鎌倉スイス日記:音楽作品分析
2023-06-15T08:24:14+09:00
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スイスを思い、好きな音楽と共に過ごす、古都鎌倉での穏やかな日々の記
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ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第5番 第1楽章
http://suisse.exblog.jp/33000440/
2023-06-15T08:16:00+09:00
2023-06-15T08:24:14+09:00
2023-06-15T08:16:09+09:00
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音楽作品分析
曲名 : ピアノ・ソナタ 第5番 ハ短調 Op.10-1 (1796-98)
演奏と作品解釈についての本を若い頃読んで、その明快な考えに心酔していた私は、彼の弾いたベートーヴェンのこの曲を聞いて、大変ショックを受けた。雑で速すぎたのだ。そのために曲の重要な要素である短6度へのベートーヴェンのこだわりが、希薄となり、ただただ切迫した感じだけの薄っぺらな音楽になっていたのだ。
この傾向は、ポリーニやコヴァセヴィッチ、アラウといった、愛してやまないピアニストたちの演奏にも聞かれ、私の考えが間違っているのか分からなくなっている。
多くの場合、短い16分音符を短くし過ぎているように感じられ、鋭角的に過ぎるのだけれど、それでは曲のアイデアが浮かび上がってこないと私は考えている。
第1主題は次の3つの部分で出来ている。
ハ短調の主和音を打ち鳴らした後、G音からオクターブと短6度跳躍を繰り返して駆け上りEs音を2度鳴らして止まる。短音での提示である。(動機a)
これにゆったりとしたトニックからドミナントの和音が応える。(動機b)
ここは逆に短2度しか動かず穏やか。2つの要素が厳しく対立しておかれた実に意欲的な主題である。
これを減7の和音からトニックへと和音を変えて、繰り返す。
第2部は、下降のスケールで、2度、5度下降して、3度目にオクターブ下降する形に拡大される。5度下降は2つの3度に分けられる。これは、6度を反転させたものであり、第1部の動機に対応したものである。この5度という新たな要素は展開部で大きく発展させる要素となる。
更に言えば、この2つの部分は、主和音と、ドミナントの減7のみで出来ていて、強い緊張感が現れている。
第3部は主題のカデンツの部分であり、はじめてサブドミナントが出てきて、更にはじめてV7が出てきて第1主題が終わる。
曲はこれに続いて第1主題を縮小して繰り返し、主題が確保される。
続いて推移がはじまる。転調を繰り返しながら平行調である変ホ長調へと向かう推移に新しいメロディーが登場するが、これは第1主題の第1部、G-EsとC-Hという動きを使ったもので、第1主題の断片で出来たものと言って良い。
この部分大変美しく、ここを第2主題と思ってしまいそうだが、その第2主題はこれに引き続いて出てくる。
ここでも短6度と短2度の組み合わせが、メロディーの中心となっている。この後の展開でもそれは徹底的に使われ、提示部を終わる。
ここまでやるかというほどのこだわりようである。
以下 続く
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無調の音楽とは?
http://suisse.exblog.jp/17403791/
2012-02-05T11:35:00+09:00
2012-02-05T13:11:19+09:00
2012-02-05T11:37:09+09:00
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音楽作品分析
コメントに対するレスのつもりで書き始めたら、とても長くなったので、ここに書くことにしました。CDの感想以外はコメント不可にしていますが、これは例外として、コメント化にしておきます。
無調の音楽に対して、私は懐疑的です。純粋な無調で書いた作品は、多分学生時代のいくつかだけです。後は目一杯調性音楽で私の作品は占められています。
一方、12音技法で書いたものもいくつかありますが、学生時代のものを除くと、この数年、授業の資料として書いたものとして木管五重奏の曲と、12音説明用のピアノ小品、そして「孤独なカプリチオ」という作品のみです。
無調が「なんで生まれたのか知りたかった」とお書きになっていますが、ベートーヴェンの大フーガ、モーツァルトの幻想曲ハ短調などの古典から少しずつ、調性は崩壊していたのでした。
決定的だったのは、ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の前奏曲でした。無調とかいうのではありませんが、それまでの主調がイ短調ならば、主和音はラドミと決まっていて、それに終止しなくてはならないルールを、はじめて止めてしまったことです。
あれによって、調性は大きく崩壊への道を歩み出しました。その過程には、リストのピアノ協奏曲などもあったのですが、トリスタン以後は、様々な試みが成されたのでした。
それは自分だけの響き、自分だけのメロディーを求めた複雑化の道でした。和音の第7音だけでは飽きたらず、第9音を多用するだけでなく、解決をしないまま放置するようになり、更に第11音まで使うようになり、教会旋法の復活から、それを取り入れた作品が生まれて行きました。
調性の枠内でも、止むに止まれずこの方向へと、皆が突き進んだのは、やはりそれぞれのスタイルを確立していく中で起こったことであるからだと思います。
ドビュッシーの全音階やドヴォルザークの旋法の復権など、これらの多くの試みの中には、無調に近づいたものもありました。フランクやヴェルディといった人たちもこの中に含まれます。ですが、決定的に調性を放棄するに至ったのは、1907年頃に書かれたシェーンベルクの弦楽四重奏曲第2番の終楽章においてでした。時同じくして、美術の世界で遠近法が放棄されています。音楽においてもその大切なものが放棄されるに至り、何を聞いてもらうのかが、問題となります。
12音技法が提案されますが、その過程で、シェーンベルクと袂を分かつこととなったハウアー(HAUER, Josef Matthias)の技法が無視されているのは、やはり残念なことであるかもしれません。そう研究したわけでもないので、残念ながら、詳細を述べる力は私にはありませんが、ひょっとしたらこの行き方は、面白いかもと思って、楽譜を取り寄せようかと思ったりしているところです。
しかし、いずれにせよ、このセリーの音楽は、決定的な難しい側面を持っていました。それは歌えるようなメロディーがそこから完全に失われてしまったということです。ベルクのヴァイオリン協奏曲ような試みはもう1つの行き方だろうと思います。私の木管五重奏のエレジーはその手法を単純化したものなのですが…。
調性の崩壊から、トータル・セリエルに向かう道筋のにある音楽は、ある意味で伝統の継承と発展を担うものであったと思います。
学生に無調でメロディーを書かせると、なかなか出来ずに皆大変苦労します。実は無調でメロディーを書くのは難しいのです。一方、伴奏を無調にするのは意外と簡単です。和音を不協和にすれば済みますから…。
ですので、メロディーが書けない作曲家というものも、戦後、ずいぶん生まれたと、その世代の作曲家の方から聞いたことがあります。
そうした人たちのことなどはどうでも良いのですが、こうして無調であろうとしたのは、すでに調性で書くと何かに似てしまうという強迫観念もどこかにあったのではと思うところです。それは私の先生からもよく聞かされた話でした。調性で書くということは、主に7つの音で書くということですが、それではどう作っても、前に作られた何かに似てしまう。だから音を12個に増やすのだと…。
ちなみに、5つだけのペンタトニックで書かれる演歌などでは、もうギリギリの勝負というか、似せないで作る技術が絶対に必要なのではないでしょうか?私も小さな歌をペンタトニックで書いたら、誰かの曲に似ていると書かれました。ある意味で、似てる、似てないの「盗用疑惑」などというものが、一人歩きする恐怖は、とんでもないことです。
その曲はお蔵入りするはずだったのですが、すでに送ってあったところで演奏され、評判を呼んでちょっと広まってしまったので、私としてはもうどうすることもできず…です(笑)。
戦後のダルムシュタット楽派などには、このセリー主義を極端に発展させる作曲家たちがいました。またこれに偶然性が付け加わったシュトックハウゼンなどの作曲家がこれを更に発展させたのですが、それはもちろんご存じのことでしょう。
それらは、元を辿っていくと、大概はウェーベルンにたどり着きます。彼の作品数は限られていますから、全作品のスコアを手に入れることも比較的容易ですし、CDでも三枚、初期作品を入れても五枚もあれば充分です。寡作家であったというだけでなく、曲の規模が小さいためにそうなってしまうのですが、もともとはマーラーに憧れて作曲をはじめたというのはあまり知られていないようです。そう考えて聞くと、パッサカリアなどはマーラー風の管弦楽法が聞かれると思います。
しかし、彼は大管弦楽で人を驚かせるのではなく、少人数で、極端な集中を強いる作品を書くようになります。弦楽三重奏曲も確かに名曲ですね。(一言、変奏曲と書いたのは、Op.30ではなく、ピアノのための変奏曲Op.27です。)
彼の作品は、後期の作品群もいずれ劣らぬ傑作ばかりですが、私は初期の表現主義的でダイナミックな6つのパガテル Op.9などに心惹かれます。ここには、まだ彼の初々しさと覇気がふんだんに聞かれて、何だか気持ちが良いのです。
しかし、仰せの通り、後期作品の音色旋律は、点描主義と呼ばれることもある寡黙で分断されたメロディー・ラインなどともに、戦後世代の音楽家たちに大きな影響を与えたことには違いなく、ダラピッコラが最も大きな継承者となったのでした。
ダラピッコラ作曲の合唱と二台のピアノと打楽器のための「囚われの歌 "Canti di progionia"」は、その音楽の強さ、美しさがバランスした名作だと思います。
12音ではなくダイアトニックな部分が多い作品ですが、新たな行き方を示していると思います。はじめて聞いた時に、もの凄く感動したものです。プロパカンダ的なところばかりが取りざたされますが、それよりも音楽そのものの美しさを聞くべきだと私は思います。
ダイアトニックな行き方で、無調に代わる12の調性を自由に使用する中心軸システムを作り出したバルトーク・ペーラを忘れてはならないと思いますが、ここでこれまで持ち出すと果てしないことになりそうなので止めておきます。
ブーレーズや松平頼曉氏などの作品は、かなりとんがっていた前衛の時代を今も持っていますね。松平頼曉氏の仰せのRevolutionは、1991年の作品だったと思います。トータル・セリエルから発展した氏が自ら語るところの第三期の作品で、彼自身が「ピッチ・インターヴァル技法」と語るもので、総音程音列というものから乱数表を用いた、かなり斬新で極端な技法による作品であったと思います。
思いますというのは、楽譜を取り寄せて研究したわけでもないので、そう詳しく語ることができないので…。ただ聞いていると唐突に音が薄くなったり、厚くなったりと、乱数表による偶然性に起因するものがあるようです。
これを面白いと聞くか、それとも馬鹿馬鹿しいと思うかの差なのでしょう。ただ、自分だけの新たな技法(様式)を探し求めて止まない、たくましさは、創造者としての作曲家の精神そのものと言ってよいのではないかと思います。
ピエール・ブーレーズの作品はいくつか勉強をしましたが、ダルムシュタットの顔と言っても過言でない彼は、私にとって指揮者ではなく、あくまで作曲家であります。
彼のピアノ・ソナタ第2番などを大変好むところですが、過激なセリー主義から、もう少し緩やかな運用によって、音楽自体のしなやかさを獲得した「ル・マルトー・サン・メートル」は、ピエロ・リュネールの正当な継承者であると思います。
長くなりすぎたので、このくらいにしておきます。]]>
ミヨーの「世界の創造」について
http://suisse.exblog.jp/16329401/
2011-05-15T00:21:00+09:00
2011-05-15T10:02:00+09:00
2011-05-15T00:22:20+09:00
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音楽作品分析
ミヨーと言うと、多調性の作曲家と言われ、その先入観で語られることが多いが、この曲についてもネット上で時折そうした書き込みを見受けることがある。
全く外れとまでは言わないが、あまり出てこないので、この曲で多調性云々は少々無理がある。
多調性の実験は1910年代後半に小交響曲で行われたが、それはミヨーだけのことではなく、ストラヴィンスキーをはじめ、当時の作曲家たちの多くがその技法を自分の作品に取り入れていた。有名な「春の祭典」にも広い意味でとらえれば多調性は出てくる。同じ頃に書かれたリヒャルト・シュトラウスの「サロメ」や「エレクトラ」にも使われているし、ラヴェルの美しい「水の戯れ」にこの技法は使われている。
古いところで言えば、「ボリス」の戴冠の場面で強烈な多調性が出てくるのだが、ムソルグスキーがこの曲を書いたのはミヨーのこの作品のはるか50年以上前のことなのだ!モーツァルトの「音楽の冗談」のように、ジョークで書いたわけではないので、この意味は重い!!
しかし、多調性がミヨーの専売特許では無いにしても、ミヨーがこれを大胆に使ったことは事実である。
この作品では、ニューオーリンズ・ジャズで芽生えていたブルーノートの音調が使われていることの方がずっと印象的で、時折聞かれる多調的な響きはアクセント程度で、ブルーノートのスケールの第3音を半音でぶつける形を強調するかのような方法で使われているに過ぎない。
曲は6つの部分に分かれている。一応途切れずに演奏されるけれど、スコア上では複重線が引かれているところもある。
最初は前奏曲で、バスのD-F#の交替の上に ニ短調のポリフォニックなハーモナイズされたなめらかな伴奏にのってサックスのメロディーが歌う。サックスは2本のヴァイオリンバートの下、チェロの上に書かれていて、ヴィオラの代わりのような立場に見える。
続く部分にはローマ数字でⅠが書かれている。「創造の前の混沌」はブルーノートを使ったテーマで、第1曲のFisとFの半音のぶつかりを強調するテーマとなっていて、ニ長調とニ短調の間のようなブルーノート特有の響きを表現している。これで二度ずつ上昇するフーガ風の展開を行うのだが、最初がコンバスのソロで出てきて、意表をつく。Wikiに書かれているようにフーガで出来ているわけではなく、フーガ風の出だしであるというに過ぎない。
続いてⅡの「動植物の創造」の部分。複重線は使われず、そのまま続いて演奏される。ここで前奏曲が戻ってくるが、ハ調(ハ長調-ハ短調)に変化している。後半でフルートにフラッター・タンギングが聞かれ、ブルーノートの強調が現れる。
Ⅲ「男女の誕生」では、シンコペーションのリズムが強調される。ケークウォークである。このあたりを聞いていると、ガーシュウィンの「ラプソディー・イン・ブルー」に繋がる世界が聞こえてくるような気がするのだが、間違っているだろうか?ちなみにこのヴァイオリン2本のメロディーをトランペット2本によるフラッター・タンギングで伴奏するという面白い思いつきをミヨーは披露している。
Ⅳの「男女の色恋」ではクラリネットに新しいテーマが現れるが、エピソード的ではある。かなりリズミックな音楽になっていてこのあたりが曲のクライマックスにあたるのではないだろうか。後半で前奏のテーマが回想されるが、リズミックな音楽がすぐに戻って来て乱痴気騒ぎへと突き進む。
そして最後のcodaとも言うべきⅤ「春または充足感」。最後にフルートのフラッター・タンギングで第2部のテーマなどが回想されて終わるのである。
演奏はミヨーの自演盤があるが、ステレオ録音のシャラン盤は手に入れるのが難しいだろうし、1932年録音のPEARL盤は更にこの曲を楽しむためにはあまりに現実味がない。
名高いプレートル盤は私は残念ながら聞いていないが、シャルル・ミュンシュ指揮ボストン交響楽団による1961年録音のRCA盤は大変に優れていると思う。この前のエントリーで取り上げたバーンスタイン盤もいろんな意味で歴史的名盤と言うべきだろう。
他にモーリス・アブラヴァネル指揮ユタ交響楽団によるVANGUARD盤もあるし、結構この曲には良い演奏がある。NAXOSのジャン=クロード・カサドシュ指揮 リール国立管弦楽団も優れた演奏だ。
写真はチューリッヒ、ペーター教会近くの路地を撮った一枚。]]>
音楽作品分析 -02. ショパンの4つの即興曲をめぐって
http://suisse.exblog.jp/15351144/
2010-10-26T00:36:00+09:00
2010-10-26T01:09:35+09:00
2010-10-26T00:37:05+09:00
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音楽作品分析
まっ、色々と思うけれど、私はあまりショパンが好きでない。仕事で聞くことはあっても、そう自らショパンが聴きたくてということはない。しかし、彼が天才であり、唯一無比の作曲家であることくらいは知っている。
そこであまりとりあげないショパンについてちょっと書いてみようと思う。
バラードもそういう面があるのだけれど、ショパンの音楽の多くがある2音から3音の変奏で出来ているなどというのはちょっと暴言かも知れないが、そういう傾向があり、ショパンらしさの背景となっていると私は考えている。
それは、この即興曲に特によく出ていて、4つの即興曲がまるで一つの楽想を変容させて出来上がっているようにさえ思えてくるほどである。
第1番の主題は以下のとおりである。まず第1主題。ピアノで細かなパッセージで装飾音で飾られたせわしない主題である。
第2主題は並行調のヘ短調に転調して、対照的に堂々とフォルテで歌い上げられる。
この2つの主題の性格の鮮やかな対比は見事である。が、両者は同じ素材で出来ていることにも気づく。それは最初がEs音から途中C音-As音を経由してオクターブ上のEs音へと上がる第1主題に対して、第2主題もC音から途中F音やAs音を経由してオクターブ上のC音へと至る主題であるということである。
言うなれば分散和音的にオクターブ上行するものなのだ。
実は、4つの即興曲が全て、この手法で出来ているのである。調が変わるだけで基本的に同じ構造を持っているのである。
本当か?第2番の即興曲の主題は次のようなものである。第1番の主題との関連性は明白であろう。
第3番ではこういう導入を持つ。この後、同様にB-Ges-Bとオクターブ上へと飛躍する。
有名な第4番「幻想即興曲」はあげるまでもないだろうが、一応最初の動機だけあげておく。これでわかるように主題は全て共通する背景、即ちオクターブ上行する分散和音を変奏して得られていることは明白である。
4曲が同じ作りで出来ているのだから興味深い。ショパンの創造の源泉に触れたような気がしてならないのだ。これを頭に置いてショパンの様々な曲を聞くと、彼の発想のとっかかりが分かってくる。
この話題はまたいつか触れてみたいと思う。]]>
音楽作品分析 -01. ブラームスの2つのラプソディー Op.79 (1879) 第1番
http://suisse.exblog.jp/15304252/
2010-10-17T15:10:00+09:00
2010-10-17T16:24:51+09:00
2010-10-17T15:10:47+09:00
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音楽作品分析
曲名 : 2つのラプソディー Op.79 (1879) 第1番 ロ短調
最近、鑑賞ノートみたいなことばかり書いているので、ちょっと本職の方の内容も出してみようかと、かつて勉強した曲をいくつか、分析レポートみたいなことをやってみようと思う。ベートーヴェンのソナタで分析したことなどをちょっと書いたら、KAYOさんが書いてくださったのもあるが、他にも意外と反応があったので、それではと思った次第。
近現代の作品ばかり普段楽譜で相手にしているので、ここでは比較的古典的な作品をとりあげてみようと思う。作曲を学ぶ者は、そうした作品の勉強をおろそかにして、技巧に走ることは厳に戒めるべきことである。モーツァルトを馬鹿にするような者に、音楽を語る資格はないのだ。
作曲の経緯などについてはこちらを参照していただきたい。
この作品はもともとカプリチオとして構想されている。確かに冒頭からの大胆な転調は当時としても極めて大胆で、聞く者を驚かせたに違いないし、それをこれほど自然に聞かせるブラームスの手腕の冴えにただただ脱帽するのみである。
構成はロンド・ソナタ形式で書かれている。主題は3つあり第1主題は以下の通り。
これがそのままニ短調に移ってくり返され、主題の確保がなされるのだが、その中でイ短調への転調が加えられ、更にへ短調、嬰ヘ短調と移りゆく。それがたった10小節ほどの間(ロ短調の部分を含む!!)で行われるのである。まさに魔法!!
ロ短調の属調にあたる嬰ヘ短調のファンタジックな響きの上に落ち着いた後、ニ長調(ロ短調の並行調)で主題のエコーが響く中、第2主題の提示へと移っていく。
第2主題は並行調の同主調となるニ短調で提示される。
第1主題のFis - Cis - Hの反行型が第2主題となっていて、全く性格は対照的なのだが、実は同じ素材から作品は作られているのである。第1主題は下降音型が中心で、フォルテでゴツゴツしていて、エネルギッシュ。一方で第2主題は上昇音型を中心になめらかで、囁くように歌う。ドルチェ、感情を込めて歌う。この対比が、背景となる音を同じものから作ることで統一感を生んでいるのである。
ただ、これはここでは全く展開されず、すぐに第1主題の動機が戻ってくる。大きく発展するのは展開部までかくしておくのである。第1主題は変ロ長調にはじまり、変ト長調、変ホ短調、変ロ短調へと次々に転調をくり返し、変ニ長調で一度落ち着くかに見えるとすかさず変ロ短調へと戻り、Ⅴ度上でスケールをかき鳴らし、続いてⅥ度上でかき鳴らす。これがロ短調のⅤ度と読み替えて第1主題へと戻るのだ。
第1主題の再現がロンド・ソナタ形式の特徴で、これの終わりで第2主題のエコーが優しく響くと提示部が終わる。
ロンドにおけるCの部分にあたるのがロンド・ソナタ形式の展開部である。
ここでは、第2主題がロ長調で出現する。メロディーに属音の保続音が高音に出現しているが、これは「鐘の音」ではないだろうか?アルペジオのような左手の伴奏部には対旋律が隠され、一聴するとショパン風のノクターンのような部分で、調性も落ち着いた部分(展開部の場所ではあるが、立体的な構造を持っていて、主要動機の発展も実に細かい操作が行われているのである。
それでも、最初の部分などの方がずっと展開部らしく、この部分はその全く逆に聞こえるあたりがユニークだ。ブラームスが一筋縄でいかない所以である。
これが終わると、第1主題と第2主題が型どおり再現され、展開部で高音に鳴り響いた「鐘の音」が低音に鳴り響き(主音)コーダとなる。
写真はリギ登山鉄道の車窓に広がるルツェルン湖の風景。]]>
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