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スイス・ロマンド管弦楽団の誤解と理解
私もずいぶん書いてきたが、スイス・ロマンド管弦楽団について書かれたもののそのほとんどがアンセルメとこのオケについてである。実はこれがこのオケの不幸の全てではないだろうか。
アンセルメがフランス物とロシア物を得意としたと誤解されているところに、更に不幸がある。彼のデビュー・コンサートのプログラムはベートーヴェンなど、ドイツ物一色だった。そして彼が心から心酔していた指揮者は、アルトゥール・ニキシュであったことも、考慮すべきだ。
しかし、彼の本領はそのキャリアの初期でたたき込まれたバレエの指揮にある。その弾力のあるリズム感はユニークにして全く他の追随を許さない。オケの精緻さは考えたほどではないが、その卓越したバランス感にこそ彼の素晴らしい耳とセンスの良さがある。
ロシア物なども、極めて標準的なというか、平凡な出来である。彼のチャイコフスキーの「悲愴」などは明らかにシンフォニーでなくバレエ音楽になっている。そこに彼の限界も魅力もその全てがあった。
だから、精緻な組み立てによるベートーヴェンやブラームスは合うはずなのに、そこにアンセルメは入らざる解釈をして、無理な動きを加えてしまう。「運命」などは明らかに駄演である。しかし、「田園」はすこぶる美しい。このばらつきがアンセルメのドイツものであろう。
私は、彼のベートーヴェンやブラームスを買わない。あまりに解釈と演奏に開離がある。彼の演奏の美質であるリズムが生きていないからだ。

オケがフランス風というか、アンセルメ風にチューニングされていたと言う話がある。確かにボウイングにそうした傾向が60年代は聞けないわけではない。しかしフランス語圏のスイスであるから、フランス風というのは単純であるが、そう簡単な話ではない。
実際にアンセルメの弟子にはペーター・マークなどもいる(彼はドイツ語圏のザンクトガレンの出身)。
そして、彼の後をうけたのはクレツキ(この名指揮者は早くからスイス国籍を取得し、ベルン交響楽団の指揮者として活躍していた)であった。彼をぜひにと自分の後継者に引き抜いて来たのはアンセルメ自身である。クレツキを指名したこと自体、アンセルメは自身が創設し、育て上げたこのオーケストラをドイツ風の物と考えていたことは、おそらく間違いない。
しかし、クレツキは不幸にも身体を病んでいたため、その任を全うすることができなかった。
そしてサヴァリッシュがその後任に選ばれた。サヴァリッシュが好きか嫌いかと言われると、私はあまり好きではない。しかしドイツ語圏を代表する、大変クレバーな指揮者であることは間違いなく、当時このジュネーヴに住んでいたレッグなどが、契約しようと何度も足を運んだことでも知られている。
六十年代にはサヴァリッシュはマゼールなどと共に、時代に寵児だったのだ。その彼が連れてきたのがヴィンタートゥーアの伝統あるオーケストラ(その前身の団体は1600年代にまで遡ることができるほどだ)のコンサートマスターをしていたペーター・リバールであった。彼はドイツ・ヴァイオリン楽派を体現するチェコ出身のヴァイオリニストで、マルティヌーなどの作品をはじめ、数多くの同時代の作品を初演している。
彼はジュネーヴ音楽院の教授としても活躍。1980年に引退するまで、このフランス語を話すスイスの地で大きな影響を与え続けたのだった。
彼の後を受けたのが、北ドイツ風の質実剛健なホルスト・シュタインだった。しかし、彼らは常にアンセルメの時代のドビュッシーやラヴェル、あるいはストラヴィンスキーやチャイコフスキーといったレパートリーを求められた。そしてそれは、彼らの本領とするレパートリーではなかった。
これが、スイス・ロマンド管弦楽団への第2の誤解のはじまりだった。
そしてこの誤解をとくためにスイス人の指揮者アルミン・ジョルダンが満を持して就任する。就任のコンサートは歴史的な大成功だった。人々は歓喜し、道路に溢れた人々が熱狂して彼を迎えたと言う。冷静なジュネーヴ市民がそこまでの行動に駆り立てたのは、おそらくは彼がスイス人でなく、アンセルメのレパートリーを得意としているということもあったのかも知れないが、彼の美質はモーツァルトやシューマン、ブラームスなどにあった。
さて、多くの人が誤解しているのは、彼はドイツ語圏のルツェルンの生まれであり、母国語はドイツ語である。フランス語ではないのだ。確かにエラートの早くから契約していたため、ラヴェルなどのレパートリーも持っていたが、始めの頃の録音はモーツァルトの協奏曲の共演が中心であったし、イタリアのヴァイオリニスト、フランコ・グッリと共演したモーツァルトのヴァイオリン協奏曲などはグリュミオーの演奏と並ぶ世紀の名演だった。ただ多くの人にとっては若いピリスと共演したモーツァルトのピアノ協奏曲の方が親しみがあるかも知れない。そしてこれが第3のスイス・ロマンド管弦楽団への誤解であった。

このアルミン・ジョルダンが連れてきたコンサート・マスターはツィマンスキーという優秀な若手であった。彼はアンセルメのレパートリーを要求する人達の期待に応えた。そしてその上でアンセルメが取り上げなかったマーラーの交響曲や、シューマンの大規模な作品をそのレパートリーに組み込んでいった。完成度は今ひとつでありながも、こうしたレパートリーを加えることで、新たな時代と世代に引き継ごうと彼はしたのだった。
彼は一時体調を崩して、このオーケストラから去ることになったが、今も密接な関係を続けているようだ。
さて、こうした中、イタリア人のファビオ・ルイジがシェフに就任した。折しも、ジュネーヴの州当局のオーケストラへの助成金が大きくカットされ、オーケストラは厳しい運営を迫られていた。ルイジはジュネーヴに居を構え、積極的にオーケストラのアンサンブルを鍛え直した。
彼の功績は大きいと私は高く評価している。その最後の頃にルイジとスイス・ロマンド管弦楽団は来日をする。しかし、日本のアホなプロモーターがアンセルメ時代のレパートリーをまたもや要求し、得意とするレパートリーではなく、本領を発揮できないままに日本公演は好評を得るには至らなかった。これはまだアンセルメの怨念がこのスイス・ロマンド管弦楽団を覆っていることを思い知らされたのだった。
そして、ファビオ・ルイジが去った後には、アメリカからドイツ系のピンカス・スタインバークが就任する。スタインバークの時代、全くスイス・ロマンド管弦楽団は世間の注目を得ることはなかった。
そしてドイツ系のヤノフスキーの就任となったのだ。

ヤノフスキーの退任に当たってのフランス放送フィルハーモニーと作った四枚組のアルバムは、まさに彼がオーケストラ・ビルダーとして、類い希な手腕を持っていることを示している。個性的な解釈とか、アレグレッシブな演奏というのは、彼の世界ではない。私は彼の就任がもう五年早かったらと思わざるを得ない。少なくとも、スタインバークでなくヤノフスキーであったら・・・。

さて、スイス・ロマンド管弦楽団はスイスのオーケストラであって、フランスのオーケストラでは決してないのだ。フランス国境の町のオーケストラではあるが・・・。それならば、バーゼル交響楽団もフランス国境の町のオーケストラだ。このヨーロッパの縮図と言ってもよいスイスだからこそ、こうした誤解が数多く存在するのだろう。
あまりに多い誤解を解いて、素直を音楽を聞いて評価していきたいものだ。フランス風とか、アンセルメ風などというよくわからないフィルターを通して見るのではなく、フランス語、ドイツ語、イタリア語、ロマンシュ語という4つの言語を持つ、ヨーロッパの分水嶺に位置する国、それだからこそ永世中立を選ばざるを得なかった不毛の国、スイスの、独特の文化を持つ国の音楽文化として、味わうことが大切だと私は考える。
by Schweizer_Musik | 2005-03-31 23:55 | 音楽時事
コンサート・マスター
c0042908_11521710.jpgコンマスについて、おかかダイヤリーで興味深い記事があった。知り合いのコンマスとしては、名古屋フィルの日比浩一氏や神戸フィルの福富博文氏などが思い浮かぶ。他に矢部達哉さんも少しだけ知っている程度。日本のオケに来ている何人かの外国人コンマスも知ってはいるが、深くつき合ったことはない。今ひとつ上手いという印象がないが、日比さんや福富さん、それに言うまでもないが矢部さんは私の会ったヴァイオリニストの中でもとてもとても上手い奏者たちだった。
よく誤解されていることだが、コンサート・マスターとはそれぞれの楽団によって立場がそれぞれに違うのは言うまでもない。多くの場合、彼らは団員ではなく、指揮者と共にあちこちのオーケストラを渡り歩く。一年契約でそのオケの要である第1ヴァイオリンのトップに座り、アンサンブルの中心となり、演奏を成功に導くための様々な業務を行う。
例えば、指揮者と楽員の間に立って考えなどを取り持つとか、アインザッツの明確でない指揮者をそれと知られずフォローをしたり、落ちてしまった奏者に指示したり(笑)と様々な仕事が彼を待っているものだ。
パート譜にボウイングの指示をしたりするのも、指揮者の意見を尊重しながらも基本的に彼の仕事となることが一般的だ。
したがって、コンマスのギャラは、他の楽員たちとは全く違うのが普通だ。当然、後ろの方に座っているいわゆるトゥッティと言われる奏者たちとは、ギャラも一桁以上違うことがある。ただ、上手い下手というのと違う。トゥッティといわれる奏者と、ソロをとることもあるコンマス、あるいはそれほどではなくともソロが回ってくることがある首席奏者とは、必要とする技量が違っているというのが正しい。ギャラはその対価である。
指揮者によって、このコンマスを連れて回る人もいる位で、良いコンマスとなら、私のようにヘボな指揮しかできない者でも、なんとかボロをださない程度にはなる。まぁ、「春の祭典」みたいな曲を振れと言われれば、どんなコンマスがついてくれてもご遠慮申し上げるしかないが・・・(笑)

先日、チューリッヒ交響楽団のリハーサルとコンサートでコンサート・マスターに座っていたのはツィマンスキーという人で、彼はチューリッヒ音楽院でヴァイオリンを教えながらこのオケのコンサート・マスターとしてレギュラーで出演していると言う。彼はかつてスイス・ロマンド管弦楽団のコンマスで、チューリッヒ音楽院の先生になるというので、スイス・ロマンド管弦楽団を辞め、チューリッヒに引っ越してきたところでこのオーケストラのコンマスになったという。
彼は派手な音ではないが、実に上手かった。リハーサルはメンデルスゾーンの交響曲第1番だった。通しのリハだったので、そう細かく聞いていたわけでも無い(写真を一生懸命撮っていたので)が、アンサンブルの要として大きな身振りをするわけでもなく、全く完璧な仕事をしていたのはさすがだと思ったものだ。
彼は、アルミン・ジョルダン時代のスイス・ロマンド管弦楽団のコンマスとして数々の録音に名を連ねている。すぐに手に入るものとしてはマーラーの第4番(アルミン・ジョルダン指揮ERATO)があるので興味のある方はどうぞ。
室内楽なども彼は上手いのだろう。日比さんや福富さん、あるいは矢部さんも室内楽がとても上手い。ソリストとしても完璧だ。
こうした仕事をするコンマスが、オケと指揮者にかみついている。彼らの演奏としてはバルトークのオケコンなどを持っている。そう悪い演奏ではなかったと思うが、今日、聞き返してみることとしよう。
上の写真は、チューリッヒ郊外のゲマインデ・ハウス(日本語に無理矢理訳すとしたら地域の公民館)で行われたシュヴァイツァーの指揮するチューリッヒ交響楽団のリハーサル。指揮者の右側に名コンマスのツィマンスキー氏が写っている。
by Schweizer_Musik | 2005-03-31 11:42 | 音楽時事
春の便り
c0042908_9252954.jpg散歩に出たら、春の便りがあちらこちらにあった。三月はじめ、私が講師をしている学校の近くの公園で、早咲きの寒桜が見頃だった。
スイスに出かけた日、スイスは吹雪だった。降り続く雪の中、車の中からチューリッヒの駅を見たとき、何だか涙が出そうになってしまった。懐かしさのあまりである。
その後、シュヴァイツァー氏のお宅について、私のささやかなスイス滞在が始まったのだが、その翌日からスイスに春が来たのだった。
私の今回の滞在は最初の日が冬で、翌日が春だった。
その後、春のスイスは劇的な変化を遂げていった。雪が溶けて地面が見えてくると雪割草が一面に咲き誇り、雪一面だった斜面に緑が一気に広がっていく。コートを着て歩いていた前日の冬の日から、次第に軽装となっていく町歩きは、一層愉しいものとなっていたが、何しろコートを着て歩いていた女性が、いきなりノースリーブになるのだからその劇的変化がわかっていただけるのではないだろうか。
毎日の列車から見る車窓に、凍結していた池があったのだが、それがスイスを去る日には氷も融けて、緑の水面を映していた。
帰って来るともう桜の便りが聞けると思っていたが、どうも今年は遅いようだ。今日やっと横浜で桜が咲いたと言うので、近くの桜はまだ咲いていない。最もちょっと日陰になっているので、その我が家の「桜の名所」は他よりも遅いのだが。
でも、紅梅はもう終わり、梅はもう桜にその花の季節を譲ろうとしている。暖かいよく晴れた朝。桜の便りが待ち遠しいばかりだ。
by Schweizer_Musik | 2005-03-31 09:23 | 日々の出来事
久しぶりに列車で出かけた
c0042908_21472030.jpg久しぶりに学校へ行って来た。行き帰りの列車はかなり混んでいたが、混んだ車内で立っている人がたくさんいるのに、平然と座席に荷物を置いてしゃべっているおばさんが二人。
まぁ、日本ではよくある光景か。スイスでは滅多に見なかった。混む時間帯には、車両を増やすので座れないということがあまりないからだ。日本の混んだ列車が久しぶりだったので(帰国してから近くの商店街にはよく出かけてはいたが・・・)何だか珍しいものを見たような気になった。
スイスの風景が懐かしくてならない。
by Schweizer_Musik | 2005-03-30 21:47 | 日々の出来事
ミーク作品集 ****(推薦)
イェックリンから出ているミークの作品集を紹介する。ミークは1906年にスイスのチューリッヒの近くのレンツブルクという町に生まれた作曲家で、1990年に亡くなった。戦後になって活動を本格化させた晩成型の作曲家であったとは思うが、残念ながら資料があまりに少なすぎるので、思い切ったことを言うことはできない。
いずれにせよ、晩年にいたるまで筆を折ることはなく、1986年に書かれたチェロ・ソナタなど、枯れるということとはおよそ無縁の作曲家だった。
作風は擬バロック調というか、完全に調性の範囲で書かれていて、大変聞きやすい反面、展開の方法、フレーズの作り方などに独特の味わいがある。
このCDではそうした彼の作風を味わうにはうってつけだと思う。また歌曲も多く残しているようだが、平易な作風の歌曲は、新民謡とでも言ってよいだろう。 これをどう評価するかで、この作曲家の位置づけが変わってくるのだろう。彼の作品で使われる平易な三和音を、アカデミックで古くさいと言うのは簡単だ。だから独特の味わいがないというのは、聞く耳がないに等しい。
さて、まず最初のイタリア風三重協奏曲を聞いてみる。1978年に書かれたこの作品は、翌年のルツェルン音楽祭で初演され録音された。このCDの録音はそれであろう。若き日のヴェンツァーゴ(彼は今年からエーテボリ交響楽団のシェフとなった)の清新な指揮振りが気持ちよい。ルツェルン祝祭弦楽合奏団の見事なアンサンブルはもちろんのこと、ラルセンス(vn)、ゲルラッハ(va)、コーライ(vc)といったソリストたちの丁々発止といった掛け合いもスリリングだ。聞き始めていつの時代の作品?と思ってしまう。これは全くバロック音楽だ。しかし、次第にフレーズがデフォルメし、半音階的なフレーズがチェロに現れる。それでも決してバロック的な調性の範囲でハーモニーが作られ、様式的な違和感が何とも微妙な味わいをもたらす。
第2楽章 Canzonettaの美しい旋律はバロック音楽の単純さを完璧に維持しながら、よく聞けば20世紀の音楽以外にあり得ないフレーズを作っている。ちょっとした音のぶつかりやテンポの変化、クライマックスの持って行き方は、バロックの様式でありながら独特である。カンツォネッタというより「エア」なのだ。終楽章はタランテラかジークの様式かと思ったら、二拍子のヴィヴァーチェで書かれている。あちこちに面白い響きがちりばめられていて、決して飽きさせないが、もう少し終楽章は斬新な響きがあっても良かったかもしれない。
しかし、おそらくこれがミークなのだ。独特のハーモニーとかはない。彼は胸を張ってヴィヴァルディの世界から出発する。1978年と言えば、クシシトフ・ペンデレツキたちが少しずつネオ・ロマンティシズムへと舵を切り出した頃だが、これをミークは1950年代からやっていたとは・・・。
続く作品はテノールと管弦楽のための歌曲集「夜そして夜に」である。全六曲からなるこの作品はホフマンスタールの詩につけた3曲からなる連作であるが、このCDでは6つのトラックが区切られている。歌うのはスイス東部のダヴォス出身の世紀のエヴァンゲリスト、エルンスト・ヘフリガーで、トーンハレ管弦楽団の指揮者として有名なエーリッヒ・シュミットがチューリッヒの放送局のオーケストラ(シェルヘンが指揮していたベロミュンスター放送管弦楽団)が共演している。
1962年の作品で、全曲よりもずっと暗く、重い内容を含んでいる。どこかマーラーの管弦楽伴奏の歌曲集のようなところもある。オーケストレーションはユニークだ。 海岸にうち寄せる波の音も止み、星がきらめくと歌い始めると、ミークがただのバロック風の作品ばかり書いていたわけでないことを思い知らされる。(そんなわけがないのだが・・・笑)オーケストラをシンボリックに扱い、歌の背景を饒舌に描くミークの実に感動的なスコアだ。
これはアールガウ州の依頼で書かれ、エルンスト・ヘフリガーが初演している。共演はこの時はエドモン・ド・シュトゥツの指揮するトーンハレ管弦楽団であったというが、この録音が残っていたらぜひ聞きたいものだ。「大熊座は澄み切った夜空を与えられた」とテノールが力強く歌い、弦が背景を作るとテノールと木管群が掛け合う辺りは秀逸だ。歌に常に木管が絡み、弦は背景にという具合だが、ここぞという時にその弦が中心となってサウンドを作っている。
日本で歌った人はいないのではないだろうか?だったら・・・「良い曲ですよ、誰か日本初演しませんか?」ちょっと宣伝したくなるほど面白い作品だ。知られていないだけの名作なんていくらでもある。そうした鉱脈を見つけられず、同じ所で同じものばかり食べさせられるのは、私はゴメンだ。
ミークの他の作品でも歌曲は彼にあっていたようで、晩年の1985年に書かれたというメゾ・ソプラノのための3つの歌などもよければぜひ一度聞いてみてほしい。ただ、良い演奏がないのが残念だ。

フルートとハープのための優雅な小品 (1969)はペーター=ルーカス・グラーフ(fl)とウルスラ・ホリガー(hrp)によって演奏されている。世界的な名声を誇る彼らに、この録音があることを知る人は少ないのではないだろうか。六分半ほどのデュオ作品で、実に良い感じである。この2つの楽器のデュオと言えば、ジャン=ピエール・ランパルとリリ・ラスキーヌの二人が録音したエラート盤がすぐに頭に浮かぶ。かなり長い間、繰り返し繰り返し聞いていた。LPの頃の話である。中に入っていたイベールの小品やダマーズのソナタが特にお好みだった。
しかし、イベールの機知やダマーズの知性は、この作品に求めても無駄だ。それはミークのものではない。
基本は三拍子でありながら、微妙な揺らぎが与えられている。基本はソナタ形式でありながら、大きなテンポの変化もあり、かなり自由な形式に様式をシフトしていると言えよう。
この二人のために書かれた作品故に、演奏が素晴らしいことは自明のことであり、私のつたない文章を必要としていない。これ以上の演奏があるかどうか。柔らかなハープとフルートのダイアローグで、バレエ音楽のようですらある。

続いて、1954年、ミークが世に認められはじめた時代の頃の七重奏のための音楽がおさめられている。全4楽章からなる作品で、彼が新古典主義的な作風をその出発点にしていたことを知ることができる。チェンバロが使われている点などで、マルタンの影響も見受けられるが、十二音音楽への接近は聞かれない。最初に聞いたイタリア風協奏曲の世界にそのまま繋がっているような作品だ。
そしてこの作品は様式的にずっと後の時代のイタリア風協奏曲よりもずっとモダンな響きに満ちているのだ。この時代の逆行はどんなところから出てきたのだろう。興味深いことだと思った。
録音は1993年で、オーボエのフックスやヴァイオリンのノヴァークなど、チューリッヒ在住の腕利きたちが丁々発止と演奏している。指揮者はなく、室内楽のスタイルで演奏しており、決してやっつけ仕事の録音などではなく、丁寧に仕上げられた演奏だ。

最後に1986年に書かれたチェロ・ソナタが収められている。1993年の録音でダヴィッド・リニケル(vc),カール=アンドレアス・コーリー(pf)という二人による演奏だ。演奏は丁寧だが、ここまで超一流で聞いてきただけに、演奏がかなり落ちるように感じられてしまったのは残念だ。
ミークは晩年になってピアノとチェロのための協奏曲を1984年に完成し、続いてこの作品を完成している。冒頭から揺らぐようなメロディーがチェロにいきなり現れる。決して無調の「難しげな」音楽ではないが、これをリニケルはどう演奏したいのか、全く伝わってこないのには閉口してしまった。3楽章全てが平板で、今ひとつ感興に乏しいのは辛い。ピアノもタッチはきれいなのだが、どう惹きたいの?と訊ねたくなのような平板な演奏で、アンサンブルもなんとか合わせましたという感じでは駄目だ。この録音は私は気に入らなかったが、知らない作品を音にしてくれたことに免じて**程度は進呈しよう。他は超名演ばかりで、未知のミークの作品に誘われた私は、大変幸福だった。
聞いたことのない人はぜひ一度聞いてみられることをお薦めする。ただし、前衛音楽が好きという人は厳禁。

今日、チューリッヒ交響楽団の定期でミークのピアノ協奏曲が演奏されているはずである。ピアノは私が応援している素晴らしいピアニスト津田理子さんだ。そんなことを思って、このCDを選んで久しぶりに聞いてみた。

Jecklin/JS 314-2
by Schweizer_Musik | 2005-03-30 03:01 | CD試聴記
上の写真・・・
タイトルの写真を変えて一日。北海道ですかと人に言われて、ああそんな風に見えるかと思ったので、言わずもがなのことを書かせて頂くと、これは先週まで滞在したスイスのチューリッヒ近郊の風景である。
朝、駅まで歩いていて、そのあまりの美しい雪景色にパチパチと撮りまくった中の一枚。
リコーのコンパクト・デジタル・カメラで撮ったもので、500万画素ということと、35mmフィルムに換算して28mmという広角レンズがついているということと、動画と録音ができるというのが、今回の旅行用として選んだ理由だった。
動きはかなり怪しいものの、立ち上がりの速さで、古いデジカメを凌駕していたし、インタビューも全てこれで録音し、ウィンドウズ・メディア・プレーヤー用のファイルという保存した。
フィルムで撮っていたら、今頃はその現像の代金の支払いで真っ青になっていたことだろうし、その後の整理と画像の取り込みで、数倍の手間をかけなくてはならなかっただろう。銀塩のカメラで一枚一枚丁寧に撮るよりも、メモのように撮っていた。そのため、バスの時刻表もこれで一発。地図なども大分こいつのおかげで助かった。(駅に掲示されてい観光客用の地図を写して後でどこに行ったかを見るのだ)
おかげでたった13日の滞在で3000枚以上を撮った。多い日は500枚、少ない日でも200枚弱にはなった。フィルムでは後のことをついつい考えてしまい、ここまではいかない。ブローニーのセミ版で長いロールを一日五本という程度。ということは150枚がせいぜいということなのだが、今回はその倍は撮った。
もちろん同じ所を同じアングルで何枚か撮って、失敗を防ぐことにも使ったので、種類はずっと少ない。
それでも、後を心配しないで撮りまくったおかげで、写真だけで(最大のクオリティでとったので)10GB以上になってしまった。CD−Rにして帰って来たのだが、15枚あまり。(このCD−Rは現地で手に入れた)
とりあえず、上の写真はチューリッヒ郊外の雪の日の翌朝の風景である。上下はトリミングして使っている。
以上、種明かしでした。
by Schweizer_Musik | 2005-03-29 17:16 | 日々の出来事
ある提案
ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団が、自主レーベルを立ち上げたと先日ニュースで知った。ライバルのロンドン交響楽団の成功を横目にして、やはりロンドン・フィルもやらないわけには行かなかったのだろうか。
ロンドン響の自主レーベルは好調だ。ブラームスの交響曲全集はその低価格(たった1000円あまり)にも助けられて、クラシックのCDとしては輸入盤の量販店を中心によく売れているそうだ。ライブを中心としたもので、これが現在のオーケストラ録音の中心である。クオリティは高い。何と言っても定期公演を録音しているのだから、一生懸命リハーサルをしての演奏であるわけで、悪いわけがないのだ。
これを録音セッションとしてオケを別日に集めて録音したら、ホールの使用料を含めて、とんでもないことになるだろう。そしてそれが売れなかったら・・・。今はこんな近視眼的発想が主流なのだ、悲しいことに。
こうしたリスクをライブ録音にすれば、かなり避けられる。そしてCD化。
でも考えてみたら、何故CDにするのだろうか?ネットにその録音をダウンロードできるようにして置くだけで、CDを作って売るという問題からも解放されるのに。今はもうオンデマインドの時代だ。個と取引していく時代なのだ。なのに大きく作って在庫をかかえるリスクに患わされることのない、ダウンロードは大いに検討すべきではないか?ただ、問題は、JAS○×△がその足枷になっているだけだ。何しろみんな直販になってしまうと、彼らの存在意義である使用量の徴収が必要なくなるわけで(実際に仕事がなくなるはずがないのだが・・・)、コピーが出回ると著作権が保護できないと言って、これに反対するからだ。
CDのコピー・コントロールと言い、輸入盤への規制強化(規制緩和の時代に・・・変だなぁ!!)を強行するJAS○×△であるから、時代に敏感な組織とも思えず、時代に逆行するようなことをやってしまうのだろうな。
さて、そんなお馬鹿さんたちのことは無視することにして、海外からどんどんダウンロードできるようにして、新しいレパートリーを廉価で販売しダウンロードさせていくと良いだろう。そうすれば、第2のナクソスが生まれる。CD一枚分の内容が1000円。ということは、それが60分から70分で1000円ということで、30分ほどの交響曲や協奏曲が500円以下が基準となるだろう。10分以下の作品ならば、100円程度から200円程度にすればよい。そうすれば現行のダウンロードに勝てる。

先週、スイスから帰ってきたばかりだが、あの国はCDが高すぎる。廉価盤が一枚2000円以上で、レギュラー盤が3500円ほどもするのだ。まぁ、東京が高いとか言われるが、スイスほどのこともなく、レストランで食べても定食の安いものでも1000円以上は必ずし、ちょっと食べるとすぐに2000円を超え、ワインの250ccボトルの安いのを一本つけてサラダでもつければ4000円でおつりがちょっと来る程度。どうです?信じられないでしょう?
所得が日本よりも高いこの国では、これが当たり前。だから、CDなどの文化的なものも高いのだ。この国を基準にして売ろうとしても、多分どこの国も反応できない。
イギリスの自主レーベルもその辺りはよく見ているようだ。それでいて、多くのクラシック音楽のCDを購入することでは、イギリスとともに日本は実に多い。ヨーロッパ大陸ではそれが激減するので、スイスのようになるのではないかと、私は思うが・・・。

日本では廉価盤が1000円をきっている。レギュラー盤でも輸入盤を中心に最近は高いが、それでも2000円程度だ。だから値段は安く設定する戦略的な考えが重要だろう。解説は作曲者の簡単な紹介(これは一人の作曲家に一つあれば十分、使い回しをすればよい)、楽曲の簡単な紹介、そして演奏データ(録音年月日、録音会場、主要なレコーディング・エンジニア、機材、プロデューサー、オルガンなどのホール、会場のものを使った場合はその楽器の情報、リリース日)があれば、完璧だろう。
標準で英語とドイツ語、フランス語とイタリア語で書かれていればいいのではないか。日本語は、私はあればありがたいが、グローバルな視野で見た場合は必要かどうかは疑問。
こんな風になれば、現行のレコード会社は録音エンジニアとデータを変換するサービスを提供する形に変化するだろう。少なくともクラシック音楽の分野では、それで十分だ。
音楽批評やCD関連の情報誌は、大きく様変わりすることだろう。何しろデータがアップされる情報だけなのだから、スピードが速くなくてはならない。そうすれば、紙という媒体では乗り遅れてしまう。情報はブログを中心にすぐに駆けめぐるようになり、批評も数多くの素人批評家(私もその中に入る)がどんどんやっていく。情報の内容はそれにより淘汰され、新しい流通の仕組みが数年も経たないうちに出来上がってしまう。
私はそうなるのではないかと思うし、そうなってほしいとも思う。CDというメディアはもう時代の中でその容量の少なさへの問題の顕在化と、経年変化で聞けなくなる時期が来ていることで、そろそろ葬式を出さなくてはならないと思われる。ポピュラー音楽ではすでに映像(DVD)つきでシングル盤が普通に売られている時代なのだ。ブロードバンドが世の中を変えてしまった。
古いメディアの盟主は、次世代のメディアにその座を明け渡す時代になったのだ。そんなことはニッポン放送の問題を見るまでもないだろう。(私はライブドアは嫌いだ、ただフジテレビはもっと嫌いなだけだ)
業界に住む者としては、ちょっと言い過ぎたかなぁ。
by Schweizer_Musik | 2005-03-29 16:35 | 音楽時事
ベルンのミュンスターのオルガンを弾くバリーの名演集 *****(特薦)
c0042908_15473756.jpgクーン社が自ら出しているCDで、ここのクーン社のホームページから購入できるようだ。但しドイツ語のみ。私は先日、ベルンのミュンスターで購入したが、こちらの方が10フランほど高かった。何故?
ハインツ・バリーが弾いている。彼のCDは昔、CD初期の1980年代にDENONレーベルから出ていたので知っていた。そのCDはスイス東部、フラウエンフェルトの教会のメッツラー・オルガンにて録音されたものだった。先日このオルガンも見てきたというか、ミサの最中だったので、町と教会を見てきた。
ベルンの方は、尖塔の工事が終わり(何年やっていたのだろう・・・)、私にとって念願だったミュンスターの中を見てきた(何度もベルンに行きながら、時間などがうまく合わず、今回ようやく内部に入った。
プロテスタントの教会らしく、チューリッヒのグロス・ミュンスターとともに内部に装飾の何もない教会であるが、新しいオルガンが光り輝いていた。
ハインツ・バリーは1941年のベルンに生まれ、ベルンの音楽院で学んだスイスのオルガニストだ。パリでマリ=クレール・アランやウィーンのアントン・ハイラーのマスター・クラス、あるいはタリアヴィーニのマスター・マラスで学んだとあるが、1990年からベルンのミュンスターのオルガニストとして活躍しているオルガニストだ。
冒頭の聖アンのフーガで名高いバッハのBWV.552の華麗な演奏は、聞く者の心をわしづかみにする強靱さをもっている。オルガン・ミサの前後で演奏されることも多い作品ではあるが、こうしてこの曲だけ取り出して聞くのは久しぶりだ。バリーの演奏は深いタメが印象的な前奏曲と、立体的な構造が浮き彫りとしたスケールの大きなフーガとともになかなかの名演だ。私個人としては、ザンクト・ウルバン修道院付属教会のボッサール作のオルガンによるジークフリート・ヒルデンブランドの録音(TELDEC/0630-12322-20)と、若いライオネル・ロッグがバーゼル近郊のアーレスハイムの大聖堂のジルバーマン制作のオルガンを弾いたハルモニア・ムンディ盤の方が更に素晴らしいものと思う。リヒターは直裁であるが、全体のふくらみに不足し、迫力はあるもののやや刺激的すぎるし、ヴァルヒャの好々爺風の演奏ではスケールはあるが迫力がなく、私のこの作品に対するイメージにどうしても合わないのだ。両方ともそれなりに立派な演奏には違いないのだが・・・。
ヒルデンブランドの演奏とともに好んでいるもう一つの演奏は、ジュネーヴの大聖堂のオルガニストであったピエール・セゴンの演奏(GALLO/CD-246)である。1979年の録音であるが、深い呼吸で、とてつもないスケールでこの作品を演奏している。ここのオルガンは確かメッツラーのものだったと思うが、記憶違いかもしれない。
さてバリーの演奏はこれらの演奏に比べても全く聞き劣りしない。ややセゴンなどの名演に比べるとフレーズのタメが浅く、スケールが少し小さいと思わないこともないが、最新の録音の中ではチューリッヒのグロス・ミュンスターのオルガニストであるシャイデッガーの弾いたこの作品などとともに推奨できる名演である。特に前奏曲での対位法的な書法を、表情を細かく描き分けながらも全体像を見失わないことにより、非常によくまとまっていること、フーガでの声部の描き分けが見事であることは高く評価したい。
続くメンデルスゾーンのオルガン・ソナタは前任者のハインリッヒ・グルトナーの演奏(claves/CD 50-715)と聞き比べられて面白かった。この演奏は1977年の録音であるが、バリーのものは2000年。23年たったベルンの大聖堂でどういう音楽が鳴り響いたか興味をひく。
総じてバリーの方が華やかな音色を選んでいて聴き応えはある。グルトナーはどちらかというと地味な音色というか、ストレートであまり色々と混ぜていない音色が選ばれていて、素直で素朴な味わいである。ただ、私はバリーの華やかな演奏にも心惹かれるものの、グルトナーの演奏に実に味わい深いものを感じ、こちらの方を私のファースト・チョイスとしたい。2番手がバリー盤であろう。
ナクソスにステファン・タープの演奏でこの作品があるが、サラサラ演奏されていて、私には何が良いのかさっぱりだった。メンデルスゾーンはこの作品にヘ短調という悲劇的な調性を選んでいる。順次下降する主題は、まさしく受難の音楽だと私は思うのだが、まちがっているだろうか。
続くマルタンのパッサカリアは、私はいくつか聞いているが、この演奏にとどめを刺す。テンポも極めて妥当であるし、音楽の悲劇性を十分に表現して余すところがない。1944年、大戦中に書かれたこの作品は戦後、弦楽に編曲されてアンセルメなどの名演が残されていることは有名な話。しかし、私はこの作品はオルガンで聞くのが最も良いように思う。バリーは見事な演奏設計により、スケールの大きな名演を繰り広げている。
最後にリストのバッハの名による前奏曲とフーガ G.260 (1855/1870改訂)が演奏されている。この曲の最も直裁な演奏は1963年ミュンヘン、ヘラクレスザールで録音されたカール・リヒターの演奏だろう。ただあまりに厳しいテンポで一気に演奏されるそれは、私にはちょっと辛い。ロマンのふくらみというか、音楽に余裕がほしい気がする。カール・リヒターは天才だ。ただ、いつも聞くのは辛い。その点、サン=サーンスのオルガン全集をだしているブライヒャーのリスト・オルガン全集(オルガンはザンクトガレンのクーン社のオルガンが入ったリンセビューリ教会のものを使っている)によるもの(ARTE NOVA/74321 59199 2)や、チューリッヒのグロス・ミュンスターのオルガン奏者ルドルフ・シャイデッガーの録音(Die Orgel Im Grossmunster/TSO 98206)が良いと思っていた。
バリーはシャイデッガーやブライヒャーのロマンチックで豊かな演奏に、よりカール・リヒター風に強靱さを加えたもので、理想的なものとなっている。何しろスケールが大きい。テクニックについては全く問題なく、深さ、優しさ、広がり、そして強さ!が十分に表現されている。レジストレーションは専門家でない私が批評できるものではないが、大変適切であると思う。録音もこれが最もよく、バッハとメンデルスゾーン以外は私の知っている最高の演奏だと評価したい。バッハとメンデルスゾーンは****(推薦)であるが、マルタンの決定的名演とリストの理想的な演奏によって*****(特薦)としたい。
全く素晴らしいCDだ。ベルンのミュンスターに行った時に衝動買いした一枚だが、直感は当たっていた・・・。

Verlag Orgelbau Kuhn/OBK 2000
by Schweizer_Musik | 2005-03-29 15:48 | CD試聴記
スイス・ロマンド管にヤノフスキ就任
c0042908_10455223.jpg2005年の9月からのスイス・ロマンド管弦楽団のプログラムが発表され、新しいシェフに就任するヤノフスキによるコンサート・プログラムがスイス・ロマンド管弦楽団のホームページに載っていた。
トップは記者会見の写真が載せられていたが、ようやく就任となった。
新シーズンは、ラドゥ・ルプーやエマニュエル・アックスといったソリストとのベートーヴェンや、かつてフランス放送フィルハーモニーのシェフだっただけあって、フランスものとしてドビュッシーも含めてのプログラムが組まれている。
ヤノフスキのブルックナーは定評のあるところだが、新シーズンで第4番が予定されている。交友あるデュティユーもフランス放送フィルハーモニーの退任記念盤ともいうべきセットに入っていたが、新シーズンでも取り上げられている。
得意のレパートリーを選んだといったところか。
スイス・ロマンド管弦楽団は、大劇場のオペラの上演でピットに入るのだが、これもまたデビュー盤がワーグナーのリング全曲だったほどのヤノフスキ。期待はふくらむばかりだ。彼らの更なる活躍に期待し、日本のファンにもその演奏を聞かせてほしいものだ。
by Schweizer_Musik | 2005-03-29 10:47 | 音楽時事
サン=サーンス/交響曲 第3番 ハ短調「オルガン」他 *****(特薦)
c0042908_19101110.jpgダニエル・シュヴァイツァー指揮チューリッヒ交響楽団は、オルガンとオーケストラのCDを数多く作っている。我が家にも何枚かあるが、この分野では最も多く録音していると言うが、さもあろう。こうしたジャンルの作品と言えばサン=サーンスの作品以外にどれだけ知っているかと言われれば、私もまことに心許ないところだ。最近聞いたものの中では、イタリアの作曲家ボッシの作品があるが、それもいずれ取り上げたいと思っている。
さて、このCDにはサン=サーンスの有名すぎるほどの交響曲第3番と彼のオルガン・ソロ作品が2曲と、同時代のフランスの作曲家、ギルマンのオルガンとオーケストラの作品2曲を収めている。
この演奏は、シュヴァイツァー氏の指揮の特徴がよく出ているように思う。彼は近視眼的に細かな変化をことさら強調して、聞く者の注意を惹くような演奏と対極にあるのだ。音楽を大きくとらえて長いスパンで大きなうねりを作っていく。その過程での細かな表情にも注意を払いながらもオーケストラは実によく歌う。木管など(特にオーボエ!!)の表情豊かな演奏は、オーケストラの自発性を自然に引き出しているものと言って良いだろう。
シュヴァイツァー氏は、ブルックナーの交響曲のようなスパンの長さで、この効果的でワクワクするような華麗な交響曲を演奏しているのだ。だから外面的な効果はさほどなく、比較的地味ではあるがまことに内容の濃い演奏になっている。
第1部の冒頭の序奏が終わり、アレグロに入ると、弦楽のさざ波のようなテーマに木管が絡んでいくところがすぐに出てくる。ここで、微妙に木管はテンポを広くとって伸びやかに歌う。これは他の演奏では聞けないものだ。そして、次第に盛り上がっていくのだが、彼は決して急がない。音楽のクライマックスを常に意識しているのだ。だから、これ見よがしの細部の強調などシュヴァイツァー氏は目もくれずに、サン=サーンスのスコアに真っ直ぐに迫っていく。
第1部の後半のゆったりとしたところでオルガンがチェロのメロディーの背景を彩るが、シュヴァイツァー氏の盟友ともいうべきメルダウ氏のオルガンが聞ける。ここのバランスは見事としういかない。オルガンはトーンハレのもので、私も実演で聞くことができたオルガンだが、柔らかな音色で背景にぴったりと収まっている。
ところで、このオルガンについて、シュヴァイツァー氏は、スイスにはメッツラーやクーンといった優れたオルガン・ビルダーが存在するというのに、トーンハレはドイツのものを入れたということで、ちょっとしたスキャンダルだったそうだ。決してこのオルガンが悪いということではないのだが。
穏やかな第2テーマに第1テーマの動機がピチカートが絡んでいくところも、バランスは理想的で、音楽はとてつもなく息が長い。聞いていて、これがサン=サーンスだということを忘れそうになってしまった。
第2部の冒頭は、気合い一発で入る演奏が多い。ミュンシュなど迫力満点だった。シュヴァイツァー氏もやろうと思えばできたはずだ。しかし、彼は音楽の重心をもっと後半に置いている。このためミュンシュやマルティノンを聞き込んだ耳には、とても重心の低い音楽に聞こえてくる。ここでのピアノはクレジットはないが、津田理子さんだとうかがった。
後半、オルガンのフォルテで大きなフィナーレが作られるが、派手になりすぎないが、ここぞというところでは、深い呼吸で大きなクライマックスを築く。フガートで盛り上がる最後の数分は、サン=サーンスのこの作品が実際以上に素晴らしい作品に聞こえてきた。
最初、ちょっと物足りないかなと思っていると、そのうちに心奪われてしまうという演奏。得難い敬虔だった。
続いてサン=サーンスのソロ作品が2曲演奏されている。
前奏曲とフーガはヴィンタートゥーアの市教会のクーン社が大幅のリストアした大オルガンでブライヒャーが弾いた(ARTE NOVA/BVCE-9711-14)を持っているが、メルダウ氏の演奏はそれよりもずっとキビキビとしたテンポで、生き生きとしたリズムを表現している。フーガでの立体感も素晴らしいものだ。ブライヒャーの演奏はあの残響のものすごい長い教会での録音ということも考慮しなくてはならないだろう。メルダウ氏も自身がいつも弾いているエンゲ教会での演奏であれば、もう少し違ったテンポをとっていたのではないかと想像する。トーンハレの響きを考慮した結果であり、この演奏はそれを生かして素晴らしい成果をもたらしている。
幻想曲第3番はブライヒャーのオルガンでシャフハウゼンの聖ヨハネ教会のオルガンで演奏されている。教会の響きはよく似ているものの、オルガンが違うためか、ずいぶん違った感じを受ける。メルダウ氏はこの曲では逆にゆったりとした幻想曲としてとらえているようで、解釈の対比を私は味わった。どちらが正しいなどというほどの曲に対する知識は私にはないので、この位にしておきたいが、後半はキビキビとして大きな対照をつけることで、鮮やかな印象を与えたメルダウ氏を高く評価したい。
続いてギルマンのオルガンと管弦楽のための幻想的行進曲とオルガンと管弦楽のためのシューマン風の終曲が演奏される。十九世紀中頃から後半にかけてフランスで主に活躍したオルガニスト兼作曲家である。バリのサン=シュピルス教会やノートルダム大聖堂のオルガニストを歴任したと私の持っている辞書には載っているが、彼はヴィエルヌやデュプレなどを育てたことで記憶されているが、私はその作品はそう聞いていない。
幻想的行進曲は前半の序奏部分と行進曲部分に分かれるが、オルガンがとても活躍する曲というより、オーケストラ作品にオルガンが使われているという印象が強い。もっともこの点についてはサン=サーンスも同じだ。
メルダウ氏は目立つ派手な音色のレジストレーションは最後にとっておいて、最初はオケにうまくなじんでいる為、オルガンはいるの?と思ったりする。オルガンよりも、序奏部でのべつまくなしに使われているハープの方がずっと印象に残る。
シュヴァイツァー氏とメルダウ氏は、最後のクライマックスを目指して、抑え気味にはじめ、次第に大きな大きなクライマックスに至る設計で聞かせる。
オルガンと管弦楽のためのシューマン風の終曲は、確かにシューマン的な主題を持っていて、カーニバルか何とかの情景のどこかのメロディーのようなシューマン風のテーマによる作品。ちょっとシューマンの交響曲のようにも聞こえなくもない。こちらははじめから力強いオルガン・サウンドがオケと絡んでCDの最後の曲にふさわしい華やかな効果をあげている。
愉しい、そして内容のある一枚だった。19世紀のフランスのオルガン楽派のルーツのような部分が選ばれているが、ギルマンの作品も大変興味深い一枚であった。当然*****(特薦)だ。私の愛聴盤になることだろう。ぜひお薦めしたい。オケのHPからも注文できるし、アマゾンなどでも買えるので、ぜひ!!

MOTETTE/CD 40231
by Schweizer_Musik | 2005-03-28 19:11 | CD試聴記