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ルネ・クレマンシック指揮のルソー/歌劇「村の占い師」***
思想家にして著述家であったルソーは、音楽家でもあったことは知られている。童謡の「むすんでひらいて」が彼の作曲だと、かつてのガイドブックに書かれてあったのを信用して、「そうなんだ」と素朴に考えていたことを懐かしく思い出す。
ジュネーヴの大聖堂が少し下った旧市街の一角に生まれたルソーがシュザンヌおばさんの歌うシャンソンによって燃え上がった音楽に対する情熱は、生涯消えることはなかった。
さて、そんな彼が1752年に作った歌劇「村の占い師」は、ルソーの代表作であるだけでなく、その「むすんでひらいて」の原曲となったメロディーも最後のパントマイムで演奏される。
この曲にどれだけの録音があるのか知らないが、1956年に録音されたルイ・フレモー指揮のEMI録音のものを長く私は聞いてきた。ただ、この録音ミシューやゲッダの歌はとてもよいのだが、少々腰が重いというか、リズムが弾まないという傾向があった。
この度、購入した一枚は1991年録音のルネ・クレマンシックのもの。この軽快さは一体何なのだろう。そして今まで聞いてきたものは、一体何だったのだろう。古い物を聞き返してみて、改めてルネ・クレマンシックの録音が色々な19世紀の垢を落としたものだということがわかった次第だ。
前奏曲から軽快でリズムが弾む。ただし、クレマンシックの録音がオーセンティックな楽器を使用したものでは決してない。現代楽器を使ったものであるのだが、響きが重くならず、極めて軽快な響きの中で音楽が流れていくのだ。
ただ歌手はやや劣ると言わざるを得ない。コレットを歌うエヴァ・キルヒナーの声は響かずフレモー盤のジェニン・ミシューに遠く及ばない。ミシューは表情豊かにゲッダとの駆け引きを面白く聞かせるが、エヴァ・キルヒナーは平板だ。ドンキュー・チョイのコリンは健闘していると言っておこう。ゲッダがあまり適役とは思わないが、ドンキュー・チョイはより平板に聞こえる。
それでも私はルイ・フレモー盤よりもこの演奏の方を高く評価する。全てはクレマンシックの指揮にこそこの演奏の価値はあると思う。だだ、決定盤というには仕上げが雑と言うべきだろう。意外なほど難しいオペラだ。

NOUVA ERA/NE 7335
by Schweizer_Musik | 2005-01-31 23:30 | CD試聴記
朝、モノレールが遅れ・・・
c0042908_2253644.jpg今日は、朝、モノレールが遅れたりして大変だった。その上、花粉がずいぶん飛んでいるように思えた。目がかゆいし、くしゃみは出るし・・・。風邪気味であるため、花粉症なのか、風邪なのかがさっぱりわからん。体温が異常なのか、外気に対するセンサーがおかしくなっているのか、どうも暖かいのか、寒いのかわからない状況だ。
天気は上々・・・。教室から見える空はとても美しい。最後の学生が終わって学務室に戻ると、もう真っ暗だった。そう、先週のこの時間にはもう八月舎のT氏と会っていたっけ。
あれは本当に楽しい時間だった。夢中になって話しすぎたと反省はしているものの、良い人だったからだ。今日、原稿のいくつか手直ししたものを送る。何をおっしゃるのだろう。テストの結果を待つ心境だ。
今日き学校で授業とレッスンがあったので、原稿はすすまず。明日はもっと忙しい。喉は痛いし、本当、ちょっと休みたいところだが、そうは言っていられない。早く寝ることとしよう。
航空券の予約の確認のメールが来ていた。
by Schweizer_Musik | 2005-01-31 22:58 | 日々の出来事
取材旅行?
三月にヨーロッパに行かねばならない。学校の休みを利用しての旅行だ。
チューリッヒ交響楽団の指揮者ダニエル・シュヴァイツァー氏にインタビューしたいし、今書いている本の中に使う写真も撮っておかなくてはならない。こうなると、何としてでも売れる本を作らなくては・・・。
毎日、そのことばかり考えている。
航空券の予約は終わった。ルフトハンザ。12日に出かけて24日に帰るつもりだ。スイス・エアーは満席でとれなかった。行くのが土曜日になるためだ。何故その日にしたのかというと、14日にチューリッヒ交響楽団の演奏会があり、それにぜひ行きたいと思ったから。シュヴァイツァー氏が指揮をするコンサートだ。行くならば、トーンハレの写真も撮れるし、良い取材となろう。
by Schweizer_Musik | 2005-01-31 06:35 | 原稿書きの合間に
オーマンディ指揮のガーシュウィンとグローフェ *****(特薦)
c0042908_15313870.jpg我が家のCD棚を見ていてオーマンディが指揮したガーシュウィンとグローフェを「発掘?」した。最近フォーラムでオーマンディを好きという人がいたので、気に掛かっていたため、聞き返してみた。
ラプソディ・イン・ブルーにしてもパリのアメリカ人にしても、オーマンディはジャズ風の表現を注意深く避けて、純クラシックな表現に徹している。グローフェの組曲「グランド・キャニオン」もワーグナーか何かを演奏するような全くの正攻法である。
下手なジャズ風の演奏なんて薬にもしたくない。この演奏の素晴らしさはやはりオーマンディとフィラデルフィア管弦楽団であろう。間違いなくオーマンディは自分の表現に自信と誇りをもって、このガーシュウィンとグローフェに当たっている。こういう音楽だから自分をこう変えていこうということは微塵も考えていない。ラプソディ・イン・ブルーのソリストはフィリップ・アントルモンである。(CDにこの人の表記がなく、誰だったかを一生懸命調べた。こんなことしてる場合じゃないのに・・・気になるとどうも調べてしまわないと気が済まないのは性格のなせるわざか?)
アントルモンの演奏もラフマニノフか何かを弾くようなスタイルである。しっかりとしたタッチで弾くそれは、スケールが大きくそしてデリケートである。ラプソディ・イン・ブルーをピアノ協奏曲としてとらえ、まっすぐに解釈した結果なのだ。
パリのアメリカ人でもジャズ風の表現などには目もくれず、交響詩のような正攻法の解釈で、見事に演奏している。そのテンポ感の良さは定評のあるところだ。何度演奏してもほとんど演奏時間が変わらなかった(大家でもやる度に変わる人なんてザラにいる)プロ中のプロだ。各部分のテンポの変化も微妙で実に適正なテンポをとる。極端という言葉と太極にあるノーブルさ。それはオーマンディの演奏の立派な個性の一つだ。
ただ、途中でトランペットのゆったりとしたソロのメロディーには微妙な崩しをオーマンディは奏者に許している。しかし、オーケストラは何事もなかったかのように冷静に進んでいくのだ。
グローフェのグランド・キャニオンでの第4曲「日没」でデリケート極まりないルバートにはちょっと驚くが、こうしたルバートは彼らのマーチ集の中の「ポリュシュカ・ポーレ」の演奏で聞いたことがある。第一級のアンサンブルが甘い表現を志したらここまで蠱惑的になるのかと、驚かされる。この「日没」がその好例となろう。
また、第5曲「雷雨」の最後に「山道を行く」のテーマがトロンボーン群によって高らかに鳴り響くあたりは、ワーグナーの「タンホイザー」序曲のようで、この大雑把な作りの作品から、こうした響きを紡ぎ出すオーマンディの手腕は並々ならぬものと言える。
グローフェのスコアは、かなりきめの粗いもので、大きくとらえて聞くようなところがある。どちらかと言うと映画音楽風であって、交響管弦楽風ではない。構成が緊密でないとかいう以前に、音楽自体が細部まで練り上げられたものというわけではないのだ。
それ故に、オーマンディのようなオケの力量にたより、スコアのキメの粗い部分はオケの素晴らしい響きで圧倒してしまうような演奏は、従って強い説得力を持つ。かつて私のナンバー・ワンであったアンタル・ドラティとデトロイト交響楽団ゆ軽快なスラトキン(お父さんの方)とハリウッド・ボウル交響楽団の演奏のように、オケの力量がこの曲の正否を分けるポイントだと思う。
そう思わせるだけの説得力のある演奏であった。見事!!

オーマンディ/ガーシュウィン&グローフェ/SONY-Classical/SRCR 1520
by Schweizer_Musik | 2005-01-30 15:32 | CD試聴記
スイスの鉄道の歴史をひもとくと・・・
スイス最初の鉄道駅が誕生したのは1845年。フランス・ドイツとの国境にあるバーゼルであった。フランス・アルザス鉄道のバーゼル駅としてであった。
スイス国内に鉄道が敷設されるのは、この2年後の1847年。
フランスやドイツがバーゼルからチューリッヒまで鉄道を延ばしたいと考えていたが、保守的なスイスの人々は、それにのろうとはしなかった。

1847年チューリッヒとバーデンの間、約25Kmをスイス国内はじめての鉄道が走る。実はこの鉄道は1836年にすでにチューリッヒで創業していた鉄道会社だった。しかし、鉄道施設の許可がおりないまま、10年以上待たされたのだった。
ようやく開業したこの鉄道は、バーゼルで作られた新鮮なパンをチューリッヒに運んだことから、スペイン・パン列車と呼ばれた。
しかし、スイスの鉄道はこの後七年もの間、この1区間だけだった。すでにフランスやドイツでは鉄道網は充実しつつあった。
こうした鉄道を利用しての観光も盛んになりつつあった。にも関わらず、スイスではこの面での発展は遅れをとる。
これは、当時のスイスで分裂を画策する急進派が支配権をとり、国内、諸州がかなり荒れていたという事情も考慮する必要があると私は考えている。1847年に分裂と内戦の危機の中から、結果的にスイスは大きな賭とも言える1815年のウィーン会議で承認されたスイスの永世中立の立場を、あくまで列強諸国によって押しつけられて物でなく、自らの主権を高らかに主張し、結果的に列強諸国にこれを認めさせ、たった50年間でナポレオンのヘルアヴェチア共和国やその崩壊といった体制の変化を三度も経験したスイスの人達は1848年にようやく一つの国としての憲法を制定するに至るのだ。
こうしたスイスの内政の問題が、鉄道網の充実にも足枷となっていたのではないだろうか。しかし政治的な安定とともに、諸州が鉄道を積極的に導入していくにつれて、スイスはヨーロッパでも最も鉄道網が充実した国への発展していく。
この話の続きはまた今度・・・
by Schweizer_Musik | 2005-01-30 10:28 | 原稿書きの合間に
ワルター/ウィーン・フィルのアイネ・クライネ、田園などを聞く *****(特薦)
夕べ、ぐっすりと眠ったおかげで、大変気分がよいので、久しぶりにブルーノ・ワルターが振ったモーツァルトのアイネ・クライネとベートーヴェンの田園を取り出して聞く。オーパス蔵の復刻である。先日、学校の帰りに御茶ノ水の中古CD店で買ってきたもの。もう一つフランク・マルタンのDVDもあるのだが、これはまた今度。
で、このオーパス蔵の復刻を聞く。SPからの復刻で、針音は派手に入っている。とは言え楽音をかき消すようなものではなく、これを取り除いて楽音まで取り除いてしまったような、情けないCDも数多くあるだけに、文句はない。いやそれどころか、これをきっとSPで聞いていた人はこんな音を聞いていたのだなと感じるほど生々しい復刻と言えよう。
モーツァルトのアイネ・クライネ、ベートーヴェンの田園、もちろんオケはウィーン・フィルだ。戦前のナチスがオーストリアを併合する直前の、ウィーン・フィルが最も美しかった時代の録音である。多くの評論家、愛好家が絶賛して止まないこの演奏。聞き返してみてやはり美しかった。こんなに美しくっていいのだろうか。アイネ・クライネの第2楽章を聞いて、これ以上の優雅さを感じることは不可能ではないかと思ってしまう。絶美である。第3楽章のメヌエットも速すぎず、トリオでのテンポの変化も、実に自然で優美だ。
戦後、アメリカに渡った後の録音も残されている。ブルーノ・ワルターのコロンビア交響楽団との晩年の演奏も実に美しく、はじめて聞いた時はこれが決定盤と思ったものだ。しかし、このウィーン・フィル盤のアイネ・クライネの美しさは尋常でない。アンサンブルには多少のズレというか崩れは感じられるが、わざとやっているような自在感がある。終楽章のテンポの自由さは一体何なのだ。そしてそれにぴったりとつけていくウィーン・フィルの弦の素晴らしさ!!。
ベートーヴェンの田園もまた決定盤の評価も高い録音だ。はじめから終わりまで、優雅でおおらかで、それでいて実にデリケートな音楽・・・。第1楽章の冒頭、あの民謡にまでなった親しみのあるメロディーが、自在に息をするように始まる。テンポは決まっているのだが、冒頭から自然なテンポの変化がある。同じ動機を繰り返す、なんだがブルックナーのようなところがこの田園にはあるが、推移部でのそうしたところをアチェレランドしていくワルターのスタイルは、伝統的なものであるが、彼がやるとなんと自然であることか。
木管の優美な響きがとても良い。しかし、それ以上に弦の響きに特徴がある。ウィンナ・ホルンだとか、古い伝統的な楽器を使っているとかで、よく木管・金管の響きにウィーン・フィルの特徴があると言われるが、私はドイツ・オーストリア系の弦楽器の最高の伝統を引き継いだと思われるウィーン・フィルの弦楽セクションにこそ、その特徴があると考えている。
第2楽章の小川のほとりの情景の美しさは何事だと思うほどだ。冒頭の弦のざわめきは木々の葉にそよぐ風の音だろうか。クラリネットはレオポルド・ウラッハだと言われるが、この楽器に特別の思い入れがある私としては、この演奏でのクラリネットの演奏に最も愛着を感じる。ちょうど真ん中あたりでのクラリネットのアルペジオが経過句を彩るところなど、何て優雅に吹くのかと感嘆の声を挙げてしまった。
しかし、針音はやはり気になる。それでも今までこの演奏をヴェールの向こうに響きそれを想像で補いながら聞いてきた私としては、十分過ぎるほどだ。時折、金属質に弦の音が変質してしまっているのは、経年劣化の故と思われ、そこまでは復刻は不可能だったのだろうか。
ワルターの演奏がテンポが遅いと思っている人がいたら、この「田園」を聞かせたいと思う。キビキビと運ぶ中で、微妙なテンポの変化がそれぞれのフレーズの性格を際だたせ、優美のディナーミクの変化と音色で彩る様は、運動神経が麻痺したようなダルな演奏とまるで対極に位置していることを思い知ることだろう。
第2楽章最後の郭公やツグミといった小鳥の鳴き声が描写される部分の美しさは、もはや語り尽くされた感がある。
第3楽章からのアタッカで続く3つの楽章は、決してワルターが力強い表現を苦手になどしていなかったことをよく表している。第4楽章の「雷雨」の表現が生ぬるいなどという人がいたら、この演奏を聞かせたいところだ。コンバスとチェロの4連符と5連符の低音でのズレが引き起こすゴーッといううなりの上に近づく雷雲。やがて雷鳴の轟きとともに豪雨が襲ってくる。その様子を実に音楽的によく表現している。そしてその全てというのは無理があるにしても、このオーパス蔵の復刻盤の中から、そうした様子がよく聞こえてくる。やがて雷雲が通り過ぎていく時のティンパニーのトレモロがこれほど効果的であった試しはない。そして終楽章の感謝の歌の見事なカンタービレ!
伝統的な改変は諸処に聞かれるとは言え、この歴史的名盤を余すところ無く復刻したものだと思う。しかし、針音はなんとかならないものだろうか。CDの無音の状態に慣れてしまった私としては、気にするなと言われても気になってしまう・・・。無理な話なのだろうか?
あと一曲、ベートーヴェンのレオノーレ序曲第3番が入っている。力強い演奏だ。これら全てが1936年のウィーンで録音されただった。すごい時代だったのだ。今のウィーン・フィルとは全く違うウィーン・フィルである。昔が全て良かったとは言わないが、このウィーン・フィルを愛する人は、失われた物をいつまでも心中で愛しみ続ける切なさにも似た愛着を、これらの時代のウィーン・フィルに持ち続けているのではないだろうか。
これほどの名盤に評価など無用だと思うが、当然*****(特薦)をつけて置く。無印では無礼だ。

オーパス蔵/OPK 2021
by Schweizer_Musik | 2005-01-30 09:58 | CD試聴記
風邪薬のおかげで
c0042908_7424068.jpg風邪をひいたらしいと書いたが昨日、少し酷くなったので、久しぶりに風邪薬を飲んで寝る。おかげて大変よく眠れた。
金曜日あたりの朝の天気予報では日曜日はものすごく寒いようなことを言っていたが、天気もよく暖かい朝を迎えた。窓から見上げると雲一つなく、これなら富士山もきれいだろうと撮りに行く。フィルムというものを介さないことはこうも写真を軽快にするものだろうか。撮ってきてすぐに加工してアップできる。ほとんどライブ・カメラのようだ。長らく銀塩派だった私も宗旨変えをする時期が来たらしい。
ところで右の写真の左上の点は月である。小さくしてゴミみたいになってしまった。反省・・・(笑)
by Schweizer_Musik | 2005-01-30 07:42 | 日々の出来事
歴史的名盤カザルスの無伴奏を聞き直してみて
c0042908_14411452.jpgこの歴史的名盤をもう一度聞き直してみようと思った。我が家のCDラックの底から、昔買ってあったEMIの十枚組が「発掘」されたせいだ。確かナクソスの復刻でも持っていたが、あれは実家にある。
この演奏は、いつもこの曲のベストのトップ・スリーに入る名盤だ。定評があるわりには、どういう演奏なのか、あまり批評の対象となっていないようだ。批評することだけでも畏れ多いということか。フルトヴェングラーのバイロイト祝祭ライブの第九のようなものだ。だからこそ、ありがたがって聞くのではなく、どういう演奏なのか、じっくり味わってみたいと思った。
30年代に主にパリで録音されたものだが、ほとんど一気に録音されているところをみると、パブロ・パウ・カザルスはかなり調子が良かったものと思われる。
第一番は平均率クラヴィーア曲集の第一巻第一曲の前奏曲などと同様、分散和音の音型を維持するタイプの前奏曲だ。リズム的な変化の無いこの音楽をカザルスはバロック以前の演奏スタイルの一つである不等速音符のように三連符に近い揺れを伴って演奏する。言い方を変えるとスウィングのようなものだ。
このスタイルは比較的単調な音楽の場合にとられることが多いが、古い巨匠タイプの演奏家に時折聞かれることがある。例えばラフマニノフがそうだった。彼の自作自演の第3番の協奏曲の第一楽章のテーマを、このカザルスのバッハのように微妙な揺れが与えられている。あちらは自作自演であるから、我々は解釈上の規範として理解すべきだろう。
こうしたリズムの微妙な揺れは、彼の拍子感にその根本があるように感じられる。それは、一小節を大きく円運動としてとらえ、そのリズムに起承転結があるということ、そして、動き、運動感を与えていることだ。
この運動感が彼のバッハの太い筆致を演出している。
一方、第4番のサラバンドのようにゆったりと深い思索を感じさせるような音楽では、ものすごい息の長いブレスで、大きな弧を描くように歌い上げる。このあたりにこの演奏の印象の強さがあると言えよう。
第5番のクーラントの躍動感はどうだろう。生き生きとしてこれがたった一本のチェロから繰り出される音楽とは到底思えないスケールである。
聞き返してみて、さすがに世紀の名盤と言われるだけある。ムスティスラフ・ロストロポーヴィッチの録音が鳴り物入りだったわりには、意外なほどショボイ演奏だったのはどうしたことだろう。カザルスを彼は意識しすぎたのかもしれない。そして、本当にこの音楽に相対する時期を逸したのだろうか。
この録音を行った時、すでに60才になっていた。その後30年以上も元気に生きたカザルスは、この録音を行った時、まだ気力体力共にこの作品に挑むだけのものを維持していたのだろう。そしてその後、この曲の録音は行っていない。
カザルスの他には、ピエール・フルニエの1958年ジュネーヴでの放送録音や、ガスパール・カサドなどの録音に心動きながらも、このカザルスの録音が今後も私にとって一番で在り続けることだろう。

The Art of PABLO CASALS/EMI/TOCE 6701〜10
by Schweizer_Musik | 2005-01-29 19:52 | CD試聴記
ちょっと用足しに・・・
c0042908_128520.jpg 午後から天気が崩れるというので、朝食をとってすぐ用足しに大船まで散歩がてら出かける。必要なものを買ったついでに駅ビルの六階にある本屋に立ち寄る。ここの本屋は私の好きな本屋だ。学校の近くにある"あおき書店"もよく行く本屋なのだが、品揃えにかなりムラがあって使いにくい。しかしここは、店の大きさはそれほどでもないが、品揃えはまずまずである。
ムジカノーヴァに先日、私がプログラム・ノートを書いた伊藤愛未のピアノ・リサイタルの批評が載っていた。暖かい批評だ。彼女の課題もきちっと指摘しながらも、良い点をあげて今後への期待を抱かせる。確か、リサイタルでは何人かの批評家を見かけたが、この批評は他人事ながら、なんとなくうれしい。伊藤さんには、さらなる精進を期待したい。彼女の弟さんが、私の教えている学校に今度入学するという。お会いする日が楽しみだ。ちなみにサクソフォンを勉強しているそうだ。
ところで、ムジカノーヴァのとなりに「音楽現代」があった。とりあえず立ち読みする。立ち読みに至った原因は、今年ブレイクしてほしい・・・何とかいう企画にラフが挙げられていたからだが、内容の無さにほとほと情けなくなった。この雑誌はコンサート情報といろんな提灯記事で成り立っているに過ぎない。買う必要はない。きっと載せてもらった企業や学校が大量に買っていくのだろう。しかし、本屋にこれが性懲りもなくおいてあるというのは、やっぱり買っていく物好きがいるからだろうか。
帰る道すがら、ピアノのことに触発されて上原彩子のことを思っていた。彼女は私がかかわっていたJOCの卒業生だから、関心も人一倍ある。c0042908_1283822.jpg前にクラシカ・ジャパンでずいぶん放映されていて、私もずいぶん聞いたが(見たが)、あの子はじっと解釈を深める時期をおくべきじゃないかと思う。すごい大器であるだけに、世に出すぎてつぶれないことを祈りたい。
こんなことを考えながら歩いて帰る途中、どちらかの家の庭先のはっさくが朝日に輝いていて、思わず見入ってしまった。
良い散歩であった。帰ってしばらくすると曇って来た。やはり午後からは天気が崩れるらしい。
by Schweizer_Musik | 2005-01-29 12:10 | 日々の出来事
ゴホンと言えば・・・
c0042908_3531535.jpg夕べのひれ酒が効いて、早く寝てしまう。こんなことをすると早く目覚めてしまい、ボーッとしばらくすることとなる。確かに昨日はひれ酒を飲んだようだが、いつ寝たのか記憶がすこぶる曖昧だ。惚けてきたのだろうか。
本人が惚けを気にする位ならまだ大丈夫だろう。
しかし、どうも昨日から喉の調子が良くない。風邪をひいてしまったようだ。2〜3日前から次女が「喉がいたい」と言っていたが、昨日は女房が「体調が良くない」と帰ってきてから寝込んでしまい、ついに私だ。
久しぶりに龍角散を取り出して飲む。こいつの場合は飲むと言うよりも喉に塗るというのが近い。ちょっとだけすっきりする。
かなり昔のことだったが、鹿児島で講師研修会にこの龍角散の社長を呼んで話を聞いたことがある。無類の音楽好きということで、なかなか面白い話だった。その時だったか、その次だったか、私の木管三重奏と五重奏のアンサンブルをやったことを、この龍角散でふと思い出した。もう15年以上も昔のことだ。すでに結婚はしていたような気がするが・・・。10年を越えるとどうもこうしたことははっきりしなくなる。風邪のせいではないらしい。
by Schweizer_Musik | 2005-01-29 03:53 | 日々の出来事