは歌である。器楽であってもそれは美しい「歌」で満たされている。しかしハイドンは素材であり強固な構造とその展開の面白さに興味が行っている。モーツァルトにそれがないということではない。あくまでそれぞれの立つ地平の違いであり、どちらが優れているという問題ではないのは自明のことである。
ミュラー=ブリュールとケルン室内管弦楽団は、古楽器風の演奏スタイルを持つ現代楽器による演奏で、アンタル・ドラティの演奏などに親しんできた私のような古い頭の人間には実に微妙なポジションの演奏なのだが、この団体のものは私は好んで聞く。解釈に無理がなく、変なアゴーギクや強弱の強調がないのが良い。
前古典派の音楽はこうしたものなのだろう。バッハが亡くなってまだ20年ほどの頃の音楽なのだから。
何しろ、ハイドンのこれらの作品を演奏していたオーケストラの編成は、現代の大オーケストラのようなものでは全く無かったことだけは、間違いのないところなのだから。
大聖堂の街ケルンの、放送局にはかつてヴァントが指揮した優れたオケがあるが、このミュラー=ブリュールとケルン室内管弦楽団もまたこの街を彩る優れたオケであることだけは間違いなさそうだ。
彼らのハイドン、もう少し聞いてみようと思い始めているところである。
by Schweizer_Musik | 2007-09-02 20:49 | ナクソスのHPで聞いた録音
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