伴奏者?共演者?
ある学生が好きだということで、どんなものかと思い、"feel"というタイトルのオムニバスCDをその学生に借りて、三枚ほど聞いたところである。
中にはプレトニョフの弾いたショパンの遺作となった嬰ハ短調の夜想曲が入っていたり、千住真理子の弾いたエルガーの愛の挨拶などがあった。
まあ、この辺りは知っている曲なので、どうでも良かったのだが、千住真理子の曲でピアノを担当している人がとういう人なのか気になり始めて(解説が無かったので)調べようとしてネットで検索をかけてけれど、どうしても分からなかった。
彼女のオフィシャル・サイトでもこのCDの広告はデカデカと出て、曲目も出ているのに、ピアニストについては完全に無視…。
確かに曲はヴァイオリンが中心で、彼女の名前で売ろうとしていることはわかるけれど、この態度はプロデューサーをはじめとしてこのCDに関わる人達の見識を疑うものだ。ポピュラーの音楽では確かにスタジオ・ミュージシャンは現場では誰もが知っているテクニシャンだったりしても、クレジットされないことが多い。
でも、コンサートでは普通紹介するし、その人達の技量と合わさってその音楽が創造出来たはずだ。たった一人で演奏できたのではない。
アンサンブルを組んだ相手を下等に見なして無視するのは、おろかで不見識だと思った。
共演者を伴奏として低く見なすという、古い、誤った考えがまだ業界にあるのかと思うと暗澹たる思いである。
一度でもきちんとコンサートなどのために伴奏をしたことがある人ならわかるはずだが、ピアノがただ単に音を出しているだけでは、ソロはとても音楽にならないはずだし、作曲家はピアノのパートをソロの添え物として書くようなことはまずない。
伴奏という言葉も私には侮蔑的で、なるべく使わないようにしている。伴奏者でなく共演者なのだ。
シューベルトなどの歌曲でのピアノの役割は曲間のタイミングまで含めて、大きな部分を担っている。優秀な伴奏者であれば、若いソリストに助言し、呼吸のとり方まで教えることもある。
だから歌曲でも私は伴奏者という言葉は極力使わない。共演者として常に同等に考えている。でなければならないはずだ。
千住真理子の考えでこうしたプロモーションが行われているのでないことを、心から望みたい。そうした不見識なソリストだと思いたくない。
by Schweizer_Musik | 2007-11-18 10:47 | 日々の出来事
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